すとくいん
崇徳院

   ●(一一一九〜一一六四年)
    第七十五代天皇。鳥羽天皇の第一皇子で母親は待賢門院障子。名前は顕仁です。
    
    父鳥羽院と祖父白河法皇の確執から始まっています。白河法皇は寵愛する障子を
    十六歳の鳥羽院の后としましたが障子入内後も逢瀬を重ねて、その結果生まれたのが
    崇徳院だと言われています。鳥羽院も「叔父子」と呼んで終生心を許さなかったそうです。
    顕仁親王が五歳になった保安五年(一一二四)に白河法皇の圧力で譲位させられ、
    顕仁親王は崇徳天皇として即位しましたが、その直後に白河法皇が崩御したので、
    鳥羽院が代わって院政を執るようになりました。鳥羽院は寵妃の美福門院に皇子が
    生まれると、生後三カ月で皇太子に立てて、翌年には崇徳院を譲位させ近衛天皇が
    即位しました。鳥羽院は出家をして鳥羽法皇となり、崇徳上皇は、新院と称される
    ようになりました。近衛天皇が久寿三年(一一五六)に崩御すると、鳥羽法皇は
    崇徳院の呪いのせいだとし、崇徳上皇の皇太子を差し置いて、弟の後白河天皇を
    即位させました。鳥羽法皇の決定に不満の積もった院は、藤原忠通を敵対視する
    弟の頼長らと計り保元の乱を起こしましたが破れて讃岐に流されて悲憤のうちに
    長寛二年(一一六四)に崩御してしまいました。

   ●崇徳院の呪い
    保元の乱後、流された讃岐で崇徳院は写経をしました。経を讃岐という遠国に
    置いていてもわびしく思われたので、京に送りましたが、送り返させてきたので
    その仕打ちに院は怒り狂い、その後は爪も髪も切らずに過ごしたので天狗のような
    姿となり、崩御後に京の崇徳院の呪いの逸話が数多く生まれることとなりました。

   ●この和歌は『詩歌集』恋上・二二八に収められています。






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