略史
現在のルワール大公国の位置には、前聖歴412年に成立したイーフォン皇国が存在しておりましたが、やがて皇国内では反乱が相次ぐようになり、ついに前聖歴184年、皇国を離反したカリスト人によってメルレイン王国(現ルワール、メルリィナ、ルクレイド)が建国されます。これによって皇国の分裂は加速し、聖歴元年のイーフォン皇帝の死によって滅亡を迎えると、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入しました。
やがて聖歴31年になると、メルレイン王国では継承戦争が勃発しますが、ルワール大公派は東メルレイン連邦自治領として自治権を得て、事実上の独立を勝ち取ります。後にメルレイン王国は王朝が交代してキルリア王国へと名を変えますが、これをきっかけとして東メルレインはキルリア王の権威を無視するようになります。このため、聖歴200年頃になると双方は国境を挟んで争うのですが、東メルレイン側が勝利し、東メルレイン連邦国家として独立します。
その後、聖歴270年代にエリンプラッフ王国と結んで統一ペトラーシャ王国へと侵攻しますが、戦いに敗れて多くの死者を出しました。そして、この敗戦の責任を取って首長の交代が行われ、エルラム・ルワール両家が共同統治するエルラム=ルワール朝が誕生します。後に連邦国はラガン帝国と共にアリアナ海交易で大きな権益を得ますが、聖歴329年、ラガンがセルセティア侵攻に失敗すると、それに伴って海上での勢力を失うこととなります。しかし聖歴355年になると、連邦国はジグラットおよびギルダ首長大連と結んでイズルファート王国を倒し、現ルワール北部のシュビック地方の半分を得ます。また、聖歴400年代に入ってまもなくジグラット国内で分裂が起こると、その一派と結んでギルダ首長大連を倒し、現ルワールの中東部域を殆ど支配下に置くことになりました。
しかし聖歴433年、火山爆発によって飢饉が発生して農民反乱が相次ぐようになると、連邦国は急激に国力を落とすことになります。この時、ルワール大公はロンデニアから新型兵器を入手し、反乱鎮圧に力を貸して南部諸侯をまとめ上げます。そして10年ほどの間に国内を統一すると、力を失ったエルラム家から宗主権を取り上げて、聖歴472年にルワール朝の成立を宣言します。この時より、ルワール公が首長として治める国家は、全域をルワール大公国と呼ばれることとなったのです。
その後、大公国は聖歴523年に起こったメルリィナとの国境戦争には勝利し、現ウェストリーネ地方の鉱山と多額の賠償金を得ます。また、聖歴550年頃にはエリスファリアの貴族戦争に介入して、現ルワール北部地域を手に入れます。さらに聖歴603年、メルリィナが交易問題でセルセティアと争いますが、ルワールはメルリィナと同盟を結んでソファイア・セルセティアの連合軍を退け、アリアナ海での力を取り戻します。
それから、聖歴622年にメルリィナで王家直系の血筋が途絶えると、ルワール、ルクレイドの国主が継承権を主張し、3国によるメルリィナ継承戦争が勃発します。継承戦争は12年間続きますが、最終的には聖母教会の仲介によって和平会談が行なわれ、メルリィナ国内のヴァレンシア公爵家から王を出すことで、継承戦争はようやく終わりを迎えました。メルリィナはその代償として、ルクレイドには北部の鉄山地域を割譲することになりましたが、会談前に不利な戦況にあったルワール大公国は、継承戦争で一時的に奪われた南部のアランフェルト地方を取り戻し、代わりに占領地域と捕虜をメルリィナに返還することで合意せざるを得ませんでした。
継承戦争の間、過去に併合したギルダ首長大連の所属国が、選挙によってジグラットへの帰属を決定しています。ルワールはこの動きを阻止することが出来ず、ジグラットは2つの候国と1つの公国を無傷で手に入れることになりました。しかし、聖歴705年になるとルワールは失った領地を奪還しようとして、ジグラット領内へ侵攻を開始します。ルワールはエリスファリアと結んで南北からの挟撃を試みますが、ジグラットはラガン帝国に助力を求め、銃器とドゥーガル人傭兵を大量に導入して両国を迎え撃ちました。この戦いは4年のあいだ続きましたが、ルーワル・エリスファリアの連合軍が勝利します。この時にルワール内に取り残されたドゥーガル人は、その後長く被差別民として扱われていたのですが、聖歴784年、遂に南部を中心として独立運動を開始したのです。反乱は今でも続いておりますが、南進を企てているカイテインにとって、この状況は非常に都合のよいものとなっています。なお、カイテインの南方政策において重要な位置にあるこの国は、近年では他国からアリアナ回廊と呼ばれています。
