聖徳太子の名前





厩戸皇子

 ●欽明天皇32年(571)元旦元日、穴穂部間人皇女の眼前に、金色に光り輝く僧侶が現れ
  「我に救世の願有り。暫し皇女の胎に宿る。」と告げた。
  皇女が同意すると口の中に飛び込んだ。
  八ヶ月の時点で胎児の声が外に聞こえ、橘豊皇子(のちの用明天皇)は驚いた。

  敏達天皇元年(572)元旦元日、皇女が宮中の役所を巡回監察していたとき
  馬官(うまのつかさ)のところで急に産気づき、厩戸で赤子を産み落とした。
  陣痛がなく皇女は自分が産み落としたこともわからなかったという。
  赤子は片手に小豆ほどの仏舎利(ブッタの遺骨)を握っていた。

  このために厩戸皇子と名付けられた。  -『日本書紀・推古紀』出-

 ●「厩戸に出でましし時、たちまち上宮王を生みましき」 -『上宮聖徳法王帝説』記-
  厩戸という地名の土地に来ていた時に産気づき、かのちで出産した・・・と記されている。

 ※いずれにしても名前の由来を説明する説としてはイエス・キリスト誕生伝承と似通っている。
  西洋の故事が西域→中国→八世紀初め(つまり日本書紀・上宮聖徳法王帝説が書かれるころ)
  伝来したと考えられている。
  この学説は明治の歴史学者久米邦武が唱え、家永三郎氏に受け継がれている学説である。

上宮王

 ●読み方が2種類の説がある。
  「うえのみやのおおきみ」と「かみつみやのおおきみ」
  その由来ははっきりとしており、父(用明天皇)が太子の住まいを
  自分の宮殿の南にあたる「上大殿(かみつおおどの)」に与えたからである。

豊聰耳命

 ●この名前については字を逆さまにして「豊耳聰命(とよとみみのみこと)」とすることもある。
  「聰」は「聡」で「さとい」「かしこい」の意味であるが、「耳」を何故つけたのか?

  「10人の訴えを聞き分ける耳と聡明さをもっていた」この伝承が根拠になっている
  これは『日本書紀』に記されている話しで『上宮聖徳法王帝説』では何故か8人になっている。

  いずれにしても初めに「豊聰耳」あるいは「豊耳聰」の名前があり、あとから名前の由来を説明するために
  このような伝承がうまれた可能性があります。

 注)聖徳太子という名称は太子の死後、かなり経ってからつけられた名称で
   仏教を興隆した功績を称え「聖徳」の名称が与えられ、皇太子であったため「太子」がつけられ
   聖徳太子という名前になった。
   この呼び名が一般化したのは平安時代半ば以降であり
   『聖徳太子伝暦』という書物が流布してからのことです。

   「聖」は知徳が高く、万人の師範と仰がれる人を意味示す。
   「徳」は心が清く全ての行いが人の模範とするに足りる、また精神的・物質的に人を救済する善行を意味示す。




聖徳太子と陰陽道





●推古天皇の摂政として国政に従事していた厩戸皇子(聖徳太子)は大陸文化を積極的に取り入れていました。
 推古天皇10(602)年に、百済の僧『観勒(かんろく)』が遁甲書・天文地理書・歴史書・方術書を携えて来訪し
 ました。
 日本書紀の記述によると、遁甲・天文は大友村高聡(おおとものすぐりこうそう)に、歴史は陽胡史(やごのふび
 と)の祖玉陳(たまふる)、方術は山背臣日立(やましろのおみひたち)が、それぞれ習ったとされています。

 これが我が国における陰陽道の幕開けとなったのです。
 さらに厩戸皇子の命を受け留学した僧旻(そうみん)は陰陽五行の学術書を持ち帰り、中臣鎌足・蘇我入鹿ら
   は競って学んだと云われています。

●推古天皇28(628)年12月21日、厩戸皇子の母(穴穂部間人皇后)が崩御された際に『天に赤い気がある。
 長さ一丈余り。形は雉(きじ)に似ている』とあり、すでに天文観測が行われていたことが伺えます。
 天文道において赤い光は賊の起こる兆候とされ、青い光は破亡を表しています。
 また天智天皇(中大兄皇子)は斉明天皇6(660)年に飛鳥に漏刻(水時計)を日本で初めて作成しています。
 これが明日香村にある水落遺跡の経緯です。

●治世4(676)年に『陰陽寮』として官僚機構に取り入れられ日本初の占星台が作成され、その後陰陽師【安倍
 晴明】の登場となります。


陰陽道についての詳細は別記載項目『陰陽道』を参照してください




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