1-4. 暴走、迷走、妄想?
 さて、この「コペルニクス的転回」、 つまり「熱力学第2法則が成立するかのように見えるのは人間がいつも低エントロピー状態を選ぶからである」 と言う理論に基いて、千代島氏は

「なぜ人間は低エントロピー状態を選ぶのか」

と考察を進めていきます。でも前提となる理論がデタラメなので、この考察も当然無意味で支離滅裂になっていきます。 つまり、

「人間は低エントロピー状態を選ぶ」

という事実などない (そんな事実がなくても熱力学第2法則は成り立つ) にも関わらず、 「存在しない事実の理由」を追求していくのですから、 それはもう、どんどん支離滅裂になっていかざるを得ないのです。これはもう、 ある種の妄想と共通するものがあるでしょう。

 「なぜ人間は低エントロピー状態を選ぶのか」という疑問に対して、千代島氏は二つの答えを用意します。 一つは、

(「世界を欺いた科学10大理論」p.280から引用)

 まず、一部の「ずるい」物理学者に関しては次のように答えることができる。

 ---- 彼らは、もし初期状態として高エントロピー状態を選択すれば熱力学第二法則をうまく説明できなくなるということを 「自覚」しているから、全く故意に低エントロピー状態を選択するのである。

 彼らの「ずるさ」は、自分で故意に低エントロピー状態を選択しておきながら、 あたかもそのような選択こそが唯一の必然的な選択であるかのように、 あるいは「客観的」な選択であるかのように、見せかけようとする点にある。

 これは要するに、超科学者にありがちな、

「科学者たちが私の説を認めようとしないのは、 この説を認めてしまうと自分たちの既存の権威が失われてしまうからである」

といった邪推 (あるいは妄想) のバリエーションにすぎません。つまり、 この文章は千代島氏の超科学者としての正体を露呈している、という点では実に興味深いものですが、 超科学ではごくありふれたフレーズであって、たいして面白くはありません。

 千代島氏を注目度 No.1 超科学者(笑)たらしめるのは次の、2番目の理由です。

(「世界を欺いた科学10大理論」p.280から引用)

 このようなずるいやり方をする物理学者以外の人たちに関しては、 一般に次のように答えることができる。

 ----普通の科学者や普通の人間は、他人を欺いてまでも熱力学第二法則を弁護しなければならない、 などと思っているわけではない。しかし、それにもかかわらず、なぜか無意識に (つまり、一部の物理学者のように明確な意図を持っているわけでもなく、 物理的あるいは心理的に強制されているわけでもないのに) 低エントロピー状態を初期状態として選択するのである。

 では、なぜ人は熱力学第二法則に対して何の義理もないのにそのような選択をしてしまうのであろうか?

 つまり、「一部の物理学者」は自分が間違っていることを自覚しながら、 その間違いを隠蔽するために故意に低エントロピー状態を選択する、 と告発しながら、それ以外の人も別にそういう意図がないのにやはり低エントロピー状態を選択する、 と千代島氏は述べます。

 ちょっと妙なことになってきました。もともと「低エントロピー状態を選択する」という事実がない以上、 「一部の物理学者は故意に他人を欺いている」というのは単なる憶測でしかありえないわけです。 もし憶測ではないというのなら、 千代島氏は具体的にどの物理学者のどのような言動からそのような結論を導き出したか、はっきり書くべきですね。

 人のことを、「故意に他人を欺いている」などと非難するときは、きちんとその根拠を述べるか、せめて

「そう考えなければ彼らの行動を説明できないから」

という理由が必要なはずです。ところが、千代島氏によれば、そのような動機がなくても 「低エントロピー状態を選択する」という行動は説明できてしまうというのです。

 なら、「故意に他人を欺いている」などという憶測は単なる「悪意に満ちた誹謗中傷」 でしかない、ということになります。この点について千代島氏の釈明をぜひ聞きたいものですね。

 まあ、そのことは置いておいて、先に進みましょう

(引用の続き)

 この謎は、表面的に自然現象を観測するだけでは決して解けない。方程式をいじくりまわしたり、 計算するだけでも解けない。自然を観測している「人間」のあり方、 特に人間が自然や環境に対して持っている一般的な傾向を考慮に入れることによってのみ解けるのである。

