■子供への励まし


 僕の母親は人を励ますのがあまりうまくなかった。子供のころは誰もがいろんなものに興味を持つものだが、それを励まして勧めることを彼女はあまりしなかった。守りたかった気持ちもわからないでもないが、こうして大人になって思い返して感じることはもっと僕を後ろから押してくれていたらもっといろんなものを試してこれたのではないかなあと思う。

何かを買いたい、どこかに行きたい、子供ながらの挑戦心をそぎを落とすような「だめ」の言葉に、僕はただただ従っていたように思う。うまくやったことに対して励ますのではなく、さらに上をという親の気持ちもわからないでもない。転寝している子供にちゃんとして寝なさいというのは正しい。正しいけれども、それがいいことなのかどうかはまた別なもので、眠たくてコタツで眠りたいからこそそこで寝るわけで、風邪を引かないようにしておいてあげればいい。おもちゃは勉強の妨げではなく興味をかき立て執着心を育むもので、ロックを聞くことはだらしなさと騒音なのではなくて、気持ちを落ち着かせ自分のアイデンティティーを代弁してくれるものだったりする。

テストで80点とったら、それは上に100点の人がいたんじゃなくて、下に何人も70点台の人がいたってことで、喜ばしいことだ。鉄棒ができなくても、縄跳びができなくてもいい。少しでも足が速ければ、人にやさしく接することができれば、どんなことでもいい、他で人より何か秀でてるものが少しでもあれば、それを伸ばしてあげればいい。親ならではの焦りなのだろうか。ちっちゃな子供を見ていて、大きくなったときのことを予言できるわけでもない。どんな子供になるんだか心配なんだろう。それなら自分の思い描く理想の人間に育てたい。それが親なんだろう。少なからずある希望がちょっとでも出続ければそれを子供は感じ取る。それに従うものもいれば逆らう子供もいる。

でも高校生ぐらいになり、重要度が家庭からともだちに変わってくる。友だちに対する自分のプライドと地位の誇示に躍起になってくるころ、反抗期と呼べる時期がやってきて、次第に「自分のしたいことをしてもいいんだ。世界はそんな狭いものではなくって、みてないものは五万とあるんだ」っていうことに気づく。

親のよかれが子供の感謝につながるとは限らない。本当に子供のことを考えてあげるということはどんなことなのか。それは縛ってしまうことではなくて子供の可能性を広げてあげることだろう。あくまで後ろから見守ってあげる。それだけでいいのだと思う。言うは易し、行うは難しだが。


[Essayトップ]