略史
現在のルクレイドの位置には、前聖歴412年に成立したイーフォン皇国が存在しておりました。しかし、後に皇国内では反乱が相次ぐようになり、ついに前聖歴184年、皇国を離反したカリスト人によってメルレイン王国(現ルワール、メルリィナ、ルクレイド)が建国されます。これによって皇国の分裂は加速し、聖歴元年のイーフォン皇帝の死によって遂に滅亡を迎えると、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。
やがて聖歴31年になるとメルレイン王国では継承戦争が勃発し、ルワール大公派が東メルレイン諸公国連邦として自治権を得るとともに、ルクレイド地方の北西部にパディストリア五王国が建国されます。また、この他にも王国を離れ、フレイディオンにあったブリンテンハウラ連盟に加盟する貴族も多く出ました。
中立派は再びメルレイン王国に従属する立場となりましたが、国内制度の改革に伴って冷遇されるようになったため、パディストリア五王国との2重封領として振る舞います。そして聖歴138年、メルレイン王国で王朝が交代してキルリア王国へと名を変えると、それを機会に彼らはパディストリア五王国と手を結んで、新たにフローヴィエンヌ王国を建国します。また、現ルクレイド南部のアルア公国とルピッツ公国の2公国がキルリアから離反し、両家を首長とするアルア=ルピッツ連盟を成立させて、幾つかの周辺諸国とともに王国から独立を果たします。
しかし、聖歴290年頃になると、キルリア王国はブリンテンハウラ連盟(現フレイディオン)と結んで、フローヴィエンヌ王国を征服します。そして、聖歴410年にはブリンテンハウラ連盟を倒して現ルクレイドの地から追いやり、続いて聖歴437年には、宗主権問題で揺れていたアルア=ルピッツ連盟を併合し、旧メルレイン王国時代の2/3ほどの領土を支配下に置くこととなりました。こうして、現ルクレイド全域の殆どは後キルリア王国に支配されることになりますが、聖歴460年頃にが起こり、聖歴468年にハルモニア王国を建国します。しかし、ハルモニア王国は聖歴578年になると内部で分裂し、キルリア王国の後を継いだメルリィナ王国とクレンヴェルヌ王国(フレイディオン南部)の侵入を許し、全領土を支配されてしまいます。そして、メルリィナ国王は弟エバートをこの地の王に封じ、新たにブローヌベント朝エシディア王国が起こることとなりました。
その後、聖歴622年にメルリィナで王家直系の血筋が途絶えると、ルワール、エシディアの君主が継承権を主張し、3国によるメルリィナ継承戦争が勃発します。継承戦争は12年間続きますが、最終的には聖母教会の仲介によって和平会談が行なわれ、メルリィナ国内のヴァレンシア公爵家から王を出すことで、継承戦争はようやく終わりを迎えました。メルリィナはその代償として、エシディア王国には北部の鉄山地域を割譲することになります。
しかし、その後の王国では戦勝地の利権を巡って内部の分裂が起こり、国内貴族に幾つかの派閥が生まれ、政治腐敗が加速されることになります。このため、聖歴700年代に入ると他国の人権革命の影響を受けた思想家が活動するようになり、民衆の間にも政治参加の権利を求める声が叫ばれるようになります。そして聖歴757年、ついに共和主義派による5月革命によって王制は打倒され、ルクレイドという新たな国家が誕生することとなりました。革命が起こって32年たった現在ですが、まだまだ国内が安定しているとはいいがたい状況です。しかし革命政権は慎重派が多く、ゆっくりと政治形態を模索しながら体制を徐々に強固にしています。こういった現政権に対して、旧王権派の残党がテロ活動を行ったり、過激な改革派が独立州を確立しようとして活動したりと、まだまだ国内には問題が山積しています。
◆ルクレイド年表
前聖歴 出来事 412年〜 7公国からなるイーフォン皇国が成立する。皇国はやがて隣国エクセリールと戦いを繰り広げる。 184年 カリス卜人の反乱によって、皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 31〜35年 メルレイン継承戦争が勃発。ルクレイドにはパディストリア五王国が建国される。また、ルワール地方の諸邦国は東メルレイン連邦自治領として自治権を得る。 138年 メルレイン王国が滅亡し、諸侯の支持を得たフゼール朝によるキルリア王国が誕生する。反キルリア派の貴族はパディストリア五王国と結んでフローヴィエンヌ王国を建国する。 220年 南部のアルア公国とルピッツ公国の2公国がキルリアから離反し、両家を首長とするアルア=ルピッツ連盟を成立させて王国から独立。 