●(一〇〇〇頃〜一〇二五年)
橘道貞と和泉式部の間に生まれ、中宮彰子に仕えました。
この和歌は小式部が一五歳の頃の歌で、歌合いに出席することになったのですが、
藤原定頼が戯れに「丹後の国に文を出しましたか?(お母さまに代作を頼みましたか)」と
言ったので、とっさにこの歌を読み返したので、定頼は尻尾を巻いて逃げ帰ったそうです。
この歌の逸話は有名で、袋草紙や俊秘抄にも書かれています。
俊秘抄を紐解いてみますと
是は小式部の内侍と云へる人の歌也。事のおこりは、小式部の内侍は、和泉式部がむすめなり。
其の和泉式部が*保昌がめにて、丹後の国にくだりける程、京に
歌あはせの有りけるに、小式部の内侍歌よみにとられて詠みけるほどに、四条中納言定頼と
云へるは、四条大納言きんとうの子なり。その人たはぶれて、小式部の内侍のありけるに、
丹後へつかはしゝ人はまいりたりやいかに心もとなくおぼすらんとねたがらせんとて、
申してたちければ、内侍すみよりながらすきいでゝ、わづかになほしはた袖をひかへて、
この歌を詠みかけゝれば、中納言、こはいかに、かゝるやうやはある、とてついいて、
此うたかへしせんとて、しばし思ひけれどえ思ひ得ざりければ、ひきはづしてにげにけり。
云々。
小式部内侍は関白藤原教通、頭中将藤原公成らに愛され、静円と頼仁を産みましたが、
二十代で早逝してしまいました。和泉式部はたいへん嘆いて、多くの歌で娘の死を悼みました。
●この和歌は『金葉集』雑上・五八六に収められています。
いは、ワ行の「イ音」なのですが、PCで表記できないので、
ア行の「い」で表記しました。
*
*藤原保昌が和泉式部をつれて丹後の国に赴任したのは一条天皇の治安2年(1022)
ですので、この時に詠まれたと思われます。