てんぢ てんのう
天智天皇


        ●在位期間
        626年〜671年

        ●大化改新
        皇極天皇四年(645)六月十二日
        三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が調(みつぎ)、つまり天皇に貢ぎ物を奉るために、飛鳥板蓋宮に集ま
        っていた時に、中大兄皇子(後の天智天皇)が時の権力者、蘇我入鹿を殺害しました。
        この時の協力者に中臣鎌子(後の藤原鎌足)がいます。

        ●何故このような企てをしたのか?

        643年に蘇我入鹿が斑鳩宮(いかるがのみや)に出兵し山背大兄(やましろのおおえ)一族を滅ぼしてい
        ました。
        この山背大兄は聖徳太子の子供で皇極天皇(女帝)の後継者第一候補にありました。

        この暴虐な蘇我氏を放置しておくと皇室と蘇我氏との主導権が入れ替わってしまう危険性があると感じてい
        ました。

        ただ不思議な事に藤原鎌足の曾孫にあたる藤原仲麻呂が670年頃に撰述した『藤氏家伝』では皇極天皇が
        蘇我入鹿を「寵幸」したと記してある。ただの寵臣ではなく密接な関係つまり肉体関係があったとする説も
        ある。
        そもそも皇極が天皇になったのは夫・舒明天皇(じょめいてんのう)亡き後、蘇我入鹿らの推薦で即位した
        という経緯はある。

        ●天皇即位
        実は即位したのは大化改新から二十三年後の668年なのです。

        本来ならば皇極天皇の後すぐに即位してもよさそうなのですが、皇極天皇は自分の子供(天智天皇・中大兄
        皇子)ではなく弟の軽皇子(かるのみこ)に譲位したのです。この軽皇子は後の孝徳天皇なのです。
        理由は夫・舒明天皇から見ると軽皇子は曾孫にあたり、中大兄皇子は玄孫(やしゃご)にあたるのです。つ
        まり血の繋がりの近い軽皇子を先に即位させることが当時のルールなのです。
        このために中大兄は皇太子となり「中大兄皇子」と呼ばれました。

        ●実体
        孝徳天皇はあくまでお飾りであり実権は中大兄皇子が握っていました。
        藤原鎌足を内臣、阿倍内麻呂を左大臣・蘇我石川麻呂を右大臣として自分は皇太子として君臨し今の内閣の
        ような形態をひいていました。
        孝徳天皇亡き後もすぐに即位せずにもう一度母親を引っぱり出し斉明天皇として即位させました。
        これが後の天皇象徴主義の原点なのかもしれません。

        ●661年の出来事
        唐に滅ぼされた百済を救済しようと九州に兵を動員していた斉明天皇が、九州朝倉に築いていた宮で病死。
        後継者がいなかったため「称制」をひいた。
        この称制とは即位せずに皇太子のまま政務をとるという体制の事をいいます。
        この称制は661年から668年まで続きました。

  ●和歌

  「万葉集」に長歌一首、短歌三首が納められている。
 
  この和歌は「後撰集」秋中・三〇二に「題知らず・天智天皇御製」とでている和歌である。
  実際には「万葉集」にある詠人知らずの一首が、本歌取りをして伝えられたものと言われる。
  身分の高いものが、農民の苦労を思いやり、その身になってみる、というのが表面的な
  意味であるが、実は「露」は「涙」を象徴しており、どこか恋歌のにおいがする、という解釈もある。






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