ミャンマー2004 勝三郎 60年後のビルマ
2004/12/28

マンダレー収容所での仕事
↑ 「旧王宮の堀に面した道路の南東あたりにGHQの本部があった。敷地内に一坪ぐらいの小屋があり、ここが私の仕事場だった。」
 写真は王宮の南堀に面する通り。この右手付近にGHQの本部があったと思われる。 (しばらくしてGHQ本部は王宮の中に移転した)
↑  与えられた仕事場で電気スタンドの笠の絵付けをしているところ。(この絵は最近思い出して描いたもの)

  絵を描くことはマンダレーにも連絡され、専用の仕事場があたえられた。これは勝三郎だけではなく、彫刻、建築など、技能のある者はそれぞれ通常作業からはずされて、専門の仕事を与えられた。他の人たちは市内で戦災のあと片づけや、英軍将校の自宅の草取りなどをした。
←英軍、モレーヘッド大尉(1980年頃描いたもの) 
 通訳の岩下さん(1980年頃描いたもの) →
 後には自宅(収容所)で仕事をすることが認められ、画材などの購入のために外出証ももらっていた。仕事があるときは本部からジープが連れに来た。
↑ 今回泊まったセドナ・ホテルの5階から見下ろしたところ。
 このホテルはちょうど王宮を囲む濠の南東角に位置している。1946年当時、ここには英国軍のクラブがあった。このクラブで作業のひとつとして、カウンター下や、壁に壁画を描いたことがある。
 GHQの本部はこのホテルの左隣あたりだったと思う。
↑ おみやげ用のスケッチ集の下書き 「私のスケッチ集はドンドン売れた」 (当時のスケッチブックより)

 収容所内では自由時間に細工物や菓子などいろいろなものが工夫して作り出され、売買されるようになっていた。自分たち以外の兵へ向けておみやげ品の売店もでき、はじめは時折だったが後には常設になった。収容所の中だけではあったが、主にインド兵が帰国みやげによろこんで買って行った。スケッチ集はそこでたくさん売れたのである。

 収容所全体がのんびりしてきていた。毎日の作業も要求された人数を出せばよく、交替で収容所に残った者はその時間を各自有効に使うことができた。すでにメイミョーの時にも劇団があったが、マンダレーではさらによいものをめざしていくつかの劇団が競い合っていた。役者などの重要人物は作業からはずされてその仕事に没頭できた。勝三郎も「新生劇団」という劇団で舞台装置を担当していた。劇場も自分たちで作ったもので、「ひかり座」と名付けられていた。  

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