小野妹子





●七世紀の外交官。中国人は蘇因高(そいんこ)と呼ぶ。
 推古15年に鞍作福利(くらつくりのふくり)と共に、最初の遣隋使として隋に渡った(推古紀15年7月条)
 この時、妹子が持参した国書が隋から見ると大変無礼なものであったために、隋の皇帝:煬帝は大いに怒った
 が、日本との親交を結ぶ必要を感じていたので、裴世清(はいせいせい)を妹子に付して翌年日本に送った。
 日本の朝廷は裴世清を手厚くもてなし、その年、裴世清の帰国に当たって、
 小野妹子と吉士雄成り(きしおなり)とを第二次遣隋使として隋に伴わせた。


※雑談
妹子:「こんにちは。小野妹子です。」
月下:「あらっ・・妹子さんて男性だったのですか?」
妹子:「あたりまえじゃ。名前で判断されては困るぞ!!」
月下:「失礼しました・・・ところでどうしたのですか?」
妹子:「まぁ、聞いてくれや。おいらは隋に行ったらいきなり煬帝っていう一番偉い人に怒られたんだ。」
月下:「どうして、そんなに怒られたのですか?」
妹子:「いやな、聖徳太子が渡してくれ、と言った手紙を渡したらそこに、日出ずる処の天子、書を日没する処の
    天子に致す。云々〜」と書いてあったものだから煬帝さんが怒ったんだよ」
月下:「なるほど・・つまり私は日が昇る国のエライ人で、あんたは日が沈む国のエライ人。どうだね最近の調子
    は?・・みたいな内容なのね」
妹子:「まぁ・・そんなところじゃが、おいらだってこんな内容なら怒るよ」
月下:「それで煬帝さんは何と言ったのですか?」
妹子:「むちゃくちゃ言われたけど・・帰る時に手紙をもたされたのじゃが
    そのまま聖徳太子に見せるわけにもいかないから、なくしてしまいました・・って返事をしたんじゃよ」
月下:「えっ・・(ё_ё)。でも・・どうして聖徳太子さんはそんな内容の手紙をかいたのかしら?」
妹子:「おいらが思うに中国とは親分・子分の関係だったから対等な立場で外交しようと考えたんじゃあないか
    な?実際この頃の随は高句麗と戦争中で国内の治安はぼろぼろだったからなんとかなるって
    かんがえたんじゃあなかろうかな」
月下:「なるほど・・そうだったんですか。でも・・実際に11年後には随は滅びてしまいましたよね」
妹子:「そうなのじゃ。でも、そうは言っても少し高飛車すぎたように思うぞ。おかげでおいらがどれくらい怒られて
    困ったことか・・宮仕えの辛いところじゃが・・」
月下:「そうですか・・それはご苦労様でした」
月下:日本書紀には随からの返書を小野妹子が百済人に盗られたと書かれていますが・・
    色々な説があるようですね



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