 人間は毎日いろいろなものを見たり聞いたりしている。 しかし、人間はいつもすべてのものを注意深く観察しているわけではない。 日常的に慣れ親しんでいるものに対しては無関心である場合が多く、 その存在に気づいてはいてもほとんど無視してしまう。

 反対に、慣れ親しんだ環境の中に新しいものや奇妙なものが出現すればすぐにそれに注目する。 また、同じ見慣れたものであっても、ほとんど変化のない単調な現象は簡単に見過ごしてしまうが、 急な動きや顕著な変化があればすぐに気づき、注目する。

 たとえば、部屋の中で静かに座っているとき、 窓の外に見知らぬ男がいきなり現れて部屋の中をのぞき込めば、 びっくりしてその男を注目するし、急に部屋が暗くなればすぐにそれに気づき、 その原因を探し出そうとするであろう。

 なるほど、この部分は別におかしな事は言っていません。ごく当たり前のことです。

自然を観測している「人間」のあり方、 特に人間が自然や環境に対して持っている一般的な傾向を考慮に入れ…

などと言うほど大したものか? という気はしますが (千代島氏の文章はちょっと修飾過多の傾向がありますね)。

(引用の続き)

 熱力学で問題になる現象に関しても全く同じことが言えるのである。

 コップの中の水はそのまま放置しておけばほとんど変化しない。しかし、氷を入れるとすぐに溶けはじめる。 箱の中の気体はそのままではほとんど変化が見られない。 しかし、もし気体が箱の片隅に集められればすぐに箱全体に広がり始める。 我々人間は変化の少ない静的な現象にはあまり関心を示さないが、 新しい顕著な変化が始まればすぐにそれに注目する。そして、(特に科学者は) その変化を主題として理論的観察を開始し、それがどのような過程をたどるのかを見届けようとするのである。

 ここで決定的に重要であるのは、ある系において顕著な「変化」が始まる瞬間は、 まさにその系が「低」エントロピー状態に置かれた瞬間にほかならないということである。 氷が入れられた瞬間、気体が箱の片隅に集められた瞬間、コーヒーにクリームが入れられた瞬間、 これらはすべて低エントロピー状態であり、平衡には程遠い。

 もちろん、低エントロピー状態は高エントロピー状態へと向かうか、 不変のままであるかのいずれかであり、エントロピーが更に減少することはない。

 したがって、ある系において顕著な変化が始まった瞬間に人間が理論的な観察を開始すると必ずエントロピーが増大する (減少しない) のは当然のことなのである。

 つまり、我々人間はコップの水がただ置いてあるときはいちいちその状態に注目せず、 氷が入れられる、と言う大きな変化があってはじめて注目し、観察を始める、と言うわけです。

 エントロピーの高い状態については注目せず、エントロピーが減少した状態になって初めて注目する、 人間のそういう特性が、無意識に低エントロピー状態を選択するという結果を生むのだ、 と千代島氏は言うのです。

 なかなか良く考えたものですが、もう一度、千代島理論をよく見てみましょう。

 「人間」は、観測される系のいろいろな状態の中から、 特に低エントロピー状態を出発点として「自由」に「選択」する。

 そしてこの出発点の由来の問題を故意に「無視」する。 ----人間のこういう自由な選択と無視によってのみ、熱力学第二法則が成立するのである。

 つまり、千代島理論は、

  1. 人間は低エントロピー状態を選択する
  2. そしてその低エントロピー状態の由来については無視する

という二本柱で支えられているわけですが、これまでの千代島氏の

人間が自然や環境に対して持っている一般的な傾向

にかんする「深遠な考察」には一番目の理由しか示されていません。

 さて、人間というのは、何か変わったことが起こったとき、その後の経過にのみ興味を示し、 その原因については無視してしまうものなのでしょうか?