◆ルワール年表
前聖歴 出来事 412年〜 7公国からなるイーフォン皇国が成立する。皇国はやがて隣国エクセリールと戦いを繰り広げる。 184年 カリス卜人の反乱によって、皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 31〜35年 メルレイン継承戦争が勃発。ルワール地方の諸邦国は、東メルレイン連邦自治領として自治権を得る。 219年 東メルレイン連邦自治領が本国からの独立を果たし、東メルレイン連邦国家が建国される。 270年〜 エリンプラッフ王国、テルミジア公国と結んで統一ペトラーシャ王国への侵攻を行うが敗北。これが原因で宗主が退位し、エルラム=ルワール朝が興る。 355年 ジグラット、ギルダ首長大連と結んでイズルファート王国を倒し、北部のシュビック地方の半分を得る。 408年〜 ジグラット王位を簒奪したヴェゼルディ公爵と同盟を結び、ギルダ首長大連を倒してその半数を支配下に置く 433年〜 都市国家半島で火山の爆発が起こり、数年のあいだ飢饉が続く。これによって農民反乱が相次ぎ、国家は弱体化する。 472年 ルワール大公が全域を統一し、ルワール朝の単独支配がはじまる。これより後の国家はルワール大公国と呼ばれるようになる。 603年 メルリィナ王国およびロンデニアと結んでソファイア・セルセティアの連合軍と戦い、アリアナ海の制海権を握る。 565年〜 ペトラーシャへの干渉を行うが、他国の参入により戦果を得ることなく撤退。 622年 メルリィナ、ルワール、ルクレイドの間でメルリィナ継承戦争が勃発。この間にルワールは、ギルダ首長大連だった地域をジグラットに奪われる。 634年 カーカバートの調停により、メルリィナ継承戦争終結。メルリィナではヴァレンシア王朝が誕生する。 705〜709年 メルリィナ継承戦争の際に失った領地の返還を求めて、エリスファリアと同盟を結んでジグラット領内への侵攻を開始。これに勝利し、ナディリカ侯国とマーカンティル公国の半分を得る。 724年 先の戦いで捕虜となったドゥーガル人の解放が行われる。 753年 カルネアとの戦いに敗れて、ペルソニア大陸の植民地を失う。この地に移住していたドゥーガル人の多くがルワールへ帰還する。 760年〜 ドゥーガル人に対する不平等法が成立し、公然と差別が行われるようになる。 784年 国内南部で黄人解放連盟によるドゥーガル人の独立運動が起こる。これには法教会が助力。
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詳細史
○メルレイン王国(前聖歴400年〜聖歴6年)
前聖歴400年代の初頭、大陸西部域で有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになりました。そして前聖歴460年に、ヴァリュア、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼット、エルンシュテンの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦乱が始まります。7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、前聖歴412年に残り5公国の領地を手中に収め、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国と周辺諸候国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南西部)を誕生させます。隣国エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。