290年〜 キルリア王国がブリンテンハウラ連盟と結んでフローヴィエンヌ王国を征服する。 323年 キルリア王国とブリンテンハウラ連盟が争う。敗北したキルリア王国は戦勝地を失う。 360年 ソファイア王家の後ろ盾を得たパドウィック侯爵により、後キルリア王国が建国される。 410年 後キルリア王国がブリンテンハウラ連盟を倒し、先の敗戦で失った領土の殆どを取り戻す。 433年〜 都市国家半島で火山の爆発が起こり、数年のあいだ飢饉が続く。 437年 アルア=ルピッツ連盟が後キルリア王国に併合される。 460〜468年 かつてアルア=ルピッツ連盟に参加していた諸国が同盟を結んで反乱を起こし、聖歴468年にハルモニア王国を建国して独立を果たす。 471年 後キルリア王国が滅亡し、聖歴478年にブレイヴィオ朝メルリィナ王国が誕生する。 578〜584年 ハルモニア王国でクーデターが起こり、新議会が設立される。革命諸侯に反発した貴族との間で内乱が勃発するが、これに干渉したメルリィナとクレンヴェルヌ王国に全土が征服される。この地にはメルリィナ国王の弟が王となるブローヌベント朝エシディア王国が建国される。 622年 ルワール、エシディアとの間でメルリィナ継承戦争が勃発。 634年 カーカバートの調停により、メルリィナ継承戦争終結。国内のヴァレンシア公爵家から王を出すことで決着する。 757年 共和主義派による5月革命が起こる。王制は打倒され、共和主義国家ルクレイドが建国される。
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詳細史
○メルレイン王国(前聖歴400年〜聖歴6年)
前聖歴400年代の初頭、大陸西部域で有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになりました。そして前聖歴460年に、ヴァリュア、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼット、エルンシュテンの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦乱が始まります。7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、前聖歴412年に残り5公国の領地を手中に収め、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国と周辺諸候国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南西部)を誕生させます。隣国エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。
こうして力をつけていったイーフォン皇国ですが、やがて政治に口を挟んでくる聖母教会を疎ましく思うようになり、前聖歴240年頃になるとその影響力を積極的に削ごうとしてゆきます。そして前聖歴198年に、当時のイーフォン皇帝は独断で法教会への改宗を果たし、これを皇国の国教として布教しようとします。法教会の教皇はイーフォンの王権を神が認めた権威であると宣言し、神の名の下に戴冠式を執り行おうとします。しかし、教会の反教皇派および諸侯の反発によって皇国内部に不協和音が生じ、戴冠式の直前に起こった一部の聖堂騎士による法教会教皇の暗殺に続いて、改革派による組織の大刷新が始まります。この改革により教皇という地位そのものが消滅し、新たに法王を教主とする組織が法教会の主体となります。
これら一連の動きに対して、聖母教会を深く信仰していた南方の民は古くから反発する姿勢を見せておりましたが、皇帝が戴冠式を強硬しようとしたことで怒りは頂点に達します。そして法教会内で争いが起こると、カリスト人を中心とした諸公国はすぐに自公国の国教を聖母教会と定め、帝国から離反することを宣言します。
国内の混乱を収めることを第一とした皇国は、これら南方諸侯の反発を押さえるために、なし崩し的に彼らの自治を認めることとなりました。しかし、それでも彼らの不満は払拭されず、ついに前聖歴184年、聖母教会の守護を名目としたメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が誕生することとなります。こうしてエルモア中央部の勢力は、大きくイーフォン、メルレイン、エクセリールの3つの分かれることとなったのです。
