自由劇場ものがたり−−−(4)[拡充期篇]

中劇場公演からBunkamuraへ


博品館劇場と六本木自由劇場

−− 新聞の評に「小劇場がやっと産み出した本当の芝居」っていうのがあった。まるで、今までのはダメみたいだし、ぼくには、だいいち本当の芝居ってのがわからない。

吉田 わたしにだってわからない。それに、『上海バンスキング』が特別なわけじゃなくて、これまでも、ずっと自由劇場でやってきたわけだし、わたしたちにとっては、今度だけがいいというものじゃないんだよね。 そんなに変わらないし、もっといいのもあった。

−− でも、評判は悪いよりいい方が嬉しいでしよ?

吉田 そりゃあ、けなされるよりほめられた方が嬉しいよ。けど、あんまり関係ないかな。

 とは、『話の特集』81年10月号に掲載された『デコは、いま…』のほんのさわりの部分。インタビュアーは矢崎泰久氏。串田和美の『上海バンスキング繁盛記』という小文とともに『自由劇場の二人』として小特集が組まれた。

 二度にわたる[上海バンスキング]の上演がオンシアター自由劇場の名を一段と高め、一般雑誌等でも取り上げられる機会が増えた。10年たった今でも自由劇場の代表作のようにいわれるこの芝居が、定員100人あまりの六本木・自由劇場から、366席の銀座・博品館劇場に「進出」したのは、1981年5月のことであった。

 創立初期の頃から自由劇場の制作を担ってきた山田寛は、当時を振り返り、こう語る。

 「初演の時にすでに”おもしろい芝居だ”とミュージカル好きな東宝の方が、博品館劇場の制作の方に勧めたのがきっかけだと思います。オンシアターになってからずっと六本木の小屋でやってきましたが、この話がきた時に串田も吉田も”やってみよう”と積極的に受けました」

 それまでずっと小劇場でしか芝居の経験がなかった串田、吉田以外の役者たちにとって、366席もの博品館劇場はものすごく大きく感じたという。

 「歩数の感覚が全然違い、戸惑った。奥の出入口から舞台センターのテーブルに行くまでずいぶん遠く感じた」

 というのは、『白井中尉』を演した大森博。

 また広い客席に圧倒され、声が届くか心配だったというのは『宮下』を演じた小日向文世。それぞれがひとまわりもふたまわりも大きい劇場に感動もし、戸惑いもしたのは事実だった。

 この公演のあと、大阪、京都、名古屋、札幌など8ヶ所でオンシアター自由劇場になって初めての地方公演も経験する。

魔人遁走曲

 そして、その年の秋、串田和美作・演出の[魔神遁走曲]を六本木・自由劇場で上演(40日間の長い公演でもあった)。今年シアターコクーンで改訂版を上演したが、[上海バンスキング]で音楽的要素の強い劇団としての評価が高まった時に、まったく素材も傾向も違う今日流の芝居の登場は、自由劇場の持っ幅の広さ、奥深さを感じさせると同時に、あくまで自分たちのホームグラウンドでの芝居も大切にする串田の熱い思いがうかがえた。

クスコ上演リスト
上演リスト

 翌82年、2・3月には俳優座劇場のプロデュースによる提携公演で[寿歌](北村想作)を上演。6月の[もっと泣いてよフラッパー]再演で2度目の博品館劇場を連日超満員にしたあと、11月にはまた六本木自由劇場に戻り、これまた傑作、のちに3演まで行ない、来年シアターコクーンでも上演が予定されている[クスコ‐愛の叛乱‐](斎藤隣作)の幕が開いた。狭い小屋だけに1ヵ月公演でも電話予約による前売り切符は発売と同時に売り切れ、開場時間が近づくと入口から長い行列ができるのが常であった。

小空間での発想、新作、映画…

 前売り切符といえば、83年3月に4演目となった[上海バンスキング]、博品館劇場公演の売れ具合は今も伝説のように語り継がれている。前売り初日、自由劇場事務所には早朝6時からお客さまが並び、博品館劇場のチケット売り場は1階から7階まで行列ができた。

 5月までの足かけ3ヵ月のチケットのほとんどがその初日たった1日で売り切れ、3日間で完売したのだっこのあと再び地方公演にでたが、今回は24ヶ所と前回を大きく上回った。

 さてこの年、もうひとつの大きな出来事があった。

 17年もの間、数々の芝居を生み、育ててきた六本木・自由劇場の新装である。もちろんビルの地下だし、物理的に広くすることはできないが、空調、換気、照明設備、舞台機構、そして客席などが生まれ変った。設計は創立時と同じく斎藤義氏。

