自由劇場ものがたり−−−(2)[揺籃期篇]

複数のグループ公演、AAGの誕生


多彩な顔ぶれが集結、新しい芽も

 さて劇団としての[自由劇場]の歴史をたどる時、1970年の後半、正確には通算19回目の公演にあたる[トラストDE](70年5月19日〜6月23日、於俳優座劇場、そのあと大阪、京都、名古屋でも公演)からおよそ2年間、公演はなされていない。[自由劇場]と[六月劇場]、[発見の会]が一緒になった[演劇センター六八]が組織され、数本の公演ののち、70年10月から黒色テントで[翼を燃やす天使たちの舞踏](構成/佐藤信+山元清多+加藤直+斎藤燐、演出/佐藤信)が都市移動公演を開始したが、そこには[自由劇場]という文字は見当たらなかった。この移動公演は翌71年6月まで続くが、その間、小屋としての六本木の[アンダーグラウンドシアター〈自由劇場〉]は他劇団のための貸し小屋としてのみ機能する。

マクベス

 こうした状況のなかで[演劇センター68/71]は大量の脱退者をだすが、一方で串田和美は[自由劇場]公演をあくまで考え、自らの活動の場を劇場としての[自由劇場]に求めて、ひとりで演劇活動を開始する。

 そんな串田の思いに吉田日出子も同調し、72年4月、[串田和美プロデュース公演]と銘打った、[マクベス](原作/シェイクスピア、構成・演出・美術/串田和美、振付/竹邑類、音楽/鈴木茂+佐藤博、照明/宮崎純、舞台監督/笹野高史、制作/早野朔)が上演される。キャストは串田、吉田のほかに、朝比奈尚行、石崎収(現花王おさむ)、森田雄三、下條アトム、佐藤俊夫(現佐藤B作)、花房徹、宇佐美泉、南部美紗子が出演。

 その時の宣伝チラシで串田はこう書いている。

 久しぷりで、新しい仲間達と一緒に、自由劇場に現れます。

 小さく使いふるされたこの地下劇場に、わりとこだわっていて、けれどもごく軽薄に再び出発、と思っています。

 芝居を作る人達・観る人達・別の芝居を作る人達……みんな少しずつごそごそ動き出し、ざわざわ声を出し、それら全部を意識したくても、ちょっと無理で、片目で見ながらも、やっぱり自分の芝居にこだわる他ない、いや、こだわるというのは相対的な意識のことか……ということで、自由劇場にも、いろいろな人達の沢山の芝居が出現することになるでしょう。期待して下さい。

 そのメッセージどおり、多彩な人達が集まり、それぞれのグループや劇団が自由劇場で公演するようになった。
 田槙道子は公演のたびに[アリス・スぺース・ステーション]とか[ハード・スペース・ステーション][クレーイジー・スペース・ステーション]と名前をつけ、[セブン・ソングス]などを上演。
 また竹邑類率いる[ザ・スーパー・カムパニイ]は[菜の花飛行機]シリーズを上演、その独特の美意識て多くのファンを集めた。
 ほかにも家高勝、朝比奈尚行の[自動座](現在の[時々自動]の前身)、さらには新人俳優養成機関として[麻布アクターズシム(AAG)]が設立されたのもこの73年で、綾田俊樹、高田純次、岩松了、柳原晴郎(現ベンガル)ら、現在の[東京乾電池]の主要メンバーが第一期生として名前を連ねており、1年間のトレーニングを経て、4回連続公演(74年2月〜3月、 [麗しの日々] [ラ・セレナーデ] [パーティ] [ハロー鞄小僧] )を行なっている。そして極め付けは串田・吉田のコンビによる[電気亀・団]の出現だ。[探偵物語](72年11月)に始まり、73年11月の[A列車]、74年6月の[走れブリキ婆ア!!](新宿文化アートシアターで上演)へと続く。

 いろいろなグループを集めて[自由劇場]で公演してもらおうと、串田は前記のほかにも鈴木忠志(当時早稲田小劇場)、流山児祥(当時演劇団)などにも声をかけたが実現には至らなかったことも付記しておく。

竹邑類の語る、あの頃のこと

 現在も[ザ・スーパー・カムパニイ]の主宰者として、また多彩なジャンルて活躍している竹邑類は当時を振り返り、こう語っている。

 いまは小劇場もアイドル化してると僕は思うんですけど、あの頃はもちろんそんなことはなかった。いまみたいに親切すぎるほどの情報誌もなく、芝居なんてほとんど一部の人のもので、どうしたら芝居をやっていることを知ってもらい、劇場へ足を運んでくれるか、それがまずテーマだったみたいなところがあります。

 たまたま僕は踊りから発した舞台をつくりたいと思っていて、当時桐朋学園演劇科(俳優座養成所が解消して発展した)の卒業生である田村連らと[ザ・スーパー・カムパニイ]という集団を70年につくりました。

 マコト(佐藤信)とはその以前から知っていた関係でサム(串田和美)とも知り合い、[あたしのビートルズ]などで振付もしたし、だから[自由劇場]がオープンした頃から関係はありましたけど、[演劇センター]が六本木の小屋から[黒テント]へかわり、[自由劇場]という小屋自体が宙ぶらりんになって、この空間を捨て難かったサムが自分でプロデュース公演を始めたんですね。サムはある面ではオーガナイザーでもあり、僕はオッチョコチョイだからその誘いに乗って、[ザ・スーパー・カムパニイ]としての公演をしました。

 普通のホールではなく、六本木のあの空間には魅力を感じていたしサムのいう「劇場は熱くなくてはいけない、そのためにも熱い芝居を」という考えにもおおいに共鳴して、[菜の花飛行機]シリーズを上演しました。それ以前にも数本公演しましたけど、このシリーズがある意味ではザ・スーパー・カムパニイの舞台づくりの原点といっても差しつかえないと思います。一作目の評判がよく、続いて”二番機”は蠍座でやり、参番機、四番機は自由劇場でやりました。

 あの地下の空間は、至近距離で肉体がみえ、肉体が聞こえるというか、まず役者ありきから発している僕らの芝居のつくり方には最適で、しかもそのなかで美しい照明、美しい美術が僕の芝居には必要でしたから、そうしたビジュアルにも普通の劇場以上に神経を使いました。つまり息づかいまで美意識にしなくてはいけないみたいなところがあり、実際ミリ単位のシチュエーションというか、人間の配置にしてもそこまでの計算を僕はしました。当時はあらゆるものが破壊されたあとで再構成の時代だったと思いますが、結局いままで何かを発明しつづけてきた。でも、あの頃のエネルギーって何だったのか、いま思うと疲労感がない、といってそれは若さだけてはない。いまの小劇場の舞台の何十倍のエネルギーて『新しい芽』をみんなで育ててきたと思うんですね

(敬称略・構成/編集部・協力/オンシアター自由劇場) [91.05.16-06.02 「上海バンスキング」(七演)公演パンフレットより採録]

[黎明期篇]-- [揺籃期篇]-- [躍動期篇]-- [拡充期篇]-- [完熟期篇](只今執筆中)