蘇我馬子(うまこ)





●574年〜626年5月20日
●蘇我稲目の子。嶋大臣(しまのおおおみ)とも称す。
●敏達元年(572)四月に大臣に任ぜられた。
●七世紀の政治家で仏教興隆政策に力を入れ(のちに飛鳥寺を建立)、排仏を提唱していた物部守屋らと激しく
 対立していました。

 用明天皇が崩御すると、有力な豪族との連合軍を率いて物部守屋を渋川の家に追いつめこれを倒しました(用
 明天皇二年:587七月)。崇峻天皇を擁立。(崇峻即位前紀)
 崇峻五年(592)十月天皇を殺し、推古天皇を即位させ、その後法興寺を建立し、聖徳太子と強力して
 仏教興隆策をすすめました。
 太子没後は横暴な振る舞いが多くなり、推古天皇三十二年葛城県(かつらぎのあがた)を求めて推古天皇と
 対立するなどして、朝廷内における蘇我氏を孤立させていくことになりました。
 推古天皇三十四年没、桃原墓(石舞台古墳)に葬られた。



蘇我蝦夷(えみし)





●七世紀の政治家で父は蘇我馬子
●父についで大臣となるが余りにも消極的な性格であったために蘇我氏の勢力を弱める振る舞いがおおかっ
 た。
 推古天皇が崩御すると田村皇子(後の舒明天皇)を推して山背大兄皇子を支持する勢力と対立し、その中心
 人物であった境部真理勢を倒して舒明天皇の即位を実現させた(舒明即位前紀)
 晩年は子供の入鹿に政権を譲ったが中大兄皇子が入鹿を暗殺。朝廷の有力者が皇子についたのを知ると、
 宝物・記録などを焼いて自殺しました。



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