こうして力をつけていったイーフォン皇国ですが、やがて政治に口を挟んでくる聖母教会を疎ましく思うようになり、前聖歴240年頃になるとその影響力を積極的に削ごうとしてゆきます。そして前聖歴198年に、当時のイーフォン皇帝は独断で法教会への改宗を果たし、これを皇国の国教として布教しようとします。法教会の教皇はイーフォンの王権を神が認めた権威であると宣言し、神の名の下に戴冠式を執り行おうとします。しかし、教会の反教皇派および諸侯の反発によって皇国内部に不協和音が生じ、戴冠式の直前に起こった一部の聖堂騎士による法教会教皇の暗殺に続いて、改革派による組織の大刷新が始まります。この改革により教皇という地位そのものが消滅し、新たに法王を教主とする組織が法教会の主体となります。
これら一連の動きに対して、聖母教会を深く信仰していた南方の民は古くから反発する姿勢を見せておりましたが、皇帝が戴冠式を強硬しようとしたことで怒りは頂点に達します。そして法教会内で争いが起こると、カリスト人を中心とした諸公国はすぐに自公国の国教を聖母教会と定め、帝国から離反することを宣言します。
国内の混乱を収めることを第一とした皇国は、これら南方諸侯の反発を押さえるために、なし崩し的に彼らの自治を認めることとなりました。しかし、それでも彼らの不満は払拭されず、ついに前聖歴184年、聖母教会の守護を名目としたメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が誕生することとなります。こうしてエルモア中央部の勢力は、大きくイーフォン、メルレイン、エクセリールの3つに分かれることとなったのです。
その後、この3勢力は領土を巡る争いを繰り返すことになりますが、聖歴元年に1つの大きな事件が起こります。それがユナスの降臨として知られる奇跡で、彼女はイーフォン皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、長き戦乱時代が訪れることを人々に伝えました。直後、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、その後の皇国は内乱によってわずか6年で滅亡することとなったのです。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代は崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。なお、イーフォン皇帝の死は神による天罰と人々は信じ込み、力を失いかけていた聖母教会は多くの信者を取り戻すこととなりました。
○メルレイン継承戦争(聖歴6年〜35年)
イーフォンという最大の脅威を失ったエルモア地方では、メルレインは大陸南部を支配する大国として君臨するはずでした。しかし、当面の外敵を失った彼らは、聖歴31年に王を失ったことをきっかけとして、内部での争いに力を注ぐこととなります。
メルレイン王国は、現メルリィナの都市カトラシア周辺を治めていたメルンヴェルヌ大公国を首長とする国家で、メルンヴェルヌ大公が代々王位に就いておりました。しかし、時のメルンヴェルヌ大公ウィシャスには跡継ぎがなく、亡き兄の娘にあたるフェゼリア公デュティーネを後継者に指名して亡くなりました。しかし、前王の弟であったルワール大公ブランソンはこれを不服とし、東部諸侯を味方に付けて自らの継承権を主張します。これに対して、デュティーネを正統後継者とする諸侯はフェゼリア連盟を結成し、大公派を逆臣として激しく非難しました。そして、両者の反目は王国を大きく2つに分かつことになり、メルレイン継承戦争と呼ばれる戦いへと発展してゆきます。
ルワール大公はジグラットに協力を仰いで、やや不利な情勢を一気に逆転しようと試みました。これに対して、フェゼリア連盟は現ルクレイド南部の諸侯を味方に引き入れようとしますが、彼らは情勢をひとまず静観しようと考え、中立の立場を装って動こうとはしませんでした。これらの動きを見て野望を抱いたのが、最初は中立派に属していたステッドバイン侯国のルージュモン侯爵です。彼は自身がイーフォン皇家の血筋であることから、ルクレイド北西部やフレイディオン南部を中心とした旧イーフォンの所属国を味方につけると、フェゼリア連盟に対する進攻を開始しました。
