■すべては相対


 すべては相対だ。絶対というものはない。明るいところがあれば暗いところがある。リッチなやつもいれば貧乏どころか生きていくのもやっとの人たちもいる。愛しても愛し尽くせない人もいれば顔も見たくない奴らもいる。地球は循環している。雲ができればどこかはその分渇き、海に水が流れればその分海面は上がる。木が枯れればそれはいずれ土となり他の木を肥やす。究極をいえばどんなにゴミを捨てようとも、どんな猛毒を処分しようともすべては地球の中で起きていることで、もともとは地球が持っていたものから作られていて、何万年かかるかわからないけど、ゴミも他のものに形を変えて、猛毒も毒を解かれ、また土になっていく(もちろん人は何万年も生きられないからそんなことしたくないけど)。

 誰かが金儲けをした分、世界のどこかで誰かが損している。株で儲ければその分誰かが高いお金を払ってることになるし、利益を出すということはその分の損を誰かがこうむっていることになる。お金をもっと発行すればその分お金の価値は下がる。消費サイクルの中でどこかで儲けている人と損している人がいる。それが経済で、ちょうど波と似ている。どこかに波が立つということはその分隣の水が低くなっているわけで、決まった量のものを不均等に分けているに過ぎない。

 相対だからこそ生きてくるものがある。喜怒哀楽。ずっとうれしいことばかりが続くとそのうれしさの価値を忘れてしまう。ついこの前まで飛び上がって喜んでいたことでも、それがずっと続いてしまえば、「なーんだ、またこれか」と飽きてきてしまい、その喜びを感じ取れなくなってしまう。つらいことも続いてしまえば、つらいことはつらいかもしれないがそれほどに感じなくなってきてしまう。

 一番好きな人って誰だろう?多分死ぬまでわからないことで、言い換えると「一生の中で最後まで一番好きだった人」になると思う。ある時点で「もう、この人しかいない!」と思っていてもしばらくして他の人と付き合ってたりする。もちろん、環境も状況も時間とともに変わる。気持ちが変わるのは仕方ないし、その環境と状況下で「絶対」だったのかもしれない。でも、それは過去との相対でその人が絶対的な存在だったのであって、未来も掛け合わせたら、いったい誰が絶対的な一番だったのかなんて、死ぬまでわからないんだろう。

 宇宙に果てはあるだろうか?絶対的な端っこはあるだろうか?「端」や「果て」という言葉はそこで区切れているということであり、その言葉自体が表と裏、左と右、上と下、あちら側とこちら側という存在を意味する。区切るということは両面あるのだ。「宇宙」という言葉が人間が考えうるすべての空間なんだとすると、「宇宙の果て」という言葉自体が矛盾している。果てがあるということはその向こう側に何かあるということで、何か他にあるんだったら宇宙は宇宙という意味をなさない。「宇宙」という言葉自体が絶対的な何かを指しているのではなくて、人間が想像のつく限度でのすべてというある意味相対的な範囲での話をしているのだろう。円周率に似ている。絶対的な数値で円周率を測ることは誰もしないだろう。永遠と続く円周率を割り出すだけで一生終わってしまう。

だから、悔やむもいい、喜ぶもいい。この相対の世界で生きている限り、絶対的な喜びや絶対的な悲しみもない。絶対的な幸せなどもなければ、絶対的な苦しみもない。浮き沈みあるからこそ一生は楽しいんだと。


[Essayトップ]