冠位十二階





当時の時代背景

●大和王権が成立した5〜6世紀の時代は天皇(大君・大王)のもとに、最高位の執政官として大臣(おおおみ)
 大連(おおむらじ)が任ぜられ、大夫(おおまえつぎみ)という官僚群を率いて行政を行っていました。
 大臣は臣という姓(かばね)をもつ一族の代表という意味で、大連は連系族の代表者でした。

 大臣に任ぜられた一族は葛城臣(かつらぎのおみ)、蘇我臣、平群臣(へぐりのおみ)などでした。
 これらの一族は共に武内宿禰(たけしうちのすくね)を祖先と称する同族意識を持ち、大和盆地に本拠地をもつ
 豪族でした。
 これに対して大連は大伴連(おおとものむらじ)、物部連(もののべのむらじ)から選ばれたのですが
 大臣が葛城、蘇我、平群のごとく大和盆地の地名を冠して呼ばれていたのに対して
 伴(とも)・部(べ)などどいう伴造(とものみやっこ)・部民(べのたみ)そのものの名を氏としています。
 いずれも職業集団を率いて古くから天皇家に奉仕してきた豪族たちでした。

●6世紀の終わりから7世紀代に入ると、中国では南北朝を統一した随(ずい)が成立し、
 強大な統一中央集権国家が出現し、周辺国の一つであった日本も天皇を中心とした
 統一国家を志向するようになっていました。
 そしてこの動向を積極的に推進したのは、言うまでもなく【聖徳太子】でした。

 聖徳太子は今までの世襲的、民族的な官僚組織と妥協しながら、
 有能な人材を例え一代限りでも抜擢(ばってき)しうる道を開こうと努力しました。
 この具体的な現れが【官位十二階】です。

官位十二階

●官位十二階は聖徳太子が定めた日本最古の冠位です。
 中国の官にならって身分にあった服装を定めようと試みましたが、旧来の豪族の序列による身分制度を一変さ
 せることまではできませんでした。
 そのため、聖徳太子は最上階の『大徳』及び『小徳』の二階については、臣や連の姓(かばね)をもつ有力豪族
 に授ける方針をとり、推古11年に大徳から小智までの十二の冠位を定めました。(推古11年12月壬申条)

 また、官位十二階は『徳』『仁』『礼』『信』『義』『智』という儒教的徳目にそれぞれ大・小をつけた
 十二階の冠位制度です。
 冠の色を紫・青・赤・黄・白・黒の濃淡で表しました。
 青色以下は中国の五行説に基づき、最高位としての紫は道教で尊重する色であるといいます。

 ただし、冠位十二階の最高位である『大徳』でさえも、後の『四位』にしか相当してあらず、当時の権力者『蘇我
 氏』はその上に位置していました。

 このような限界がありながらも、推古朝にあって、聖徳太子が次々と新しい施策を行い得たのは、新しい人材登
 用という政策の効果だといえるのかもしれません。

●この頃、大王(大君)を『天皇』と呼するようになったとも云われています。(天武朝の頃に天皇という称呼が
 用いられたという説もあります。)

 大化改新後は位階制度はしばしば変遷を経ることになりますが、『大宝律令』によって初めて『正一位』より『少
 初位下』に至る位階されるようになりました。

 この頃に注目すべきことは壬申の乱によって自らの力で皇位を得た天武天皇の頃です。
 この大宝律令・養老令や官制・位階については別項目でお話させていただきます。

※参考までに【冠位】について
 冠の違いによって朝廷での身分を定める制度。

 聖徳太子の冠位十二階に始まる。
 太子の時には大臣は冠位の上におかれていましたが、大化改新時には、大臣や皇親を組み込む大幅な冠位
 の改定が行われ、冠位は十三階となりました(孝徳紀大化三年是歳条)
 その後大化五年に冠位の増加が行われ十九階になりました。

 さらに天智三年の冠位の大幅な改定で二十六階の冠位が作られました。
 天武十四年にはさらに秩序だった冠位制度が設けられ、それまでの冠による身分の表示は行われなくなってい
 ることから、天武十四年の冠位は奈良時代の位階に近いものと評価されています。


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