ルージュモン侯爵は、当初は大公派と結んでフェゼリア連盟を挟撃する心づもりでした。そして、ルワール大公を王位につける代わりに、自派諸侯による同盟の自治を認めるよう書状を送ります。しかし、ルワール大公はイーフォンの血脈が力を得ることを警戒し、一時フェゼリア連盟と手を結んでこの撃退を図ります。そして最終的には、両派が協力してルージュモン侯爵の軍勢を退け、継承戦争は4年で終結を迎えることとなります。
結局、フェゼリア公デュティーネはメルレイン王国の正統後継者として王位に就くことになりますが、その代償としてルワール大公派の諸邦に、東メルレイン連邦自治領として自治権を与えることになります。連邦は名目上はメルレイン王国に従属する立場でしたが、司法権限と徴税権などを託されたルワール大公国は、事実上の王として君臨することになりました。そして、彼ら自身は東メルレイン連邦自治領とは呼ばず、東メルレイン連邦国家と称するようになるのです。
兵を引いたルージュモン侯爵は周辺4公国を味方につけて、現ルクレイドとフレイディオンの国境付近に、独自にパディストリア五王国を建設します。しかし、残りのルージュモン派の貴族はこれに付かず、フレイディオンにあったブリンテンハウラ連盟に加盟し、ました。また、ルクレイド南部を治めていた中立派は、再びメルレイン王国に従属する立場となりましたが、当然のごとく王室の信用を失っており、彼らは後にパディストリア五王国との二重封領として振る舞うようになります。
○東メルレイン連邦国家(聖歴35年〜聖歴220年)
東メルレイン連邦自治領は、150年ほどの時間をかけて独自の政治制度を徐々に整えてゆきます。この間、代々のルワール大公は諸邦国に対して誠実な政治を心がけたため、首長の座を追われることなく、比較的安定した治世を過ごすことになりました。
この当時の連邦自治領は戦いをあまり経験せず、周辺諸国の幾つかを併合した程度にとどまりますが、陸上交易を中心として繁栄しておりました。貿易中継港としての主役はカーカバートでしたが、当時からこの地域の硝子工芸品は各国の貴族たちの人気が高く、この輸出によって連邦の主要都市の諸侯たちは財産を築き上げることになります。
この間に、メルレイン王国は王朝が交代してキルリア王国へと名を変えております。しかし、その時の東メルレイン連邦はちょうど、現ジグラットとの国境付近に存在していたカリスト人部族のギルダ首長大連と戦っていた時期であり、それに直接干渉することはしませんでした。しかし力をつけた連邦は、王朝が交代したことをきっかけとして税を滞納しはじめ、王国からの数々の勧告をも無視し続けます。この動きに対して、一時的に国内が割れて諸侯をまとめることが出来なかったキルリア王国は、強い動きに出ることは出来ませんでした。
聖歴200年頃になると王国内もまとまり、キルリア王国は連邦を牽制する目的で、国境付近に砦を建設して兵を配備します。これに対して連邦も兵を揃えて前線へと配備して、一歩も引かない姿勢を王国に対して示します。ほどなく両者は一度の会戦を行いますが、これは痛み分けという結果に終わっています。この時、裏舞台では既に情勢が大きく動いており、カーカバートは取り立てて産業も北への陸上ルートも持たないキルリア王国を切り捨て、東メルレイン連邦と手を結ぶことを密かに約束しておりました。そして、現ルクレイドの地にあったフローヴィエンヌ王国との間を取り持ち、両者に同盟を結ばせてキルリアの挟撃を行わせます。
キルリア王国はすぐに情勢の不利を悟ってソファイアへ援軍を要請し、その到着を待って自ら動くことを選択しませんでした。こうして、キルリア側が砦を強化して防備に専念したため、しばらく両国境の戦況は膠着した状態が続きます。この間に、ロンデニアがソファイアへの敵対心と内陸交易への参入を目論んだことから、カーカバートを通じてこの争いに介入しようとしますが、交渉に手間取っている間に状況は一変してしまいます。キルリア側の前線の砦を中心として伝染病が蔓延し、3人の有能な将軍を立て続けに失ったことで、王国には前線守備の任を引き受けようとする指揮官がいなくなってしまったのです。このことで自然崩壊に近い形でキルリアは撤退を開始し、それ以上剣を交えることなく戦は終結します。
