●そもそも「倭」とは 中国の古い文献『山海経(せんがいきょう)』の中に「・・・倭の北にあり。倭は燕に属す」という記載が ある・ この「燕」という国は紀元前三〜四世紀頃に中国北部に勢力を持っていた国で、紀元前三〜四世紀というの は日本は縄文時代晩期にあたる。 この事から推測すると、もうこの頃に中国から「倭」という一つの国として見られていたと考えられる。 ただこの『山海経』はあまり信憑性が高くない、といわれているのでどうであろうか? ●中国正史においては 前漢王朝の正史『漢書』の中の「地理誌」燕地の条に「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。〜」 と記されている。 ●倭=「ワ」という呼び方 (1)『弘人私記』『釈日本記』には、初めて中国、楽浪郡の役所にきた人に役人が「お前はどこから来た のか?」と質問され、言葉がよく理解出来ないままに「私だ」つまり「我(ワ)」といい加減に答えたの で、これを聞いた役人が「倭」という漢字をあてはめて 「倭の国から来た」と記録した。 これは冗談みたいな話しであるが記録に残されている。 (2)また楽浪郡にきた人を役人が見たときに身長150cmくらいの小柄な様子と、そのおとなしく従順 な風体をみて「倭」と名付けたとされている。 この身長150cmという根拠は発掘されている縄文時代の人骨が証明している。 後漢の許慎の『説文(漢和辞典のようなもの)』に「倭とは順なる貌(ぼう・容貌)をあらはす」となって いる。 ●容貌から もしも容貌から小柄で従順な人を「倭」と称していたのであれば、果たして日本人だけに対して言っていた のか、あるいは他の民族にも言っていたのか考えなければならなくなってしまうが・・・