 見知らぬ男が部屋の中を覗き込んでいるのを見つけたとき、もちろんその後の男の行動も気になるでしょう。 でも、

「一体あれは誰なのだろう」
「どこから入ってきたのだろうか」

というようなことも気になるのが普通なのではないでしょうか? 現に千代島氏も

急に部屋が暗くなればすぐにそれに気づき、その原因を探し出そうとするであろう。

と書いているではありませんか。

 つまり、千代島氏の考察は、

人間は低エントロピー状態を選択する

ことは説明できても、

そしてその低エントロピー状態の由来については無視する

事についてはむしろ説明できなくなってしまうのです。

 千代島氏の文章をそのまま使わせてもらいましょう。

 「千代島氏」は、千代島理論を支える二つの要件のうち、 特に「人間はなぜ低エントロピー状態を選択するのか」の方を「自由」に「選択」する。

 そしてもう一つの「なぜ人間はその低エントロピー状態の由来を無視してしまうのか」 という問題を故意に「無視」する。 ----千代島氏のこういう自由な選択と無視によってのみ、千代島理論が成立するのである。

 さて、千代島氏のこの考察には他にもおかしな点があります。 ここで引用したように、千代島氏は、

  • 自然に生ずる低エントロピー状態は「ありそうもない」という理由で無視し
  • 人為的に作り出す低エントロピー状態は当然のこととして前提する

物理学者の論法を

自分の好みや都合だけで勝手に拒否したり受け入れたりする破廉恥な態度

だとして糾弾しています。

にもかかわらず、自分の考察の中で「人間が注目する低エントロピー状態」 の例として持ち出すのは

  • 氷が入れられた瞬間
  • 気体が箱の片隅に集められた瞬間
  • コーヒーにクリームが入れられた瞬間

と、すべて「人為的に作り出した低エントロピー状態」です。これは

自分の好みや都合だけで勝手に拒否したり受け入れたりする破廉恥な態度

ではないのでしょうか?

 首尾一貫するなら、「自然に生ずる低エントロピー状態」も区別せずに扱わなければならないのではないでしょうか。

 もちろん、そういうわけにはいきませんね。それは確かに、

風呂に入っていたら適温だったお湯がいきなり氷と熱湯に分離した。

などということがおこれは、当然びっくりしてその現象に注目しますね。 だけど、そんな事があったとき、

氷と熱湯がまた元の適温のお湯に戻る過程

だけを冷静に観察して、

「ああ、やはりエントロピーは増大するのだ」

などと納得しますか? そんな馬鹿な話はありませんね。

  • 自然に生ずる低エントロピー状態は
  • 人為的に作り出す低エントロピー状態

を区別しなければいけないこと、区別できることは千代島氏自身が良く分かっているのです。

 その事こそが熱力学第二法則なのですが、なぜか千代島氏はその正しい理解に対して「目をそむけて」しまい、

「孤立系といったら何がなんでも永遠の過去から孤立し続けていなくてはならないのだ」

という全く一人よがりの勝手な解釈に固執し続けるのです。

 さらに、これはどちらかというと些末な点ですが、もう一つ付け加えておきましょう。千代島氏の考察の中の、

 もちろん、低エントロピー状態は高エントロピー状態へと向かうか、 不変のままであるかのいずれかであり、エントロピーが更に減少することはない。

 つまり、人間が無意識に選んでしまう低エントロピー状態はそれ以上エントロピーが減少できないので、 増大するか、不変であるかしかないのだ、というのですが、これもおかしいのです。

 なぜなら、例えば熱湯の中に氷が入っているという状態は確かにエントロピーの低い状態ですが、 それ以上エントロピーが減少できないほど低いわけではないのです。

 氷は確かに冷たいですが、別に絶対零度というわけではありません。 もっと冷たくなる余地が十分にあるのです。

 熱湯は確かに熱いですが、もっと高温の水蒸気になることもできるのです。

 つまり、「熱湯と氷」という低エントロピー状態は、 「極低温の氷と超高温の水蒸気」というもっとエントロピーの低い状態になることもできるのに、 千代島氏はその可能性を「故意」に「無視」しています。つまり、 結局千代島氏の論法は「エントロピーは減少しない」事を前提にしてしまっているのです。

 だいぶ長くなりましたが、「熱力学に関する千代島理論」については、とりあえずこれで終わりにします。 「根本的疑問から目をそむけている」のはいったい誰なのでしょうね。
前へ 目次