宇治茶と御茶師

若原英弌

宇治茶は、すでに中世において「天下一」の名を得て世に知られていた。 だが、その宇治茶を生みだした「茶作りの匠」たちが、「御茶師」と 呼ばれるようになったのは、いつのことであったのか、 よく知られていない。

しかし、父祖伝来の技をうけついだ御茶師は、広大な茶薗を葭簀や 藁で覆って、色沢・香味ともにすぐれた「碾茶」を創製し、 また「正喜撰」や「玉露」と名付けられた最高級の緑茶を世に もたらすなどの、かずかずの発明・工夫をなしとげた。 それは、まぎれもなく、ゆたかな伝統に育くまれた御茶師たちの 技と努力のたまものであった。

千利休によって大成された茶の湯は、かつて上流社会の社交の場と されていた。したがって、朝廷・幕府をはじめ公家や諸藩の大名は、 その日常生活から宇治茶を取り去ることはできなかったのである。

すなわち幕府は、毎年御茶壺道中を行なって、将軍や側近の人々が 喫する宇治茶を江戸城に運ぴ、朝廷は京都所司代を通じて宇治茶を もとめた。諸国の藩主もそれぞれ最寄りの御茶師を御用達として、 その茶を手に入れた。なかでも有力な大名は特定の御茶師を抱え て扶持を与え、領内での特権を許した。

江戸時代の宇治は幕府の直轄地(天領)とされ、御茶師である 上林氏に知行を与え代官とし、御茶帥全体の統轄を命じていた。 これを茶頭取といった。将軍家御茶御用の際は、茶頭取以下すべての 御茶師がその御茶詰めをつとめた。

御茶師には、御物御茶師・御袋御茶師・御通御茶師と呼ばれる 三階級があり、それぞれが別個の仲ケ間をつくっていた。 これが御茶師三仲ケ間である。

御物御茶師ははじめ八家で組織されていたが 元禄年間に十一家に 増員された。その役割は御物すなわち将軍の喫する茶と、 将軍から朝廷や日光・久能山などのほか寛永寺・増上寺などの 菩提所へ献ずる茶を調達することであった。そのため御物御茶師は、 宇治の多くの御茶師のなかで最高の格式をもつものとされていた。

九家の御袋御茶師は、歴代の将軍が、江戸城内の紅葉山東照宮に 奉納する茶壺に、極上新茶二袋づつを詰め加える栄誉を担っていた。 それは大阪夏の陣以来の由緒であったという。

御通御茶師は、御袋御茶師とともに幕府の用いる多量の茶を納入する 役割りをもっていたが、その仲ケ間の字数は一定していなかった。 古くは三十余家が仲ケ間に加入していたようだが、年を追って減少し、 幕末には僅かに十三、四家のみとなっている。

明治維新によって幕藩体制が崩壊し、その庇護をうけていた御茶師は、 一朝にして顧客を失い、たちまち御茶師三仲ケ間も潰え去って、 櫛の歯が抜けるように門戸を閉ざし、宇治を離れるものも出た。

貞享二年(1685)刊の「京羽二重」巻六に

 ○御茶師
   宇治橋筋   上林峯順   宇治橋筋    上林竹庵
   橋 詰    上林味ト   橋詰裏がわ   上林平入
   竹庵むかい  上林春松   橋すぢ     上林三入
   地蔵堂前   尾崎有庵   鷺のはし    星野宗以
   一ノ坂    酒多宗有   橋すぢ     長井貞甫
   橋すぢ    吉村道興   橋すぢ     竹歩道雲
などとみえるように、長屋門の軒を連らねた宇治橋筋の御茶師の構えは、 つぎつぎに失われ、町並の景観は大きく変貌してしまった。 いま、かつての御茶師の町のおもかげを偲ばせてくれるものは、 ここに残る御茶師の長屋門の構えのみとなっている。

同時に、御茶師各家に存在していたであろう厖大な資料・古記録も そのほとんどが散佚し、今では宇治茶業史の全貌を窺うことは、 至難のこととなっている。だが、幸いにも上林春松家は茶業のともし火を 守りつづけて、そこにいくばくかの資・史料が保存されている。 それは伝統ある宇治茶業の貴重な資・史料であり、全国に類のない 宇治茶の輝かしい歴史をひろく世に知らしめ、永く将来に伝え得る 大きな光明でもある。

[前ページ(宇治・上林記念館の記)へ]
[次ページ(葉茶壷 「清香」)へ]

[上林記念館のホームページへ]
[ティーポット・ギャラリーへ] [日本文化かなあ、、へ]
[ティーポットサロンのホームページへ] [ティーポット・ゲストルームへ]