え じ
 慧慈 





推古天皇三(595)年に高句麗(高麗コマともいう)より来朝し、同四年に当時最も有力であった法興寺に住した。
厩戸皇子は慧慈を師と仰ぎ仏典を学んだ(推古紀元年四月己卯条)。
慧慈は推古天皇二十三(615)年に帰国しますが、太子の死を聞いて悲しみ、太子の命日と同日に自分も没することを願いその通りになったと云われています。
『釈日本紀』が引く伊予温湯碑には太子と慧慈が伊予に旅行したことが見えます。


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