再建・非再建論争





未だに未解決で、法隆寺最大の謎とされているのが、法隆寺は再建されたものなのか、あるいは建立された当時のものなのか・・という論争です。
飛鳥様式の建築美を伝える西院伽藍は明治時代から、歴史学者・美術史家・建築家らさまざまな分野の人によって再建・非再建の激しい論争の的になっています。

●明治時代の美術史家『岡倉天心』らの提唱がことの発端です。

§法隆寺に関する記述§

606(推古天皇14)年7月:【播磨国の水田百町を皇太子に施(おく)り給う。因(よ)りて斑鳩寺に納(い)れ給
                 う。】日本書紀より
643(皇極天皇2)年   :山背大兄王(聖徳太子と太子妃との間にできた長子)が蘇我入鹿に攻められ、斑鳩
                 宮は焼失した。
669(天智天皇8)年12月:【時に、斑鳩寺に災(ひつ)けり。】日本書紀より
670(天智天皇9)年4月 :【発卯の朔壬午(三十日)に夜半之後、法隆寺に災けり。一屋も余すこと無し】日本書
                 紀より

上記のごとく日本書紀に記されています。
当時は斑鳩寺と法隆寺は別の寺だと思われていましたが、後に斑鳩寺が法隆寺の古名であることは判明しています。
僅か数ヶ月の内に同じ寺院が二度も焼失したと記されていることはなんとも気がかりなことです。
しかし、焼失が事実だとすれば現存している法隆寺は飛鳥時代のそれではなく、明らかに再建されたものと言えます。

これが岡倉天心らの再建説の根拠となっています。

●これに対して非再建説を主張したのは、男爵北畠治房です
 その論拠は金堂に安置されている薬師如来像の光背銘文からきています。
 天智天皇九年に焼失したのは、推古天皇三十一年、聖徳太子の冥福を祈願して新しく創建された釈迦三尊像
 を本尊とする斑鳩寺であると断じました。

※法隆寺金堂に安置されている薬師如来像の光背銘文

  「池辺大宮治天下天皇。大御身労賜時。歳次丙午年。・・(中略)・・歳次丁卯年仕奉」とあります。
 簡単に説明すると、池辺天皇(用明天皇)が自らの病気平癒を祈って用明天皇元年(586)に大王天皇(推古
 天皇)と太子を親しく召して「寺と薬師如来像を造り奉仕せよ」と発願したが、翌年完成を待たずに崩御された。
 小治田の大王(推古天皇)と東宮(皇太子)の聖徳太子とが用明天皇の遺命を奉じて丁卯の年607年(推古天
 皇十五年)になって御志を果たした・・・ということが判明できます。

 明治38年2月、東京美術学校の小杉博士が再建説を発表、建築史学者の関野貞氏のよる建築様式の考察
 結果及び建築に用いられた高麗尺を根拠とした非再建説。などなど・・
 大正期に入って大正九年からの法隆寺修理解体では西院一帯に焼跡が認められなかったことから、非再建説
 が有利になったが、昭和の大修理(昭和九年から)でまたも様相が一変した。
 昭和十四年、大修理は東院の調査と前後して若草伽藍址の発掘調査も開始し、伽藍の配置が四天王寺式(中
 門・塔・金堂を南北一直線に配する様式)であったこと、また当該地に焼跡が確認されたことなどから、かつて
 の斑鳩寺との同時併立設は完全に否定された。

 その後も工事・調査が進み、特筆すべき事として金堂の天井に描かれている人物の服装からは、明らかに天
 武天皇朝以後のものであることが発見されている。
 近年においては伽藍配置様式の研究もすすみ、飛鳥寺や川原址の調査から法隆寺様式はさほど古いもので
 はなく、白鳳期にはじまるものではないかともいわれています。
 現法隆寺は、焼失したもとの場所に再建されたものではない。創建法隆寺は現位置よりもっと東南にあり、
 南北軸に対して西に二十数度傾いていた。この根拠は太子の時代に、現在大和にその痕跡をとどめる条理制
 以前の古い土地区画が行われたことを実証している。

 昭和の発掘調査で現在の法隆寺の東南に若草伽藍が確認され、これが斑鳩寺すなわち旧・法隆寺の伽藍で
 あることがわかり今日では再建説が通説になってはいますが・・・いずれにしても世界最古の木造建築には
 違いない。

●それではいつ頃再建された建物なのでしょうか?

 X線を使って樹木の年輪からその木の樹齢をわりだす【X線年輪年代学】というものがあります。
 この測定方法によって法隆寺の心柱の最終年輪が591年であるという事がほぼ確定されています。
 一般的に伐採された木は樹皮を削り「白太」と呼ばれる部分を捨てます。
 そして中央部分の赤色部分が建築用材として用いられます。
 この白太部分の年輪はだいたい70〜80年と言われており、この数値を先程の591年に足すとだいたい
 660〜670年の間に伐採された木材だと推定されます。

 よってこのことから、現在建っている法隆寺の五重塔は660から670年ころから建築がはじまったと考え
 られます。
 この時期は丁度天智天皇九年の法隆寺焼失時期と重なり大変微妙な時期となっています。
 このために五重塔(和銅4年:711ころに完成)より金堂(天武・持統朝ころ完成)のほうが建築様式が古いとさ
 れているので、日本書紀に記録されている『670年に一屋も余す所無く焼失した』という記事を考えると、
 ますます謎が深まってきます

 金堂には釈迦三尊像・薬師如来像・阿弥陀如来像の三体が安置されています。
 聖徳太子のために造立(推古天皇三十一年:623)された釈迦三尊像の台座裏に書かれている【辛巳】
 という年号(辛巳とは621年のことで、聖徳太子は622年2月22日に薨去している)は
 何を意味しているのでしょうか?
 しかもこの釈迦三尊像の台座には斑鳩宮に使用されていたらしい部材が転用されていたのです・・・

 ますます謎が深くなるばかりです

 また薬師如来像の光背の銘文によると、推古天皇15(607)年に聖徳太子が用明天皇のために造ったと記さ
 れており、この銘文のとおりだと、薬師如来像は釈迦三尊像より古いこととなります。
 しかし実際に仏像を比較してみると、どうしても薬師如来像のほうに後代要素が多く見られます。
 飛鳥彫刻は普通は非常に面長な顔立ちが特徴で白鳳時代に入ると丸顔になります。
 薬師如来像は、釈迦如来像よりはるかに丸顔に近い造りになっています。
 金堂西の間に安置されている阿弥陀如来像に由緒は明確であり、運慶の子息の康勝(こうかつ)が造ったもの
 で、薬師如来像を模写して造られたものであり、鎌倉時代の作でその顔立ちは非常に人間くさい顔立ちになっ
 ています。


※参考までに
  薬師如来像光背銘文に見るその後の流れを掲載しておきます。

621(推古29)年:穴穂部間人皇后が亡くなる。
622(推古30)年:太子も病に倒れる。さらに太子を看病していた太子妃(膳夫人)も病床に臥した。
           その時に他の太子妃や山背大兄皇子をはじめとする皇子・諸臣が、太子と等身大の釈迦像の
           造顕を発願したが膳夫人、聖徳太子と相次いでお亡くなりになられた。
643(皇極29年:蘇我入鹿に攻められた山背大兄皇子一族は斑鳩の里で自害して太子一族は滅亡した。



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