聖徳太子





§聖徳太子§

 よみ:しょうとくたいし
 年代:574年〜622年(推古30)2月22日
 時代:飛鳥時代
 父親:用明天皇
 母親:穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメコ)
 本名:厩戸皇子(うまやどのみこ)・上宮王(うえのみやのおおきみ)・豊聰耳命(とよとみみのみこと)




多くの逸話と謎に包まれている聖徳太子について年表を参考にしながら考察してみまよう
※(赤色文字はクリックすることで詳細を見ることができます。)


略年表

538(宣化3)年:百済聖明王より仏像・経論がおくられ、仏教が伝わる(欽明13年:552という説もある)

574(敏達3)年:用明天皇の皇子として生誕(厩戸皇子

586(用明元)年:用明天皇、法隆寺と薬師仏の造立を発願

587(崇峻元)年:4月用明天皇発病、崩御。蘇我馬子物部守屋を討滅。厩戸皇子、守屋討伐に参加。
           四天王寺を発願。

589年     :隋が中国を統一

592(崇峻5)年:11月、馬子、崇峻天皇を殺害

593(推古元)年:厩戸皇子、大阪(難波)の荒陵(現:大阪市天王寺区)に四天王寺を着工する

593(推古元)年:厩戸皇子が立太子して推古天皇の摂政となる

595(推古3)年:高句麗僧慧慈(えじ)が渡来し、帰化して太子の師となる

596(推古4)年:11月法興寺完成し、慧慈らが住す

600(推古5)年:第一次遣隋使派遣

601(推古9)年:聖徳太子、斑鳩宮を建立

602(推古10)年:太子の同母弟来目皇子を撃新羅将軍に任命

603(推古11)年:太子の異母兄当麻皇子を征新羅将軍に任命

           同年秦河勝、峰岡寺(広隆寺)を造る

603(推古11)年:12月冠位十二階を制定

604(推古12)年:4月憲法十七条を制定

605(推古13)年:10月太子、斑鳩宮に移る

606(推古14)年:太子、天皇に勝鬘経を講義

607(推古15)年:法隆寺創建、用明天皇のために、金堂薬師如来座像を造願

607(推古15)年:7月小野妹子を隋に派遣(遣隋使)国書を煬帝に奉呈

611(推古19)年:勝鬘経義疏を撰す

613(推古21)年:維摩経義疏を撰す

614(推古22)年:6月第四次遣隋使。8月蘇我馬子発病

615(推古23)年:法華経義疏を撰す、11月慧慈帰国

618(推古26)年:隋の煬帝が殺され唐が興る

620(推古28)年:馬子と議し、天皇記・国記を記録

621(推古29)年:太子、生母死去

622(推古30)年:橘大娘女、太子のために天寿国曼陀羅繍帳を造る

622(推古30)年:太子、斑鳩宮で薨去(49歳)

628(推古36)年:推古天皇御崩御

641(舒明13)年:舒明天皇崩御

643(皇極2)年:蘇我入鹿・軽皇子(孝徳天皇)により山背大兄一族滅亡

645(大化元)年:大化改新(蘇我氏滅びる)

647(大化3)年:9/21日法隆寺に食封300戸施入

670(天智9)年:法隆寺炎上

708(和銅元年):法隆寺再建

710(和銅3)年:平城京遷都




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