昔から、有名な寺社には七不思議や七つの謎とよばれる伝説が存在することが多いです。
ここ、法隆寺にもやはり存在しています
(1)伽藍の建物にクモの巣がはらない。
(2)地面に雨だれの穴があかない。
(3)五重塔の九輪に四本の大鎌がある。
(4)三つの伏蔵がある。
(5)因可池(よるかのいけ)に片目の蛙がいる。
(6)南大門の前に鯛石という大石がある。
(7)夢殿の礼盤(らいばん)の裏があせをかく。
もっともこれらの言い伝えには当然ながら異説があり、このほかにも
(8)雀も伽藍の建物に糞をかけない。
(9)舎利から太子が見える。
(10)不明門(あかずのもん)と不閉門(しめずのもん)がある。
1・5・8の話しは聖徳太子の御偉徳と結びつけて説明されるもので、実際に法隆寺に行けば事実では無いことが一目瞭然である。
(5)は東大門から夢殿に至る大路の右奥にある。
この一帯は斑鳩宮があった場所で、太子が学問をしているとき、蛙があまり鳴くので、筆の先で静かにせよ・
と片目をついたところ、この池の蛙は全て片目になったといわれている。
(2)については法隆寺の境内は地盤が固いために、雨だれの穴が比較的小さいだけで、建立に際し太子が地盤
のしっかりとした土地を選んだとする言い伝えからです。
(3)は何故付けられたのか謎ではあるが、落雷の難から逃れるためにあるという説があります。
※別ページにて詳しく説明(塔頂の鎌の謎)
(4)伏蔵とは地中に埋められた宝蔵の事で経典中にもこの名はみられ、インド伝来のものである。
伏蔵は金堂・経蔵・大湯屋の前にあり、後世法隆寺が危機存亡の際に開ければ納められている財宝を
使いなさいというもので、信仰上から今まで開けていない。
(6)南大門の階段下にある大きな石で、大和一円が水害にあったときでさえ、水は南大門まで
おしよせてきたが、境内には入らなかったと云われている。
そこまで鯛が泳いできたことを示したものと云われている。
実際には法隆寺の立地が高燥な場所にあることの説明になっています。
(7)夢殿の救世観音像の前に礼盤と呼ぶ僧が座るものがある。
毎年旧暦正月十二日(2/12)に外に出して日に当てるという行事で『お水取りの行事』という。
その時に水気の多い少ないで豊作・凶作を占ったという。
(9)舎利は舎利殿に安置されているもので、太子が二歳まで手中に握っていたと伝えるものであるが、
水晶の舎利容器を通して太子のお姿が見えるという信仰であるが、実際にはそのようなことはありません。
(10)は法隆寺の建築や伽藍に関することで、不思議といえば不思議である
これら以外にも『石田茂作氏の提唱する七不思議』『梅原猛氏の怨霊寺説(著作:隠された十字架)』等様々な不思議説があり、興味があれば読んでみるのも面白いかもしれません。
一般的には聖徳太子が創建したとされているが、明確な記載が残されていない。
同寺異名とされる斑鳩寺の名は日本書紀に三度みえるが、創建者たる聖徳太子に関する記事は推古四年の
一度だけである。
蘇我馬子が創建した法興寺を詳細に記述した『日本書紀』の同一編者が、何故仏教の養護者たる聖徳太子創
建の寺については記述しなかったのか
皇極二年に蘇我入鹿は斑鳩宮に住む聖徳太子の長子(山背大兄皇子)を巨勢徳太らに襲わせている。
徳太は斑鳩宮を焼き払っているが隣接している斑鳩寺については、占拠もせず帰還している。
寺を無傷で残した理由には、総司令官の蘇我入鹿の何らかの思惑があったと考えられる。
何か斑鳩寺をつぶせない理由があったのではなかろうか・・・
『法隆寺伽藍縁起并流記資財』の記述に、斑鳩宮を焼亡させた将軍の一人、巨勢徳太が大化四年に法隆寺へ
食封三百戸を施入したことを記してある。
蘇我氏、さらに中大兄皇子と仕え左大臣にまで出世をした時代に敏感な巨勢徳太が、この微妙な時期に自分
が滅ぼした上宮王家の寺に食封施入を何故行ったのか・・・
『日本書紀』に記載されている法隆寺関係唯一の記事が、この天智天皇九年四月三十日未明に法隆寺が全焼
したという記事です。
そしてこれに続く五月条の童謡は何を意味示しているのでしょうか?
さらにこの童謡と全焼の記事との関係は・・??
日本書紀に記録が残されていない。 再建・非再建説とは
釈迦如来像は金堂に安置される御本尊です。
しかし、同じ東ノ間にある薬師如来像が創建当時のものであると云われている。
聖徳太子はどちらの仏像を前にしていたのでしょうか?
法隆寺の南に所在している神社です。
この神社は法隆寺の鎮守として建立されたという記事が竜田本宮縁起に記されています。
孝徳天皇朝に造営されたという内容から、この神社が法隆寺再建とも大きく係わっているといわれています。