こうして東メルレイン連邦自治領は、殆ど戦うことなく完全なる自治を獲得して、聖歴219年、ルワール大公を宗主とする東メルレイン連邦国家として正式に成立することになります。宗主は連邦首長という地位に置かれることになりましたが、これは他国の王と何ら変わるものではありませんでした。なお、現ルクレイド側にあった2つの領邦国家もまたキルリア王国から独立を果たし、両家を首長とするアルア=ルピッツ連盟を成立させて、幾つかの周辺候国とともに王国から独立を果たしています。
○エルラム=ルワール朝の創始(聖歴220年〜聖歴277年)
このようにして完全な自治権を獲得した東メルレイン連邦国家は、その後も貿易を中心として国力を高めて行きました。連邦国はカーカバートのみならず、アルア=ルピッツ連盟およびロンデニアとも手を結んで貿易体制を整え、当時の海上貿易で強い力を誇っていたラガン帝国やソファイア王国に対する防衛線を作り上げます。また、農家は生活のために子供を傭兵としてジグラットなどの周辺諸国へ送り出したのですが、彼らは傭兵としての契約を終えた後は国外との人脈を活かして、様々な産業に必要な原材料の輸入を行いました。そして、農閑期の労働力を産業の発展に費やしたことで、連邦国の中北部地域に幾つかの産業都市が生まれることになります。
この間に、エリスファリアの建国やラガン帝国によるヴァンヤン島侵攻など、国外では幾つかの大きな動きがありましたが、連邦国はこれら諸国家との直接的な戦いを経験することはありませんでした。しかし聖歴270年代に、現ペトラーシャの東南部地域を治めていたエリンプラッフ王国が、北のテルミジア公国と結んで統一ペトラーシャ王国領土へと侵攻を開始すると、連邦国もこれに介入することになります。この時、連邦国は宗教的問題からエリンプラッフ王国に支援を行いますが、戦いに敗れて多数の死者を出すことになりました。当時の宗主エミールは諸侯の反対を押し切って強引に出征を決めたことから、敗戦の責任を取るという名目でその地位を退くことになります。しかし、これは諸侯が寵姫一族の影響力を削ぐために行った措置であり、実質的には革命に近い形で政権の交代が行われています。この時期の連邦国では首長エミールが寵姫シャレスタの一族を過剰に優遇して、国家の重要な役職を幾つも兼任するような状況になっており、出征そのものもシャレスタの従兄弟である将軍によって企画されたものだったのです。
改革を主導した諸侯たちは寵姫一族を連邦国の役職からことごとく排斥し、エルラム家のゼミューを新たな首長として国家制度の再建を行いました。この時ゼミューは、シャレスタと対立して軟禁状態に置かれていた大公家の第一王女ロゼット(亡き正妃の子)と婚姻を結んでおります。これは彼女が国民から慕われており、また、敵対派の諸侯が彼女を首長に推して国内が割れることを恐れたためです。改革派諸侯たちは2人の結婚を認めることで諸侯の譲歩を引き出そうとしましたが、彼らの改革案は思ったほど国民や貴族たちの支持を得られなかったため、最終的にはゼミューとロゼットの両者を首長とした、エルラム=ルワール朝が始まることになります。なお、賢明なロゼットは自身の権利を過剰に振りかざすことをしなかったため、この国家は比較的穏やかに出発を迎えることとなりました。
○エルラム=ルワール朝の治世(聖歴277年〜420年)
後にゼミューは、カーカバートやロンデニアとの交易問題から、ラガン帝国から第二妃を迎えます。こうしてエルラム=ルワール朝は、ラガン帝国の軍事力を背景にアリアナ海の海上交易で大きな権益を得て、約半世紀のあいだ繁栄を謳歌することになるのです。
しかし聖歴329年、ラガン帝国がセルセティアへの侵攻を失敗すると、それに伴ってアリアナ海での勢力をも失うこととなります。こうして大きな後ろ盾を失った連邦国は、現ルワール北部地方を得て陸上交易に進出しようとしたエリスファリアの台頭を抑える目的もあって、反ラガンの立場をとり続けたジグラットへルワール家の娘を嫁がせ、親ジグラットへと方向転換を行うことになります。また、当時のジグラットは親ギルダ首長大連の立場を取っていたことから、この婚姻によってギルダ首長大連との仲も回復し、東部地域は自ずと平穏が保たれることとなりました。
その後、聖歴355年になると、ジグラットはギルダ首長大連と手を結んで北方への侵攻を開始し、現ジグラット北部にあったイズルファート王国を併合します。連邦国はこれにも手を貸し、現シュビック地方の半分を得ることとなります。
