法隆寺





法隆寺は聖徳宗の総本山で正式名称は法隆学問寺と称し、別称:斑鳩寺・鵤僧寺ともいわれる南都七大寺のひとつです。
創建以後ながく三論、法相両宗の兼学道場であったが、明治維新後には法相宗を、そして現在は聖徳宗が開かれています。

法隆寺創建までの時代背景


”國のまほろば”大和(奈良)の斑鳩の里、此の地に法隆寺は創建されています。

仏教が我が国の古代朝廷に公伝されたのは、欽明天皇十三年(552)のことでした。
当時の人々は金色に光り輝く異国の神、仏像を見て畏敬の念とある種の恐怖感とが交差する複雑な気持ちで接していたことと思われます。
以来、仏教は厩戸皇子(聖徳太子)の尽力で【国家仏教】としての性格を持ち広く普及されるようになりました。
推古天皇元年(593)四月、太子は摂政となり大臣蘇我馬子とともに国政にあたり、翌二年太子が【三宝興隆】の詔(みことのり)を発してから我が国における国家仏教としての位置づけが確立されたといえます。

さらに、太子はのちに(推古天皇十二年)に【十七条の憲法】を発布し、その中でも『篤く三宝を敬え』と説き、仏教信仰を広くすすめ、仏教の理想を掲げることによって、互いに相争う諸氏族の間に調和をもたらし平和を実現させようと考えたことに外なりません。

この仏教の教えとともに、はるか彼方の地よりシルクロードを通ってもたらされた文物・技術なども忘れてはなりません。太子は仏教の教えを重視し小野妹子を国の代表者として随へ派遣し、先進国の優れた文化を学び、導入しようと考えました。

斑鳩の里は大和川に沿って河内へ至る道が、やがて竜田越し差し掛かるすぐ北にあり、大和と河内を扼する地です。
そしてこの斑鳩の地に新宮殿を造営し(推古九年:601年)移り住んだのは推古天皇十三(605)年のことです。日本書紀には『冬十月、皇太子、斑鳩宮に居(ま)す』とあります。太子28歳のときでした。

時期をほぼ同じくしてこの斑鳩の地に寺院を造営させました。これが【斑鳩寺】です。この寺院については『日本書紀:推古天皇十四年(606)是歳条』に「皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きさに喜びて播磨國の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」と明確に記されています。

さらに推古天皇十五(607)年に【法隆寺】が創建されました。


法隆寺関連の略年譜


時代 出来事
飛鳥・白鳳時代 574 聖徳太子生まれる
601 斑鳩宮完成
607 法隆寺建立。遣隋使派遣
622 聖徳太子薨去
623 金堂釈迦三尊像を造る(推古天皇)
643 蘇我入鹿、斑鳩宮急襲・太子一族滅ぶ
670 法隆寺(若草伽藍)焼失
奈良時代 711 西院完成
739 行信、夢殿造立
平安時代 925 講堂焼失
989 上ノ御堂崩壊
1121 聖霊院新造
鎌倉時代 1284 聖霊院改築
1318 上ノ御堂再建
室町時代 1483 南大門再建
江戸時代 1605 慶長大修理(豊臣秀頼)
1696 元禄大修理(徳川綱吉・桂昌院)
昭和・平成 1934 昭和大修理始まる
1941 大宝蔵殿完成
1949 金堂壁画焼失
1968 金堂壁画再現
1985 昭和大修理終了
1993 ユネスコ世界文化遺産登録



法隆寺伽藍


●西院伽藍

 ・南大門(なんだいもん)
 ・中門(ちゅうもん)
 ・金堂(こんどう)白鳳時代・国宝
 ・五重塔:白鳳時代・国宝
 ・回廊(かいろう)白鳳時代・国宝
 ・大講堂:平安時代・国宝
 ・鐘楼(しょうろう)
 ・経蔵
 ・上御堂(かみのみどう)
 ・西円堂(さいえんどう)鎌倉時代・国宝
 ・三経院(さんぎょういん)
 ・聖霊院(しょうりょういん)
 ・西室
 ・東室:奈良時代・国宝
 ・弁天社
 ・妻室  ・綱封蔵(こふうぞう)
 ・食堂(じきどう)奈良時代・国宝
 ・細殿
 ・百済観音堂
 ・宝蔵殿
 ・東大門

●東院伽藍

 ・夢殿:奈良時代・国宝
 ・礼堂(らいどう)
 ・舎利殿
 ・伝法堂
 ・絵殿


法隆寺には国宝・重要文化財に指定されている建築だけでも53棟あり、彫刻265点、絵画・工芸・書籍などは1552点にものぼる。


法隆寺伽藍建立時の時代背景


 現在の法隆寺西伽藍は天智天皇九年(670)に斑鳩寺が落雷により焼失した(日本書紀に記載)後に、場所を変えて建立されたものとされています。
現在の南大門の東の寺跡を若草伽藍と呼び、礎石が置かれています。
また、現在の金堂や東室の礎石及び石垣の一部にも若草伽藍の礎石が使われています
若草伽藍の発掘調査で一応法隆寺再建説が通説として落ち着いていますが、金堂に安置されている仏像の台座などの資料から、実は火災から救出された仏像を安置させるために、急遽造営されたものである、という新しい説が出てきています。(同時併存説)
焼失した寺院斑鳩寺(旧、法隆寺)は塔と金堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式でした。
 そして現在の西伽藍は斑鳩寺の北西の丘陵地を切り開いて造営されたもので、初めに金堂が造られ天武天皇朝になって(和銅四年:711年)五重塔・中門が建立されたと考えられています。

 またこれは『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の記載事項にも記録されており、天平十九年(747)二月十一日の日付があります。
そして創建縁起と資財が記録されており、続いて寺が所有する調度品・仏具・所領などが細かく記録されています。
さらに、用明天皇のために丁卯年(607)に推古天皇と聖徳太子の二人が法隆寺を造営し、併せて四天王寺・中宮寺・橘尼寺・葛城尼寺・池後尼寺・蜂丘寺を造ったこと、大化三年(647)に許世徳陀臣が食封三百烟を施入したことなどなど・・色々なことが詳しく記載されています。
資財帳というのは国家からいくらの財貨をもらい、それをどのように保管使用したかを記録しておくもので、反物の長さ、数量その他克明に事実を記載することが義務づけられています。言い換えれば国家からの税金(?)のようなものの出納帳だと考えてください。よって事実が記載されていると考えられています。


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