■愛


 愛っていろんな意味で使われてる。愛はそのときに精神的にも肉体的にも好きな人なのか、精神的に好きなだけでそれは愛なのか。

 よく考えることに恋愛と家族愛がある。自分の中では愛の二体系で、それぞれなんとなく砂時計のように、シーソーのようにバランスでできているようにも思える。たいてい人がめぐり合ってお互いを好きになると愛情を持ち始める。いろんな話ができて、難しい話も、悩みも打ち明けられて、いつも一緒にいてもおかしく感じなくて、半面、尊敬したり尊重したり。セクシャルな気持ちも沸いてきて抱きしめたりキスしたり、一つになりたいなと思ったりする。精神的に澄みきった気持ちになれて、肉体的にも生き生きとした状態が続く。

 ただ、時にそれに倦怠期が訪れる。慣れからなのかそれともお互いが「合わない」ことに気づくのか。そうなると精神的あるいは肉体的、または両方の気持ちが冷めてくる。両方冷めると多分別れるだろう。肉体的な部分だけ冷めるのはどうやら結婚してからが多いようだ。

 一緒に住み始めて、四六時中一緒にいる。ほとんどを共有する。長くなればなるほどお互いの好きなところと嫌いなところが見えてくる。好きな部分は慣れっこになってしまう半面安らぎに形を変える。嫌いなところは嫌と思い続けどんどん強調されていく。こうなってくると家族愛の比率が上がってくる。刺激と激しい感情が渦巻く恋愛感情が抜け落ちて、二人の関係は安定と気楽さが前面に押し出された関係になる。

 恋愛と家族愛を持ちつづけるカップルは少数派だろう。時間が経てば経つほど恋愛は抜け落ちて、家族愛がよりその容貌を見せ始める。自分自身は恋愛のないカップルは悲しいと思う。家族愛と恋愛をバランスよく、ちょうど砂時計を半分のところで横に倒したようにして、その砂時計の大きさをより大きいものにできれば最高だと思う。でもたいていは恋愛の砂を家族愛の方に移してしまいがちで、家族愛に移してしまった砂をひっくり返すことができなくなってる。恋愛を持ちつづける自分でいたいと思う。

 別れた後も別れた人と会うのは間違いだろうか。僕はそうは思わない。あくまで一度は愛した人なのだから。自分の気持ちがうそだったのならまだしも本当に愛した人なら、そんなに嫌うこともない。人には誰でもいいところと悪いところがある。悪いだけの人などいないはず。愛してしまうまでの人を嫌えといわれてもそれは難しいことで、それなりの理由がないとできやしない。別に会うからといってセックスをするわけでもなく、付き合っている人を裏切るわけではない。自分のことをかつて愛してくれた人だからこそ、よく自分のことをわかってくれているはずだし、自分も相手のことをわかっている。良いところも悪いところもわかるからこそ、いい友だちになれるはず。

人生で出遭える人は数限られている。何も使い捨てる必要はない。出遭えた人を大切にしよう。出遭えることってすばらしいことなんだから。


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