自由劇場ものがたり−−−(1)[黎明期篇]

小劇場演劇のトップランナーとして


こうして[自由劇場]は生まれた

 1966年夏に結成、11月の14日に記念すべきその初日の幕を麻布霞町1(当時、現西麻布1‐8‐4)の[アンダーグラウンド・シアター〈自由劇場〉]であげた[劇団自由劇場]の創立を語るのには、4年前の62年にさかのぼらなければならない。

 その年の4月、当時はまだ稀だった新劇の俳優養成所の代表格、[俳優座養成所]の第14期生として、串田和美、佐藤信、清水紘治、吉田日出子、樋浦勉、河内美子(現嵯峨美子)、辻萬長、原田芳雄らが入所した。養成所の期間は3年間だったが、折しも地下鉄日比谷線が開通真近、工事中の六本木駅を横目に気が合った串田、佐藤、清水らは「卒業したら自分たちの劇団を作ろう」と話し合っていたという。

 ところが、養成所修了の65年3月、串田、清水、吉由の3人は六本木の[アマンド]の2階に佐藤を呼び、「俺たち、[文学座]に入ることにしたよ」と。おそらくは、まだ機が熟していないと考えたのであろう。その言葉を聞き、佐藤は「ビックリして、涙流して…」という一幕もあったようだが、ともかく串田ら3人は[文学座]に研究生として入団。一方、佐藤は福田善之、米倉斉加年、岡村春彦らが当時所属していた[青芸(劇団青年芸術劇場)]の研究生として入団する。一方、俳優座養成所の1期下には斉藤燐、林隆三、地井武男らがいた。演出志望の佐藤は青芸入団後も斉藤と一緒に下級生たちと自主公演の演出を行う。

 その頃、すでに[青芸]は活気を失っていたが、佐藤は清水、樋浦(当時[雲]=現代演劇協会)を誘い、若い力で[青芸を建て直そうとした矢先に解散となる。行き場のなくなった3人は、あらためて[文学座]に入ったばかりの串田と吉田に「何が何でも劇団を作ろう」と誘う。そこでの2人の答えは「憐たちも一緒にやるなら」というものだった。

 こうして地井武男・古川義範・樋浦勉・串田和美・溝口舜亮・村井国夫・佐藤博・清水紘治・河内美子・田島和子・吉田日出子の俳優陣と、演出関係の観世栄夫・斉藤隣・佐藤信という、総計14名を創立メンバーとして[劇団〈自由劇場〉]が発足した。

劇場さがしから始まる

 そしてまず最初に行った作業が、東京中の不動産屋をまわり、劇場にふさわしいスペースを確保することだった。

 最初からどんなに小さくても自前の劇場をもつということが劇団の構想にあり、さんざん歩きまわったあげく西麻布の現在地を本拠にすることを決めた。床に水がたまったコンクリート打ちっばなしの地下室約20坪のスペースをどう劇場に仕立てるか、建築家の斉藤義氏が設計に参加、広さも高さも極端にたりないスペースだったが、ブロセニアムアーチに引割りカーテン、段々の可動客席、音響・照明のコントロール室、そして楽屋を設けて、苦心の末に劇場ができあがる。

 地下室であるから〈アンダーグラウンド〉という言葉を劇場名につけることにした。のちに、この時代の小劇場演劇が[アングラ演劇]と呼はれるようになった一因でもある。

 ちなみに、この66年の3年前唐十郎の[状況劇場]が旗揚げ公演、竹内敏晴らの[演劇集団変身]の代々木小劇場が65年に開場、66年には鈴木忠志・別役実らの[早稲田小劇場]、佐伯隆幸・浅野海太郎・山元清多・岸田森らの[六月劇場]が結成されている。さらに寺山修司の[天井桟敷]が結成されたのは67年だった。

旗揚げ公演は[イスメネ・地下鉄]

イスメネ・地下鉄

 旗揚げ公演は[イスメネ・地下鉄]。劇団の創立公演であるとともに、西麻布の[アンダーグラウンド・シアター〈自由劇場〉の柿落とし公演となったのは、佐藤信作・観世栄夫演出の[イスメネ・地下鉄]だった。 ちょっと長い引用になるが、ここに上演チラシに書かれている文章を紹介する。

 開幕〈幕〉は、優雅に、神秘的にあがるものではない。まして、タッパ9尺そこそこの、この小屋では、なおさらそうはいかない。〈幕〉は、おぼつかなげに、あるいは、たどたどしく、あがることになるだろう。−−それでいい、そういうものだ、と思っている。私たちは、一夜の幻の宝石をつくりあげようとは、もとより考えてはいないし、芝居の可能性を、もう少し別の、巨きな方向へむけていくために、この小屋の在り方を、はっきりと醒めたものにしておきたい、という欲求が強い。巨きな方向、というのは、たしかに漠然とした言い方ではある。特に、その目指すものと、芝居そのものとが、機械的に切り離されてイメージされるような誤解をおそれる。しかし、今のところ、私たちには、それ以上つっこんだ言い表し方は、準備されていない。とにかく、かなり執拗に、全てを疑いながら始めてみようということになった。〈幕〉は、おぼつかなげに、たどたどしくあげられるわけだ。おそらく、私たちと、あなた、いや、私たち自身の個々の間でさえ、当分のあいだは、しらばっくれたずい分と居心地の悪い関係がつづくことになるだろう。それを現実としておさまり返ることも、逆にそのことに絶望することもやめた。飛躍した言い方になるけれどもなるべく質の良い〈フィクションの場〉で、私たちは討論し、考え、学び、そして夢見ていきたい。《新鮮な失敗を演じつづけたい》という、困難な理想をかかげている。あなたにも、独創的な〈観劇術〉をもって、参加していただきたい。

1966年11月劇団〈自由劇場〉

−−−−−その後、[ヘンリー4世][ヒロシマのオイディプース][皇帝ジョウンズ]と公演は続くが、ことに大きな評価を得て、[自由劇場]の存在を印象づけたのは[あたしのビートルズ](67年8〜9月)であり、[赤目](67年12月〜68年1月)だった。[赤目]は全国7都市で公演し、また[セチュアンの善人]は紀伊國屋ホール、渡辺美佐子主演の[魔女傳説]は、朝日生命ホール、俳優座劇場でも上演されたことを特筆しておきたい。そして68年には[自由劇場]と[六月劇場][発見の会]が一緒になった[演劇センター六八]が組織され、翌年には[演劇センター六八/六九]が組織化され、[演劇センター]制作で[鼠小僧次郎吉]など数本が上演された。

(敬称略・構成/編集部・協力/オンシアター自由劇場) [1991.04.02〜1991.04.14「魔神遁走曲」公演パンフレットより採録]
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