フレイディオン共和国/歴史

略史詳細史


 

略史


 現在のフレイディオン北部にはヴァンテンデル公国が、南西部にはレヴォンシャ公国が存在しておりました。やがてこの2国が同盟を結んで周辺5公国を支配すると、前聖歴412年にイーフォン皇国を建国します。しかし、聖歴元年の皇帝の死によって皇国は滅亡を迎え、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。しかし、皇国の崩壊から30年ほどでフレイディオン地方の争いは沈静化し、北部から現ライヒスデール南部にかけての地域にはジュレーヌ王国が、南部には没落貴族たちによるブリンテンハウラ連盟が誕生します。
 このうちジュレーヌ王国は、西方にあったネリル連盟(自治都市の集合体)と結んで、聖歴305年にジュレーヌ=ネリル連合王国を建国します。そして、聖歴380年頃からブリンテンハウラ連盟と戦いを始め、聖歴482年の侵攻でブリンテンハウラ連盟領の1/3を奪います。しかし、やがて北方のデール王国(現ライヒスデール)が侵攻を開始すると、連合王国は連盟への侵攻を停止し、北への防御を固めざるを得なくなります。これによって連盟との間に和平条約が結ばれますが、これは連盟に非常に不利な内容のもので、幾つかの貿易都市が奪われることになりました。
 その後、連盟加盟国の幾つかが集まり、聖歴528年にクレンヴェルヌ王国が建国されます。そして、ジュレーヌ=ネリル連合王国が聖ユノス王国と同盟を結んで、ロンデニアとの戦いに力を入れている間に、メルリィナ王国と結んでハルモニア王国(現ルクレイド)への侵略を行います。クレンヴェルヌはこれに勝利して、現ルクレイド北西部を手に入れることになりますが、先に結んだ不平等条約により連合王国に領土の分割を迫られることになります。クレンヴェルヌはこれに反発して戦うのですが、やがて聖歴598年には連合王国の支配下に置かれることになります。
 しかし、連合王国で王による恐怖政治が行われるようになると、これに反発した諸侯たちによって王の暗殺が行われ、聖歴602年、貴族共和制によるファウラ連邦共和国が誕生します。その後、連邦共和国は平和な治世を過ごしますが、やがて領主同士の足並みが揃わなくなり、幾つかの派閥に分裂して戦います。そして最終的にファンク家がこの地を平定し、聖歴662年にフレイディオン王国が建国されました。ファンク朝フレイディオン王国はその後50年ほど続きますが、内乱後の国内をまとめることが出来ず、聖歴719年、緑葉革命と呼ばれる市民革命が起こることとなります。ペトラーシャの支援もあって革命軍は勝利を収めますが、後に階級間の争いで国内は乱れ、他国の干渉や反革命勢力の反乱などが相次いで起こりました。
 その後、反乱鎮圧などで活躍したカヴァリア将軍が、半ばクーデターに近い形で政権を得ます。そして、聖歴743年に自らフレイディオン皇帝を名乗り、独裁政治を行うようになりました。それからしばらくはカヴァリアの治世が続いていたのですが、ここでフレイディオン最大の醜聞と呼ばれる事件が起こります。聖歴761年にカヴァリアは何者かに暗殺されてしまうのですが、その息子カヴァリア2世は国内の混乱をさけるために、影で仕えていた黄金十字秘協会という錬金術集団にカヴァリアの複製体(レプリカント)をつくらせ、その死を隠蔽しようと工作したのです。これを告発したのが、カヴァリアの右腕とも呼ばれていた現皇帝アルザフです。この事件はレプリカント・スキャンダルと呼ばれ、国内外で大問題となりました。結局、カヴァリア2世は失脚に追い込まれ、アルザフが次の軍人皇帝の地位につくことになりました。そして、アルザフはその月のうちに総統政府を樹立し、自ら総統に就任して独裁権を握ります。
 フレイディオンの軍事化は今も引き続き行われており、現在はライヒスデールと軍事同盟を組み、ユークレイとの交戦を支援しています。この軍事同盟は各国の反感を買い、近いうちにこれに対する大同盟が結成される動きもあります。それに対抗するかのように、アルザフはカイテインとの同盟を結ばうとしており、三国軍事同盟による新大陸進出をもくろんでいます。


◆フレイディオン年表

前聖歴 出来事

412年〜
 北部のヴァンテンデル公国と南西部のレヴォンシャ公国が同盟を結んで、周辺5公国を併合する。これによって7公国からなるイーフォン皇国が成立する。
184年  カリス卜人の反乱によって、皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。
155年〜  ヴァリュア公国領の住民が皇国から離れ、北方に移動してカルネアを建国。空白となったヴァリュア領では、皇国を離反した自治都市を中心としたフルド連盟が結成される。
聖歴 出来事
6年  イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。

