興津弥右衛門の遺書

興津弥右衛門の遺書



寛永元年五月にベトナムの船が長崎の港に到着しました
当時、細川三斎公(ガラシャの夫)は大変風雅に通じており異国船が長崎港に到着する度に珍品を買い求めていました
この元年五月にも茶事に使う珍品を買い求めたいと、家臣の興津弥右衛門に同僚の横田清兵衛をつけ、長崎に行かせました
たまたまこのときに幸運にも秀でた伽羅の大木がありました
この大木は本木(もとき)と末木(うらき)の部分に分かれていました

同じ頃、仙台藩伊達政宗のところからも唐物を整えようと家臣がきており、この伽羅の大木の本木を巡り双方で値段をつりあげました

この様子を見ていた横田は「たとえ主命であっても香木は単なる慰み物にすぎない。そのようなものに大金を投じることはやめて、本木は伊達家に譲り、末木を持ち帰れば良いのではないか」と言いました

しかし弥右衛門は「主人は珍しい物を買ってこいと言われた。今回の品の中ではこの伽羅が一番の珍品で、それに本木・末木があるのなら当然優れている本木を手に入れてこそ主命を果たすというもの。伊達家を増長させ、本木を譲ってしまったのでは細川家の面目をつぶすことになるので絶対に譲れない」と言いました

すると横田は「それはおかしい。一国一城を争うというのであれば伊達家に楯突いてでも入手すべきであるが、たかが四畳半にくべる木の切れっ端じゃないか。大金を捨てるとも知らずに競り合い主君のためだと言って、そこまでするのは、おべっか野郎のすることだ」と言いました

当時31歳だった弥右衛門はこの言葉を聞いて腹が立ちましたが、我慢をしながら「それはいかにも賢人らしい言い方である。しかし私は主人の命令なら『あの首を取って参れ』と言われれば鬼神であろうと討ち果たし、『珍しい物を買ってこい』と言われれば、最高の珍品を買っていくつもりである。主命ならば人倫の道に反すること以外は批判がましいことを言うのは無用に願いたい」と言いました

これを聞き横田はますますあざけり笑い「おぬしは今、道に反することはしないと言ったではないか。武具なら大金を払っても惜しくはないがたかが香木に不相応な大金を出そうと言う考えは若輩者の心得違いである」と言いました

弥右衛門は「私とて武具と香木の違いは承知しておる。茶事を無用の虚礼といってしまったら、国家の大礼も先祖の祭祀も全て虚礼になってしまう。今回われわれが受けた主命は茶事の御役に立つ『珍しいもの』を買い求めることであり、これが主命なら命に代えてでも果たさなければならない。お主がこの香木に大金を払うことを不相応というのは芸道の心がわからないからそう思うのだ」と言いました

横田はこの言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに「いかにも拙者は茶事の心得などはない武辺者だ。諸芸に堪能なお主の芸とやらを見たいものだ」と言うや否や脇差しを抜いて投げつけました

弥右衛門は身をかわし掛けてあった刀を取って抜き、一刀両断のもとに横田を斬り殺してしまいました

そして弥右衛門は首尾良く本木を手に入れ仲津に帰り、伊達家はしかたなく末木を仙台の持ち帰りました

国元に帰った弥右衛門は細川三斎に「いくら主命とは言え、主君の家来を自分の一存で殺害してしまったので切腹を申しつけてください」と頼みました

しかし三斎は「お前の言うことはいちいちもっともである。しかし、たとえ香木が貴い物でなくても、私が買ってこいといった珍品には相違ないのだから大切だと思うのは当然のことである。全て功利の念をもって物を見たならば世の中に尊いものなど無くなってしまう。ましてや今回お前が持ち帰った伽羅は試してみたら希代の名木であった。私は古歌に因んで銘を【初音】とつけた。今回のこと天晴れ」と言ってわざわざ死んだ横田の遺児を呼んで酒を交わし遺恨を残さないように誓約を交わすように取りなした

寛永三年九月、二条城で後水尾天皇の行幸があり、その際件の名香が所望され、三斎はこの伽羅を献上しました。この名木には天皇も感銘を受け、古歌に因んで【白菊】と名付けました

一方、末木を持ち帰った伊達家では【柴舟】と銘をつけ珍蔵したということです

弥右衛門はこの功績により二代の君主に仕え三斎の一周忌の日に大徳寺清厳和尚の引導によって晴れがましく殉死します。

注) 『興津弥右衛門の遺書』とは江戸時代の書物『翁草』に著されていた興津弥右衛門の物語を基に文豪:森鴎外が書いた小説です
この小説は明治天皇大葬の日に乃木大将夫妻が殉死したことに端を発し大正元年10月に発表されています


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