 …苦労の末ようやく仕上げた六本木・自由劇場の造りはちよっとしたものだった。…なんとか苦心の末、プロセニアムアーチに引割りカーテン、段々の可動客席、狭いながらも音や照明のコントロール室や楽屋を設け、吸音を配慮した有孔ベニアの内装を酒落たカーキ色で仕上げたりして、まがりなりにもミニチュアの劇場らしい小屋ができ上がった。ところが、二つ、三つ、四つと色々な公演が持たれるうちにプロセニアムがなくなり、壁は剥がされ、楽屋の造作まで消えて、何年目かいは天井のパイプグリットとガサガサのコンクリートのままの、ひどく汚いが頑丈な真黒い箱の空間になり果てていた。劇場つくりに情熱を傾けた駆け出しの建築屋にとっては、設計したものがどんどんはずされていくというこの経過は厳しかった。自分の苦労など全く役に立たなかったのだろうかと。しかし、考えるうちにやっと解ってきた。自由劇場の連中は、劇場らしい造りを壊しながら真の劇場とは何か、表現のできる空間は何かを追求していたのだ、と。…

 ちよっと長い引用になったが、これは85年12月公演の[幻の水族館]パンフレットに氏が書いた文章。その改造の目玉はいわゆる劇場の奈落にあたる舞台の中央に掘られた四角い穴。のちの数々の舞台でわかったことだが、たったそれだけの穴で人の手による回り舞台が登場したり、制限されたなかでより自由で、観客席からは思いもよらない、素敵でかっ達な舞台表現が生まれたのだった。

 串田はいう。

 「やりたいことが物理的に自由にできない小劇場でスタートしたことで、いろいろ独自の工夫を強いられ、それがかえって芝居の本質みたいなものを小さな空間で学ばされた気がする」

 また、この83年の8月にはファン約300人と[上海バンスキング]の船旅もした。昔の客船の雰囲気をもつ[明華号]船上で自由劇場オリジナルバンドの演奏と吉田日出子の歌をたっぷり聞きながら上海へ。

 84年は3本の公演だったが、1月の[クスコ]再演(初めて本多劇場を使用)に始まり、その幕が開く前の前年11月から稽古を重ねたタップダンスのラストシーンが圧巻だった[オオ・ミスティク!](斎藤隣作、5・6月、博品館劇場)、そして9月から12月まで全国51ヵ所で[上海バンスキング]の巡演と続いた。この巡演は前年すでに決まっていたもので、一度には全国をまわりきれないので2回にわけたものだ。

幻の水族館

 劇団創立20周年にあたった85年は、76年に初演した[幻の水族館](串田和美作)1本のみだったが、翌86年は3年ぶりの六本木・自由劇場で、4年ぶりの田槙道子の書き下ろし[家鴨列車]、斎藤燐作(演出も)[WORK NO.1](5年前に退団した笹野高史が客演)と続き、さらに博品館劇場、本多劇場、そして初めてのシアターアプルと中劇場公演が連続、[ドタ靴はいた青空ブギー](斎藤隣作、10年前に退団したAAGの一期生、綾田俊樹、田根楽子が客演)、[ひゅう・どろどろ](自由劇場のために黒テントの山元清多が初めて書き下ろす)、[クスコ]を上演する。その[ひゅう・どろどろ]のあと、映画[上海バンスキング]の撮影に入った。

 同名の映画が松竹で製作され、話題になったが、自劇場の映画化にあたっては決して対抗意識から生またわけではなく、もともと串田の中に「いつか映画にしたい」という強い思いがあったにほかならない。

ぺりかん党の誕生とこれから…

 この映画化の時期と前後して、現在串田が芸術監督を務め、自由劇場がフランチャイズとして使用しているBunkamuraシアターコクーンとの構想がかなり具体的に進んでいた。細かい経緯については、あらためて機会をもうけたい。

 Bunkamuraオープンの前年、88年も新たな試みが続けられた。集団演技というより共同演技を目指し、配役を日替わりで行なった[コスモ・コロンブス](田槙道子作)、そして”ぺりかん党”がお目見えしたのもこの年。串田のほか、山元清多、田槙道子、生田萬(ブリキの自発団)の4人の書き手と劇団員による即興劇を組み合わせた[ぺりかん党が来たぞ]を上演。さらに89年には[ホームグラウンドシリーズ]を、3年ぶりの六本木・自由劇場で行なう。この中には真名古敬二潤色・演出による[賑やかコーヒー店]があり、ぺりかん党の舞台があり、そして吉田日出子の初プロデュースで竹内銃一郎の書き下ろし、鵜山仁演出、串田と吉田のふたり芝居、[あたま山心中]といった秀作も生まれた。

A列車

 待望のBunkamuraオープンは89年9月3日、[A列車]で華々しくスタート。以後、シアターコクーンは春と秋のシーズンごとのオンレパートリーの中で自由劇場公演を行なってきたが、ここでは串田の年来望みであるレパートリーを生む作業が続けられている。

 最後に串田の言葉でこの連載の幕をひとまず下ろす。

 「レパートリーを充実させる一方で、来年、再来年シアターコクーンでの活動が軌道に乗り、ゆとりができたら、もう一度実験の場所を見つけ、初心に戻り、一年のうち何度かはそこで芝居を打てる構想を考えている」

(一部敬称略・構成/編集部、写真提供/オンシアター自由劇場) [91.10.15-91.10.27 「ラブミーテンダー」公演パンフレットより採録]
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