俳 句 の 歴 史

10人の俳人とその作品

前のページ


第6章
中塚一碧楼(1887〜1946)
なかつか いっぺきろう

明治・大正時代、多くの文人たちが日本語の文章を口語
化する試みに熱中した。

旧来の文語は格調に拘泥していたため、話しことばとの
間に大きな距離ができており、近代的な思想や論理を表
現するのに不適切なものとなっていた。そのため、言文
一致の重要性が明らかになってきたのであった。

俳句の形式は文語と固く結びついており、俳句への口語
の導入は困難であると一般に考えられていた。俳句の各
句を構成する5音節、7音節は、文語表現では馴染み深い音数であるが、口語表
記はしばしば6音節、8音節などに音数が拡張しようとする傾きを持つためであ
った。

こうした常識に反旗を翻し、俳句に積極的に口語を導入したのが中塚一碧楼で
あった。必然的にその俳句は、17音という音数にとらわれない、自由な形式を
とるようになり、彼は「自由律俳句」の創始者となった。

一碧楼は同時に、俳句に季語を必須とするルールを否定した。また指導者が弟
子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家
個々の創意を重視すべきであると説いた。

今日一碧楼の俳句を読むと、誰もがそのあまりの新しさに目を見張ることだろ
う。彼の句には神秘めかした気取ったところはいささかもないが、口語調の簡
明な文体の中に、事物のエッセンスに対する鋭敏な認識を盛り込むことに成功
している。彼の俳句は定型俳句のように安定はしておらず、蝋燭の焔のように
揺れ動く人間の精神のかたちを、そのまま不定形のかたちの中に実現してみせ
たのである。


 鏡に映つたわたしがそのまま来た菊見

 掌がすべる白い火鉢よふるさとよ

 乳母は桶の海鼠を見てまた歩いた

 胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり

 秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る

 単衣著の母とあらむ朝の窓なり

 刈粟残らずをしまつて倉の白い

 赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け

 畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉

 げに蓬門炎天の一客を迎へ


執 筆  四 ッ 谷  龍


次のページ (原 石鼎)

HOME / 「俳句の歴史」目次

英語 / フランス語

「むしめがね」へのEメール宛先は

loupe@big.or.jp