●(生没年未詳)
壬生忠見は忠岑の子で、幼名を多々(ただ)と言い、その後忠実(ただざね)と改めて
忠見へと名を変えました。三十六歌仙の一人に数えられています。
始めは摂津国に住んでいましたが、幼少の頃から歌が上手だと評判が高かったので、
あるとき宮中から召されたことがありました。しかし家が貧しかったので、「乗り物が無くて
参れません」という御返事をすると、帝(醍醐帝?)は戯れに「竹馬に乗って参れ」と
仰せになったそうです。そのお言葉を聞いて、忠見はとりあえず
「竹馬は ふかしげにして いと弱し 今夕かげに 乗りてまいらむ」という歌を捧げました。
その後しばらく摂津国で暮らしていましたが、醍醐帝のお召しによって、上京して蔵人所に
務めることになりました。その後、天歴八年五月には御厨子所(みづしどころ)の定額膳部
(ぢゃうがくぜんぶ)となり、天徳二年の正月には摂津権大目(せっつごんおほさぐわん)に
任命されたうえに上六位を授かりました。
この和歌が詠まれた村上天皇の御前で執り行われた天徳の歌合せの席では、「忍恋」を主題に
左に平兼盛 、右は壬生忠見という番があって競い合いましたが優劣がつけがたかったので
判定人の小野宮左大臣実頼は帝の様子をがったところ、平兼盛の歌和歌を
口ずさんでおられたので、実頼はこの歌を気に入られたのだろうと思い、兼盛を勝ちとしました。
この歌合で負けたことがショックで鬱病になってしまい失意のうちに亡くなったと言れています。
この和歌は『拾遺集』の詞書には天歴の歌合と書かれていますが、実際は天徳の間違いです。
●この和歌は『拾遺集』恋一・六二一に収められています。