その後、この3勢力は領土を巡る争いを繰り返すことになりますが、聖歴元年に1つの大きな事件が起こります。それがユナスの降臨として知られる奇跡で、彼女はイーフォン皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、長き戦乱時代が訪れることを人々に伝えました。直後、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、その後の皇国は内乱によってわずか6年で滅亡することとなったのです。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代は崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。なお、イーフォン皇帝の死は神による天罰と人々は信じ込み、力を失いかけていた聖母教会は多くの信者を取り戻すこととなりました。
○メルレイン継承戦争(聖歴6年〜35年)
イーフォンという最大の脅威を失ったエルモア地方では、メルレインは大陸南部を支配する大国として君臨するはずでした。しかし、当面の外敵を失った彼らは、聖歴31年に王を失ったことをきっかけとして、内部での争いに力を注ぐこととなります。
メルレイン王国は、現メルリィナの都市カトラシア周辺を治めていたメルンヴェルヌ大公国を首長とする国家で、メルンヴェルヌ大公が代々王位に就いておりました。しかし、時のメルンヴェルヌ大公ウィシャスには跡継ぎがなく、亡き兄の娘にあたるフェゼリア公デュティーネを後継者に指名して亡くなりました。しかし、前王の弟であったルワール大公ブランソンはこれを不服とし、東部諸侯を味方に付けて自らの継承権を主張します。これに対して、デュティーネを正統後継者とする諸侯はフェゼリア連盟を結成し、大公派を逆臣として激しく非難しました。そして、両者の反目は王国を大きく2つに分かつことになり、メルレイン継承戦争と呼ばれる戦いへと発展してゆきます。
ルワール大公はジグラットに協力を仰いで、やや不利な情勢を一気に逆転しようと試みました。これに対して、フェゼリア連盟は現ルクレイド南部の諸侯を味方に引き入れようとしますが、彼らは情勢をひとまず静観しようと考え、中立の立場を装って動こうとはしませんでした。これらの動きを見て野望を抱いたのが、最初は中立派に属していたステッドバイン公国のルージュモン侯爵です。彼は自身がイーフォン皇家の血筋であることから、ルクレイド北西部やフレイディオン南部を中心とした旧イーフォンの所属国を味方につけると、フェゼリア連盟に対する進攻を開始しました。
ルージュモン侯爵は、当初は大公派と結んでフェゼリア連盟を挟撃する心づもりでした。そして、ルワール大公を王位につける代わりに、自派諸侯による同盟の自治を認めるよう書状を送ります。しかし、ルワール大公はイーフォンの血脈が力を得ることを警戒し、一時フェゼリア連盟と手を結んでこの撃退を図ります。そして最終的には、両派が協力してルージュモン侯爵の軍勢を退け、継承戦争は4年で終結を迎えることとなります。
結局、フェゼリア公デュティーネはメルレイン王国の正統後継者として王位に就くことになりますが、その代償としてルワール大公派の公国に、東メルレイン連邦自治領として自治権を与えることになります。連邦は名目上はメルレイン王国に従属する立場でしたが、司法権限と徴税権などを託されたルワール大公国は、事実上の王として君臨することになりました。そして、彼ら自身は東メルレイン連邦自治領とは呼ばず、東メルレイン連邦国家と称するようになるのです。また、兵を引いたルージュモン侯爵は周辺4公国を味方につけて、現ルクレイドとフレイディオンの国境付近に、独自にパディストリア五王国を建設します。残りのルージュモン派の貴族はこれに付かず、フレイディオンにあったブリンテンハウラ連盟に加盟しました。
○メルレイン王国からの独立(聖歴35年〜聖歴220年)
中立派は再びメルレイン王国に従属する立場となりましたが、信用を失った彼らはその後の国内制度の改革に伴って、様々な面で冷遇されてゆくようになります。そのため、後にルージュモン侯爵が建国したパディストリア五王国との2重封領として振る舞います。そして聖歴138年になって、メルレイン王国では王朝が交代してキルリア王国へと名を変えると、それを機会に旧メルレイン国王派の貴族はパディストリア五王国と手を結んで、新たにフローヴィエンヌ王国を建国します。それから聖歴170年までに間に、現ルクレイド南部を治めていた諸侯の半数以上がキルリア王国から離れ、フローヴィエンヌ王国に従属するようになりました。
