煬帝





随の第二代皇帝(在位期間:604〜618年)

姓は煬、名は広・英、廟号は世祖、贈名は煬皇帝

父:文帝の即位と共に晋王となり、隋による中国統一に尽力しました。
600年に兄(楊勇)を失脚させて自らが皇太子となり、604年に父(文帝)を暗殺して帝位を奪いました。
在位中に東都(洛陽)を造営し、大運河の建設によって南北の物流を活性化させました。

しかし高句麗・流求(台湾)などの近隣諸国を侵略し第三次高句麗遠征の失敗と土木工事での過酷な徴用により反乱が勃発して、618年、宇文化及らの禁軍(親衛隊)兵士によって暗殺されました。

その後は煬帝の二人の孫が帝位を嗣ぎましたが、二人とも傀儡(かいらん:あやつり人形という意味)であったために事実上は二代で滅んだとされています。



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