しかし聖歴400年代に入ってまもなく、ジグラットでヴェゼルディ公爵による王位の簒奪が行われると、ジグラット貴族たちはこれを僭称王家と呼んで王国からの離反を試みます。そして、ギルダ首長大連もこれに介入したため、ジグラット内は戦国の世へと突入することになりました。これを機と見た東メルレイン連邦国はヴェゼルディ公爵と同盟を結んでギルダ首長大連を倒し、その半数を支配下に置くことに成功します。その後、ヴェゼルディ公爵は国内諸侯に倒されることになりますが、連邦国はこの戦いの間に得た領地はそのまま自国領土とし、現ルワールの中東部域を殆ど支配下に置くことになりました。
なお、連邦国がヴェゼルディ公爵に協力したことが原因で、その後のジグラットは親エリスファリアに傾き、陸上交易での力を削がれることとなりました。こうして再び海上へ目を向ける必要が生じ、新たなる発展への道を模索することになります。
○ルワール大公国の成立と繁栄(聖歴420年〜621年)
その後、聖歴433年に都市国家半島で起こった火山の爆発によって、王国内でもしばらくは冷害が続いて餓死者を多数出すことになります。そして、農民によるいくつもの反乱が相次ぎ、諸侯はその鎮圧に力を注がなければなりませんでした。また、過去にラガン帝国から国内へ移住したドゥーガル人は、帝国との同盟関係が失われてからは長く差別されていたことから、これを機会に反乱を起こして農民たちと共に独立を図ろうとしました。これが原因で国内は30年ほどの間にバラバラとなり、農村を中心としてはじまった手工業の技術者たちも国外へと逃亡しはじめます。彼らはその技術ゆえに移住先で優遇されたため、暴動鎮圧後も国内に戻る者は少なかったようです。こうして生産力や技術を失った連邦国は、この時期を境に急激に国力を落とすことになります。
この時、硝石の産出地(ウェストリーネ地方)を握っていたルワール大公は、火薬の原料としての硝石を欲するロンデニアと手を結んで新型の武器を手に入れると、南部で起こっていた反乱の鎮圧に力を貸して南部諸侯をまとめ上げます。そして、10年ほどの間に国内を統一すると、力を失ったエルラム家から宗主権を取り上げて、聖歴472年にルワール朝の成立を宣言します。この時より、ルワール公が宗主として治める国家は、慣習的に全域をルワール大公国と呼ばれることとなったのです。
なお、反乱を起こした黄人はカーカバートやメルリィナ南部域へと逃亡し、その庇護を受けることになりました。しかし、捕らえられた黄人も多くおり、聖歴500年代に入るとその処遇についてカーカバートとの間に軋轢が生まれるようになります。これによってルワールは、ペルソニア交易について独自のルートを開拓する必要が生じ、海上交易についてもロンデニアと手を結ぶことを選択します。この時、カーカバートはルワール側に味方したロンデニアとも手を切って、ラガン帝国と結んで海上交易を行うことを決めたため、ロンデニア側としてもアリアナ海交易の拠点を探していた時期であり、両者の思惑は見事に一致していたのです。こうして、ルワール南部の都市は貿易港として再び栄えることとなります。
その後、ロンデニアとの協力体制を整えて、再び貿易を通じて力をつけたルワール大公国ですが、中央集権体制を守るために新たなる領土を必要とし、再び国外へと目を向けることになります。そしてこの当時、後継者問題で国内が大きく割れていたジグラットへ干渉しようとしますが、ジグラット西部諸侯をまとめていたロカリーニ伯爵は竜の一族を利用してルワールを退け、国内を統一して王位に就くことになります。これによってルワールの軍事力は一時的に低下しますが、聖歴523年に起こったメルリィナとの国境戦争には勝利し、現ウェストリーネ地方の鉱山と多額の賠償金を得ることに成功します。さらに、聖歴550年頃にはエリスファリアの貴族戦争に介入して、現ルワール北部地域を手に入れることになります。