その後、聖歴200年を過ぎると、キルリア王国は現ルワールの地にある東メルレイン連邦自治領と戦うようになります。この時、フローヴィエンヌ王国がカーカバートの仲介で東メルレイン連邦と手を結ぶと、キルリア側は情勢の不利を悟ってソファイアへ援軍を要請することとなりました。しかし、前線の砦で伝染病が蔓延したために自然崩壊に近い形でキルリア王国は撤退を開始し、それ以上の戦いを重ねることなく戦いは終結します。こうして東メルレイン連邦自治領は完全なる自治を獲得して、ルワール大公を首長とする東メルレイン連邦国家として正式に成立することになります。
この時、現ルクレイド南部のアルア公国とルピッツ公国の2公国がキルリアから離反し、両家を首長とするアルア=ルピッツ連盟を成立させて、幾つかの周辺諸国とともに王国から独立を果たします。その後、アルア=ルピッツ連盟は、先の戦いで成立した東メルレイン連邦国家やカーカバート、およびロンデニアと手を結んで貿易体制を整え、ラガン帝国やソファイアへの防衛戦を作り上げることになります。
○ハルモニア王国の成立(聖歴220年〜468年)
キルリア王国はこの敗戦によって低迷するのですが、武器や馬の輸出で少しずつ国力を取り戻すと聖歴290年頃に現フレイディオンにあったブリンテンハウラ連盟と同盟を結んで、フローヴィエンヌ王国への侵攻を開始します。フローヴィエンヌ王国は両国の挟撃によって滅亡しますが、この際に幾つかの候国はアルア=ルピッツ連盟に吸収されます。
聖歴323年頃になると、キルリア王国はブリンテンハウラ連盟と関係を悪くして戦争に至り、フローヴィエンヌ王国から奪った領土の半分を失うことになりました。しかし、後キルリア王国の時代になるとソファイアとともにアリアナ海の交易を支配し、かつての衰退ぶりを思わせない権勢を誇るようになります。そして、聖歴410年にはブリンテンハウラ連盟を倒して現ルクレイドの地から追いやり、失った領土の殆どを取り返します。続いて聖歴437年には、宗主権問題で揺れていたアルア=ルピッツ連盟を併合し、旧メルレイン王国時代の2/3ほどの領土を支配下に置くこととなりました。
こうして、現ルクレイド全域の殆どは後キルリア王国に支配されることになりますが、時代が進むにつれて宮廷の浪費や悪政の繰り返しで財政が破綻し、そのために重税を課して貴族や民衆の反感を買うようになります。そして聖歴460年頃に、かつてアルア=ルピッツ連盟に参加していた諸国が同盟を結んで、現スティンドミア地方で反乱を起こします。これを討伐するために前線に赴いたのが王家の末子であるルイス王子なのですが、後に彼は変異現象によって異形の怪物と化したため、王家はその事実を隠すべく彼を離宮に移して匿おうとします。しかし、狂気に至っていた王子は召使いたちを惨殺し、果てには悪魔と手を組んで王国内で暴れるようになります。事件を隠しきれなくなったキルリア王家は、2つの都市を失った後で討伐隊を差し向けて王子を倒しますが、その時には既に噂は国外にまで広まっておりました。
反乱軍は王家が神の意向に背いたためにルイスが悪魔に魅入られたのだとして、この戦いの正統性を高らかに主張します。こうして勢いを増した反乱軍は戦況を逆転し、反乱軍の盟主であったヴァンターヴィル家を王として、聖歴468年にハルモニア王国を建国して独立を果たします。
○エシディア王国の成立(聖歴468年〜622年)
ハルモニア王国はその後、約100年間この地方を統治することになります。しかし、聖歴578年になると王国内部が分裂し、前国王の甥にあたるレオリルを中心とした共和派が、半ばクーデターを起こす形で門閥貴族たちを軟禁状態に置くと、強引に議会で新憲法を通過させて新しい議会制度を確立してしまいます。旧制度に依存する特権を剥奪されそうになった貴族たちは、シューレル侯爵派を盟主として連盟を結成すると、メルリィナ王国に支援を求めてこれに対抗しようと軍備を整えます。メルリィナ王国の侵攻に耐えきれなくなったレオリル派は、レオリルが暗殺未遂にあって昏睡状態になると分裂し、一部の貴族たちは独断でフレイディオンの南部を支配していたクレンヴェルヌ王国に支援を要請します。クレンヴェルヌはこれを大義名分としてシューレル侯爵派を倒し、この間にレオリル派を倒していたメルリィナ王国と和平を結びます。
実はメルリィナ王国とクレンヴェルヌ王国の間には当初より密書が交わされており、両国の一連の動きはメルリィナ国王リナレスの計画通りに進行したのですが、その時点でこの事実を知る者はハルモニアにはおりませんでした。
