天武天皇(てんむてんのう)
●天武という名前は死後の諡号(しごう)です。生前は大海人皇子(おおあまのみこ)といい、父・舒明天
皇、母・皇極天皇(斉明天皇)で、中大兄皇子(天智天皇)と、父も母も同じの弟です。
●中大兄皇子の次の皇位継承者としてみられていたが、兄・天智天皇は、皇位を弟・大海人ではなく、自分
の子供「大友皇子」に譲ろうと考えていた。
具体策として671年正月にそれまでの最高位であった左大臣の上に「太政大臣」を設けこの太政大臣に
大友皇子を任命しました。
さらに『日本書紀』によると668年に大海人を皇太子にしています。
●当時の慣習
今は皇太子が皇位継承の第一人者ですが
当時は親から子へと皇位を受け継がせるのではなく、世代を重点におき、一番相応しい人物が選ばれるとい
うシステムになっていました
●先述したように、当時の皇位は親から子供が単純に受け継ぐのではなく、周囲からの推薦などにより、
本人の人柄・人気・能力など総合的に判断して選ぶというシステムになっていました。
当時大海人は血筋からいっても申し分なく中大兄の皇位候補者として周りの人は見ていたし、本人(大海
人)もそのつもりでした。
ところが兄・中大兄は晩年になって、人気のあった弟(大海人)ではなく、我が子(大友皇子)に譲りたい
と考えるようになっていました。
この具体策が先述した新しい官位の制定です。この政策に大海人はかなりのショックを受け、この頃から
兄との仲に確執が生じ始めました。
●額田王(ぬかたのおきみ)をめぐる兄弟の確執
額田王は女流万葉歌人として有名です。
この額田王は初めは大海人と結婚して、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んでいます。
この頃から中大兄が彼女に好意を抱きだし、自分の妻にしてしまいました。
しかしむりやり仲を裂かれた二人は、その後も相思相愛の関係で和歌の交換を続けていました。
これが、後の「壬申の乱」の要因となっているという説が有力です。(いつの世でも歴史の影に女あり・・
の典型なのかしら。怖い怖い・・三角関係?)
●大海人、吉野に逃げる
671年10月17日に大海人は当時病床にあった中大兄に呼ばれ「皇位を譲りたいが、どうであろうか
?」とカマをかけられました。
その場はなんとか上手にしのぎましたが、大海人はいずれ自分が殺されると思い、屋敷に戻り全ての兵器を
官庫に納め、自分には謀反の意志はないと証明しました。
そうした上で妻ウノノメノ讃良皇女(さららのこうじょ)天智天皇の娘で後の「持統天皇」と子供を連れて
吉野に姿を消しました。
●壬申の乱勃発
大海人が吉野に行った直後の12月3日に中大兄は崩御しました。
当然その後を大友皇子が継ぎましたが、『日本書紀』によると即位せずに皇太子のまま「称制」で大海人に
討たれたとされています。
弘文天皇という名は明治三年(1870)になってから追諡(ついし)されています。
●672年6月
いよいよ、追いつめられた大海人は挙兵の準備にとりかかりました。
7月に両軍が激突し23日に大友皇子は自殺して大海人の勝利となりました。
この戦いは後の関ヶ原の戦いと同じ場所だったのですが・・偶然なのでしょうか?
●勝利した大海人は飛鳥に新しい宮を造営しこれが飛鳥浄御原宮です。
673年2月即位し、新政策を打ち出し、その一つとして律令の編纂をはじめました。
しかし天武天皇の段階では「飛鳥浄御原令」は完成せずに持統天皇の時代まで持ち越されています。