また、聖歴603年になると、メルリィナ王国がアリアナ海の交易問題でセルセティアと争いますが、ソファイアがセルセティア側に就いたことで一時形勢が不利になります。この時、メルリィナは長年の敵対関係を払拭する目的も含めてルワール大公国と同盟を結ぶことを決め、メルリィナ国王には大公家の次女マドリーヌが嫁ぎ、逆に大公家はメルリィナの先王の孫にあたるテレージア公女を嫁としてもらい受けることになりました。こうして血縁によって結束した両国は、ソファイア・セルセティアの連合軍と互角の戦いを繰り広げるようになり、最終的にロンデニアが味方についたことで戦局は逆転し、3国はアリアナ海の制海権を握ることになりました。セルセティアはこの敗戦によって力を失い、海上の要衝に位置しながら衰退の道を辿ることになります。
○メルリィナ継承戦争(聖歴621年〜634年)
その後、メルリィナのカトル王が子をもうけずに死んだことから、王家直系の血筋が途絶えることになりました。そして、王家筋のヴァレンシア公爵家のルイーゼが女王として即位することになったのですが、ルワール大公国および現ルクレイドにあったエシディア王国の王は、メルリィナ王家と血縁関係にあることから継承権を主張して、3国間での戦乱が勃発することになります。これがメルリィナ継承戦争と呼ばれる戦いであり、3国は一進一退の攻防を繰り広げ、決着がつかないまま12年もの長きに渡って激しく争いました。
しかし、国外勢力の介入を招きそうな事態に陥ると、大きな戦乱を恐れた聖母教会が仲介役となり、中立地帯のカーカバートで和平会談が行なわれることになります。そして締結された条約によって、当初の予定通りにヴァレンシア公爵家が王位を継ぐことで、この不毛な国際紛争はようやく決着することとなります。この代償として、メルリィナはエシディア王国に北部の鉄山地域を割譲することになりました。しかし、和平会談前には不利な戦況にあったルワール大公国は、継承戦争で一時的に奪われた南部のアランフェルト地方を取り戻し、代わりに占領地域と捕虜をメルリィナに返還することで合意せざるを得ませんでした。
なお、過去に併合したギルダ首長大連の所属国が、継承戦争の間に選挙によってジグラットへの帰属を決定しています。しかし、戦いに勢力を傾けていたルワールはこの動きを阻止することが出来ず、ジグラットは2つの候国と1つの公国を無傷で手に入れることになりました。この事件によってルワールとジグラットの関係は決定的に悪化し、以後しばらくは大きな戦乱に至ることはなかったものの、交易や国境問題において様々な対立を繰り返すことになるのです。
○ロブランの悲劇(聖歴634年〜709年)
継承戦争後のルワール大公国は大きな戦乱を経験せず、約80年ほどは比較的平穏な治世を過ごすことになります。しかし聖歴705年になると、メルリィナ継承戦争の最中に失った3つの領地を奪還しようとして、遂にジグラット領内への侵攻を開始するのです。
ルワールはエリスファリアと同盟を結ぶと、南北からの挟撃を試みます。これに対してジグラットは、エリスファリアとの関係が悪化していたラガン帝国に助力を求め、銃器とドゥーガル人傭兵を大量に導入して両国を迎え撃ちました。この戦いは4年のあいだ続きましたが、途中で国王が逝去したことでジグラット軍の統制が乱れ、ルワール側が勝利することとなりました。これによってジグラットはナディリカ侯国とマーカンティル公国の半分を失うのですが、この際にロブランという街が中央から分断されたため、2つの国にまたがる悲劇の街と呼ばれるようになりました。ルワールに助勢したエリスファリアは、その代償として北東部にあったルクイエス候国を得ておりますが、これはもともとエリスファリア領であった場所で、ルワール側としては何かと大公家に反発していた候国を切り離した形となります。
なお、この戦いで起こった悲劇は、ロブラン分割だけにとどまりませんでした。戦いの際にジグラットの軍勢が分断されて、ルワール側に一部の兵士が取り残されたのですが、新たなジグラット王アズルはもともと反ラガンの立場にあり、自国の捕虜に対する身代金しか支払いませんでした。そのためドゥーガル人傭兵の多くが、ルーワルの捕虜として収容所に入れられてしまったのです。この時期、ラガン帝国がペルソニア大陸で植民地を失ったり、都市国家半島で起こった反乱の鎮圧に手を焼いていることを見越しての行動でしたが、両国の関係がこれで途切れたことは言うまでもありません。なお、捕囚されたドゥーガル人兵士の一部は後に脱走し、南部の山中などに身を隠して生活するようになりましたが、この末裔は現在ルワール大公国で反乱を起こしている黄人勢力の一部となっています。
