2005年1月24日(月)  晴れ

五七日

週末2日間で親戚の五七日(いつなのか)を済ませてきた。初七日が数えで秦野→京都→甲子園と強行敢行だったが、一通りの儀式を執り行ってきた。亡くなった人を弔うということは一度しかないことなので、できる限り完璧なまでにしてあげたいものだ。

冠婚葬祭の中でも、近年は急激に葬の部分が多くなった。一頃前までは婚がメインだったのだがな。20代では周りがどんどん結婚し、30代も後半になると私の世代の両親や親戚がいなくなったりする。このフェーズを過ぎると、あとは自分たちの番になるまでだ。あー、人生長いようで短いようで。

今回は3箇所でお経を唱えてもらった。それぞれ浄土真宗のお寺で、僕らにはごにょごにょごにょとしか聞こえないお経の調べの中に時たま聞こえる「南無阿弥陀佛」とともに数珠をとり祈祷する。生まれるときにはお宮参りし、結婚するときには教会で式を挙げ、死ぬときにはお寺で供養していただく。変わった人種ではあるが、当たり前のように日本人はそうする。

最初のお寺の一向寺住職さんは70ぐらいの方で、お葬式もしてくださった人。その前回も今回もお経を上げてもらった後、説法を聞いた。住職がおっしゃるに、

「この世の中に誰一人として両親のいない人はいません。」
ここで、ふむ、確かにそうだな、と感銘した。逆説的な一言だと思った。そして住職は続けた。

「また、誰一人として同じ人はいません。自分が生まれてくるには二人の人がいる。母親に父親。その母親や父親が生まれてくるには祖父・祖母がそれぞれに必要で、その人たちが生まれるためには8人の両親がいたからなのです。今こうしてあなたがここに存在しているのは過去に14人の人たちがいたからであって、この誰一人として欠けていたならば、あなたは今こうしてこの場にいなかったのです。」
と。そして、
「仏教の言葉に三世という考え方があり、10世代も遡れば、2000人以上の人があなたの生まれる前に存在した。過去のこうした先祖の積み重ねで今現在のあなたがいる。あなたという人は自分ひとりのものではないのです。この体はご先祖様のものなのです。これからもそういうことに感謝しながら未来を生きていきなさい。」

お年を召されているのもあってか、なかなか説得力のあるお話でした。もちろん浄土真宗の教えに基づいた考え方なのだと思うが、こういう時のこういうお話は悪いものではない。普通なら30分も正座するとか、神妙に祈りを捧げるなどまずない。お正月のお参りでさえも、疑い半分で数十円のお賽銭に願いを託してお祈りする程度。にもかかわらず、人の生や死に面したときは、もっと深いところで信仰心が沸き立ってくる。すんなりと心の中に入っていくものだ。

法要が終わった後、雑談の中で、昔のお寺は政治や戦争に深い関係があったというようなこともおっしゃっていた。確かにそうみたいだ。歴史の本を開ければ、大抵の時代にお坊さんが出てきたり、天皇が法皇になったり、一向一揆があったり。宗教はそもそもは人を救うためにできた信仰であるはずなのに、古代の昔から争いごとの中心でもある。聖地を奪い合う聖戦は、形を変え武器を変え今の今でも続いている。人は譲り合うこと、敬いあうこと、助け合うことはできないものなのだろうか。そもそも人という括り方は間違いなのかもしれないなあ。誰一人として同じ人はいないのだから。永遠に解決されない不和なのだろうか。