ふじわらのもととし
藤原基俊

   ●(一〇六〇〜一一四二年)
    右大臣藤原俊家を父に、名門の家に生まれたにもかかわらず、従五位左衛門佐にとどまる。
    歌人としては源俊頼とならんで重宝され、歌合の判者や『新朗詠集』の撰者を務めたりして
    います。保延四年(一一三八)出家しました。

    この和歌は「僧都光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたびもれにければ、法相寺
    入道前太政大臣にうらみ申しけるを、しめぢが原のと待りれど、またその年ももれにければ
    つかはしける」と詞書があります。基俊の息子光覚は興福寺の僧で、この寺で毎年行われる
    維摩経(ゆいまきょう)を講じる講師は、後に宮中の最勝会の講師になるきまりで、出世の
    早道でした。そこでその講師を決める太政大臣忠通に何度も頼んでおいたのに約束を破られ
    恨み言を詠った歌です。


   ●この和歌は『千載集』雑上・一〇二三に収められています。






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