○ドゥーガル人の反乱(聖歴709年〜現在)
聖歴709年にペルソニアの植民地駐留軍が壊滅状態に陥ったことで、ラガン帝国政府はその処理に謀殺され、捕虜となったドゥーガル人兵士の返還要請をねばり強く行うことはありませんでした。また、ドゥーガル人はもともと帝国の主要な構成民族でもなく、かつて幾度かの反乱に加担したことも彼らを切り捨てる理由となったのでしょう。ともあれ、こうして兵士たちは母国へ帰る道を断たれ、鉱山や農地開拓のための労働力として、奴隷同様の待遇で強制労働させられました。このうちの一部は後に脱走し、南部の山中などに身を隠して生活するようになりましたが、多くはそのまま不幸な境遇に置かれたままとなったのです。
しかし、ペルソニア大陸への参入を考え始めた当時の大公は、聖歴720年代に入るとすぐにドゥーガル人に対する方針を転換せざるを得なくなります。ルワールは海洋では無敵の存在として君臨していたロンデニアと手を結んでいたのですが、この時期ペルソニアでの権益を得るためには、ラガン帝国を通じて交易ルートを支配していたカーカバートを無視することは出来なかったためです。カーカバートはルワール・ロンデニアと手を組む代償として、ルワール南部に抑留されたままのドゥーガル人の解放を求めました。この要求は聖歴724年に承諾されましたが、多くのドゥーガル人は自分たちを切り捨てた帝国への復帰を望まず、幾つかの集団に分かれて新たな道を歩むことになります。強制労働から解放された後、多くの者は開墾した土地の一部を得て農夫となったり、下層の労働者や兵士としてルワール国内で暮らすことを選びました。また、カーカバートに移って船乗りや貿易商人として身を立てた者や、後にルワールが得たペルソニア植民地や都市国家半島で暮らすことを選択した一団もいます。
その後、ルワール国民と移住者たちの間には様々な習慣の違いから軋轢が生じ、徐々にドゥーガル人差別が行われるようになります。この頃になると、ロンデニアは独自の交易ルートを確保しており、カーカバートとは商業上の競争相手という関係に変わっておりました。そのため、753年の植民地での敗戦後に新たにロンデニアとの同盟を結んだルワールは、カーカバートに対して配慮する必要もなくなっておりました。こうして、聖歴760年代になると黄人の権限を縮小する法律が議会を通過し、移動の制限を受けたり公職の人数規定を設けられるなど、様々な不公平政策が実施されるようになります。また、法律とは無関係に民間でも公然と差別が行われるようになり、安い賃金で働かされたり賃貸物件への居住を断られるなど、非常に辛い目に遭い続けました。
こうして不満を蓄積させてきたドゥーガル人は、影で密かに黄人解放連盟を結成して、少しずつ反乱の準備を整えてゆきます。そして遂に聖歴784年、南部を中心として大公国からの独立運動を開始しました。この反乱は今でも続いていますが、比較的少数であるドゥーガル人がなぜこれほど勢力を維持していられるかといえば、裏で法教会の援助があるからです。法教会の公平を旨とする教えは民族の目的と合致し、今では反乱軍の大半は法教会の信者となっています。また、この運動にはかつてジグラットから奪い取った、マーカンティル公国の民衆も密かに協力しています。というのは、ここにはジグラット系のカイン人も居住しており、彼らも長く不遇な立場に耐え続けてきた身であるからです。
しかし、この内乱は南方政策をもくろむカイテインにとっては好都合ともいえる状況です。こういった法教会およびカイテインの計画は他国にとっては具合が悪く、他の聖母教会を信奉する国々の干渉を招く結果となっています。なお、カイテインの南方政策において重要な位置にあるこの国は、近年では他国からアリアナ回廊と呼ばれています。
現状に対して不安をつのらせているのは民衆も貴族もかわりなく、貴族会でも対外強硬派と平和外交派の2つに分かれて論議を戦わせています。中でも、平和派の有力貴族カーン家は国外に対しても何らかの根回し工作を行っているようであり、国際的に今後の動向が注目されています。
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