こうしてハルモニアは為す術もなく領土を支配され、聖歴584年に結ばれた条約によって現ルクレイドの北西部はクレンヴェルヌ王国が奪い、それ以外の地域はメルリィナ王国に委ねられることになります。メルリィナは国王の弟エバートをこの地の王に封じ、新たにブローヌベント朝エシディア王国が起こることとなりました。
○メルリィナ継承戦争(聖歴622年〜634年)
その後、メルリィナのカトル王が子をもうけずに死んだことから、王家直系の血筋が途絶えてしまいます。そして、王家筋のヴァレンシア公爵家のルイーゼが女王として即位することになったのですが、エシディアおよびルワール大公国の王は、メルリィナ王家と姻戚関係にあることから継承権を主張して、3国間での戦乱が勃発することになります。これがメルリィナ継承戦争と呼ばれる戦いであり、3国は一進一退の攻防を繰り広げ、決着がつかないまま12年もの長きに渡って激しく争うことになりました。
しかし、国外勢力の介入を招きそうな事態に陥ると、大きな戦乱を恐れた聖母教会が仲介役となって、中立地帯のカーカバートで和平会談が行なわれることになります。そして締結された条約により、当初の予定通りにヴァレンシア公爵家のルイーゼが女王となることで、この不毛な国際紛争はようやく決着します。そして、この代償としてエシディア王国は北部の鉄山地域を得ることとなりました。
なお、この会談にはカーカバートの13人委員会の陰謀が働いていたという噂が囁かれています。調停を買って出たカーカバートは、この頃メルリィナと貿易問題で対立していた時期で、戦争自体がメルリィナを弱体化させるためだったという話もあります。国王の死亡原因は心筋梗塞ですが、これは実は暗殺によるものらしいのです。裏の世界ではカーカバートの暗殺者ギルドの存在は有名です。
○共和主義革命(聖歴634年〜現在)
継承戦争で鉄山を得て国力は増強されたものの、この地域の利権を巡って貴族たちが争い、国内は乱れることとなりました。この争いは実際の戦闘にまで至ることはありませんでしたが、これをきっかけとして国内貴族には幾つかの派閥が生まれることになります。これら門閥貴族の闘争によって以後のエシディア王国の政治は腐敗し、国民は長く辛い時代を過ごさなければなりませんでした。しかし、聖歴700年代に入ると他国の人権革命の影響を受けた思想家が活動するようになり、民衆の間にも政治参加の権利を求める声が叫ばれるようになります。
そして聖歴757年、ついに共和主義派による5月革命によって王制は打倒され、ルクレイドという新たな国家が誕生することとなりました。革命政権は共和主義でしたが、フレイディオンの急進的共和主義革命の失敗を見ていたので、性急な改革は行なわずに、徐々にその理念を浸透させてゆきました。まず彼らは封建制度の解体から始め、貴族が所有していた土地を貧農に分け与えました(農民の保守化を恐れ、最初は共同地という形で分配されました)。これにより、貧富の差はなるべく平均化される方向に進みました。
革命後期には、カーカバートの銀行に預けていた財産を頼って逃亡した貴族が多くいたのですが、革命政権はカーカバートと密約を交わして、逃亡貴族の銀行窓口を停止して財産を没収しました。急激な財産分配によるインフレーションヘの恐れから、その没収財産は国内の改革に向けられ、強力な物価統制などが行なわれました。もともと聖母教会の教えに基づく国家であったため、工業革命からは取り残されていましたが、そのことが革命後の農民階級と市民階扱の分裂を妨げ、結果的に革命を成功に結びつけることになったようです。
革命が起こって32年たった現在ですが、まだまだ国内が安定しているとはいいがたい状況です。しかし革命政権は慎重派が多く、ゆっくりと政治形態を模索しながら体制を徐々に強固にしています。こういった現政権に対して、旧王権派の残党がテロ活動を行ったり、過激な改革派が独立州を確立しようとして活動したりと、まだまだ国内には問題が山積しています。革命当時には王族および有力諸候の多くが処刑されましたが、国王の弟の孫娘にあたるアザリア=ヴァリス伯爵夫人が生き残っており、この女性を中心に旧勢力をまとめ上げようとする一派もあらわれています。
また、政府を樹立する際に活躍した学識者たちが民衆に与える影響も大きく、政府はそれらへの対応にも四苦八苦している状況です。それから、最近になってフレイディオンの軍人皇帝アルザフが台頭してきたため、徴兵制を導入することとなりました。しかし、それに対する不満の声も大きく、政権の維持には行政府も苦労しているようです。
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