隠陽道の伝来について
陰陽道はもともと中国に発生していた民間信仰であり、古く紀元前までさかのぼります。 紀元前1700年以前の夏王朝では「連山」と称し、次の殷王朝では「帰蔵」と称していた。 紀元前1100年頃の周王朝の時に「連山・帰蔵」を体系化して易と名付け『易経』を作った。 この易経が陰陽道の理論の根幹となった。 古代日本について占いの古い記録としては『魏志倭人伝』がある。 このなかで「なにか事があると骨を焼いてト(ぼく)し、吉凶を占い、骨の裂け目を見て占った」とある。 この三世紀ころにすでに陰陽道の影響が存在している。 この亀の甲羅(ト・ぼく)を焼く方法は「令亀の法」といって中国で行われていた。 おそらく朝鮮半島を通過して六世紀に日本に入ってきたと思われる。 この頃の日本は大和朝廷によってほぼ統一されており、継体天皇(在位507〜531年)が 国を治めていました。 また『日本書紀』の中に継体天皇七年(513)夏六月の頃、百済が五経博士段楊爾(だんように)を 奉ったと記されている。「五経」とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五つをいい、 古代中国の賢人・聖人の教えを記したものである。 これらの返礼として日本から「医博士・易博士・暦博士」を送り百済との交流を深め、 しだいに陰陽道は日本に定着し、体系化されて行った。 天武天皇(在位673〜686年)の時代になると『陰陽寮(陰陽師が属していた官庁)』が設置され 国家専属の占い師という立場になりました。 桓武天皇の時代になり平安朝に興った真言宗・天台宗の密教と密接に結びつき次第に融合されていきました。 その後十世紀から中世にかけて「賀茂家」と「安倍家」が二大陰陽道宗家としてのしあがっていきます。
A.D.1世紀?頃・・邪馬台国の鬼道(道教の呪術?) 6世紀・・・<陰陽道>伝来 聖徳太子・天武天皇らが陰陽道をよく利用している。 道教の呪術も陰陽道の一部として伝来 宿曜道伝来、呪術的なもの 577年・・<呪禁道>百済より伝来。道教的呪術と密教呪術が結びつて体系化されたもの。 呪詛医療などを行う者を呪禁師という。「禁」は刀を手にして呪文を唱えるという意味がある。 670年・・帰化人により初の属星祭が行われる。 676年・・朝廷の陰陽寮が初めて記述に登場 690年・・賀茂役君小角活躍。<修験道>を作る 701年・・大宝律令(陰陽道の国家独占) 794年・・平安京完成 鬼門(きもん)封じなどの陰陽道による魔除けがあちこちに使われた都 800?・・空海<宿曜経>を持ち帰る。 <宿曜道<