継体天皇(450〜531)





  ●出生について
  父は近江の王で彦主人王(ひこうし)
  母は越前・三国(福井県坂井郡三国町)の出身で垂仁天皇七世の孫・振姫

  継体はこの近江の地で生まれた。

  継体幼少の頃、父が他界し、母方の祖父母がいる越前高向で成長した。

  このため父の本拠地近江と母方の越前に勢力をもっていた。

  近江という場所は水陸交通の要であり、近江北部は良質の鉄の産地であった。
  交通と鉄で力を蓄えていき、勢力を拡大していった。

  一地方の王である継体が天皇に選ばれたのはこれが大きな意味をもっていたと考えられている。

  ●皇位継承
  『日本書紀』によると、前天皇・武烈天皇崩御のあと子供がいなかったので、大伴金村やが
  中心となって継嗣候補を探していた。

  初めは仲哀天皇五世の孫にあたるという倭彦王に白羽の矢をたてたものの、迎えるために遣わした
  大軍の使者をみた、倭彦王が勘違いして逃げ出してしまった。

  この頃継体は武烈亡き後、大和朝廷が混乱しはじめたのをみて、近江・越前の兵を率いて力のよる
  王権奪取を考えていた。

  地方の有力な王であった継体を候補として迎え入れ武烈天皇の後皇位を継承させた。
  この時に継体は応神天皇の五世の孫であるという錦の御旗を掲げている。

  即位は507年である。

  ●便宜上の天皇という呼び名
  実はこの頃は天皇という呼び名は存在していなかった。
  当時は「大王」という呼び方をしていた。

  天皇という言葉を初めて用いたのは聖徳太子であるという説が以前はあったが、現在では推古期の
  金石文の文字は当時のものではなく後になってから追記されたという説が有力となっており
  聖徳太子の頃には天皇という文字は存在していなかったとされている。

  ●天皇という文字
  飛鳥浄御原令の編纂が始まった天武天皇十年(681)頃だと考えられている。

  壬申の乱によって勝利を収めた天武天皇がそれまで多くいる何人もの「大王」の中において自らが絶対的権
  威の象徴として「天皇」という称号を使うようになったとされている。



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