ミャンマー2004 勝三郎 60年後のビルマ
2004/12/26

ピンウールィン(メイミョー)
↑ ピンウールィンの街へ近づく。このあたりにも石切場がある。道ばたの建物は英国植民地時代のもの。
↑ メイミョーの収容所
 「35マイルキャンプのあとはメイミョーの収容所に移された。街からどのくらい離れていたかはわからないが、柵に囲まれて天幕宿舎と壊れかかった煉瓦造りの建物があった。
 柵ごしにビルマの人たちが食べ物、果物、米などいろんなものを差し入れてくれた。この宿舎から朝夕トラックでメイミョーの街の作業に連れ出された」
 メイミョーではそれまでのような食料の不足はなくなっていた。ゆとりもできてきたようで、演劇場が作られていた。
↑ 「GHQの事務所は英国風の木造2階建ての中にあった。私はここの一室で5−6名のインド人技師と一緒に図面を描くなどの仕事をした。」

 街の中であったことには間違いないが、いつもトラックで送り迎えされていたので周辺の記憶はほとんどない。
 仕事は土木工事の図面のトレースなどだった。35マイルキャンプの時に絵を描くことが知れ、こういう仕事にまわされたのだった。それで、合間に将校たちの似顔絵など、注文されるままにたくさん描いた。皆よくしてくれ、特に上の絵のクラークさんには殆ど毎日手料理の昼食をご馳走になった。(インド人の彼の料理はいつもカレーだったが)
クラークさん。いつも白の背広だった。当時24才 →

 注:ここでいうGHQは、 Garrison Head Quarter の略。戦後の復興を担当し、技師を中心としていた。
↑ 街から離れた畑のなかにメイミョーの収容所で亡くなった日本人の墓碑が祀られていた。
↑ ボランティアで墓守をしてくださっている一家。このお母さんのお父上がかつて収容所で食事を作る仕事をしていたという。
↑ ピンウールィン(メイミョー)は涼しい高原地帯にあり、とりどりの花や苺、コーヒーが栽培されていた。道ばたのそこかしこで野生のポインセチアが深紅の花を咲かせていた。

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