ミャンマー2004 勝三郎 60年後のビルマ
2004/12/26

マンダレーの教会
↑ 明るいうちにマンダレーに着いた。マンダレーは一番長く収容所生活を送ったところである。
 マンダレーの収容所にいた時よく行った修道院と教会を探す。 当時修道女がいた修道院は、彼らがいなくなった後、週に一度教会として使われている由。増築されて以前の面影はまったくない。建物の正面にかかげられた看板には"Computer and Language Center" の文字があった。
 当時はシスター達が、らい病患者の手当をしていた。
↑ 収容所にいるころ彫刻家だった日本兵が英軍の命令でルルドのマリア像を造った。この修道院だと思うが確信がもてない。たしかにルルドのマリア像は敷地の一角にあったが、記憶とはまったく似てもにつかない。造り直されたのだろうか?
 ここの管理人さんによれば、昔日本人がマリア像を造ったことは伝え聞いているという。
↑  「戦禍を受けたマンダレーの街は瓦礫の果てしない廃墟であった。そのなかに赤レンガの天主堂がたったひとつ、ポツンと残っている。天井のドームのステンドグラスの素晴らしさは息をのむ思いだった。」

 建物には漢字で「天主堂」と書いてあった。勝三郎はキリスト教徒ではないが、信者の日本兵には日曜日の礼拝のための外出が許されていたため、戦友のお供で外出したのだった。
↑ 「天主堂」と書かれた教会はあったが、赤レンガではないし、あまりに違いすぎる。 (???)
 この教会は "Father Lafon's Catholic Church" (ラフォン神父のカトリック教会)。

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