17年
 北部にゲオラント朝ジュレーヌ王国が建国される。

35年
 南部諸侯によってブリンテンハウラ連盟が結成される。

42年
 ジュレーヌ王国が現フレイディオン北部からライヒスデール南部にかけての地域を平定する。

290年〜
 ブリンテンハウラ連盟とキルリア王国(現メルリィナ)が同盟を結んで、フローヴィエンヌ王国(現ルクレイド)を支配下に置く。

305年
 ジュレーヌ王国と西部のネリル連合が合併し、ジュレーヌ=ネリル連合王国を建国する。

323年
 ブリンテンハウラ連盟がシェルバ騎士団領(現エストルーク)に侵入し、支配下に置く。

380年〜
 ジュレーヌ=ネリル連合王国とブリンテンハウラ連盟が戦うようになる。

410年〜
 ブリンテンハウラ連盟が後キルリア王国が争う。連盟はこの戦いに敗北し、かつて得たルクレイド領を失う。

482年〜
 ジュレーヌ=ネリル連合王国がブリンテンハウラ連盟へ一大侵攻を開始し、3年ほどの間に連盟の1/3ほどの領土を併合する。

498年〜
 デール王国(現ライヒスデール)がジュレーヌ=ネリル連合王国へ侵攻を開始する。これにより、連合王国はブリンテンハウラ連盟への侵攻を停止する。

528年
 ブリンテンハウラ連盟に加盟していた幾つかの国家が連合し、クレンヴェルヌ王国を建国する。

584年
 クレンヴェルヌ王国とメルリィナ王国が結んで、ハルモニア王国(現ルクレイド)を支配下に置く。

595〜598年
 ジュレーヌ=ネリル連合王国がクレンヴェルヌ王国を支配下に置く。

602年
 ジュレーヌ=ネリル連合王国で国王の暗殺が起こり、貴族共和制によるファウラ連邦共和国が誕生する。

662年
 ファウラ連邦共和国で内乱が起こるが、連邦最大の領地を支配していたファンク家がこの地を平定し、フレイディオン王国が誕生する。

719年
 緑葉革命と呼ばれる市民革命が起こり、王制が廃止される。

736年〜
 ライヒスデールやユノスによる侵攻を受けるが、カヴァリア将軍の活躍によりこれを破る。

743年
 カヴァリアが皇帝の地位に就いて、独裁政治を開始する。

761年
 皇帝カヴァリアが死亡し、レプリカント・スキャンダルと呼ばれる事件が起こる。これによってカヴァリア2世は失脚し、アルザフが総統となり独裁権を握る。
767年  ライヒスデールと軍事同盟を結んでユークレイへの侵攻を開始する。


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詳細史


○イーフォン皇国(〜聖歴6年)

 前聖歴500年代の初頭、大陸西部域で有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになりました。そして前聖歴460年に、ヴァリュア、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼット、エルンシュテンの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦乱が始まります。7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、前聖歴412年に残り5公国の領地を手中に収め、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
 両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国と周辺諸候国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南西部)を誕生させます。隣国エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。
 こうして力をつけていったイーフォン皇国ですが、やがて政治に口を挟んでくる聖母教会を疎ましく思うようになり、前聖歴240年頃になるとその影響力を積極的に削ごうとしてゆきます。そして前聖歴198年に、当時のイーフォン皇帝は独断で法教会への改宗を果たし、これを皇国の国教として布教しようとします。法教会の教皇はイーフォンの王権を神が認めた権威であると宣言し、神の名の下に戴冠式を執り行おうとします。しかし、教会の反教皇派および諸侯の反発によって皇国内部に不協和音が生じ、戴冠式の直前に起こった一部の聖堂騎士による法教会教皇の暗殺に続いて、改革派による組織の大刷新が始まります。この改革により教皇という地位そのものが消滅し、新たに法王を教主とする組織が法教会の主体となります。
 これら一連の動きに対して、聖母教会を深く信仰していた南方の民は古くから反発する姿勢を見せておりましたが、皇帝が戴冠式を強硬しようとしたことで怒りは頂点に達します。そして法教会内で争いが起こると、カリスト人を中心とした諸国はすぐに自国の国教を聖母教会と定め、帝国から離反することを宣言します。
 国内の混乱を収めることを第一とした皇国は、これら南方諸侯の反発を押さえるために、なし崩し的に彼らの自治を認めることとなりました。しかし、それでも彼らの不満は払拭されず、ついに前聖歴184年、聖母教会の守護を名目としたメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が誕生することとなります。こうしてエルモア中央部の勢力は、大きくイーフォン、メルレイン、エクセリールの3つの分かれることとなったのです。
 その後、この3勢力は領土を巡る争いを繰り返すことになりますが、聖歴元年に1つの大きな事件が起こります。それがユナスの降臨として知られる奇跡で、彼女はイーフォン皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、長き戦乱時代が訪れることを人々に伝えました。直後、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、その後の皇国は内乱によってわずか6年で滅亡することとなったのです。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代は崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。なお、イーフォン皇帝の死は神による天罰と人々は信じ込み、力を失いかけていた聖母教会は多くの信者を取り戻すこととなりました。


○分裂期(聖歴6年〜482年)

 イーフォン皇国の崩壊後、現フレイディオンの地は諸侯による戦国時代へと突入することになります。しかし、30年ほどの間に争いは沈静化し、北部から現ライヒスデール南部にかけての地域はイーフォン皇家の血を引くジュレーヌ王国が、南部一帯は没落貴族たちによるブリンテンハウラ連盟という連邦制国家が支配します。また、この他にも西部に幾つかの連盟や都市同盟が乱立することになります。


▼北東部の歴史
 イーフォン皇帝の外戚であるゲオラント家のヴィヨルグ侯爵は、軍事同盟の締結に伴い皇帝の孫にあたる幼い王女アキュリアを伴侶とすることで、イーフォン皇家の正統後継者を名乗りました。そして、これに追随した周辺国家とともに、聖歴17年、ゲオラント朝ジュレーヌ王国の建国を宣言します。しかし、これは数あるイーフォン皇家の後継者を名乗る国家の1つに過ぎず、北部諸侯はもう1人の有力後継者であるリュヴィッツ公の元へと集います。リュヴィッツ公率いるアートレヒ同盟の攻勢によって、ジュレーヌ王国は一時滅亡の危機にまで陥ることになりますが、次の代のリヒターが当主となると数々の奇策で敵対国家を下してゆき、聖歴42年には現フレイディオン北部からライヒスデール南部にかけての地域を平定します。
 しかし、リヒターの才能は軍事的方面に偏っており、また、他人を信用しないことから諸侯に疎まれるようになって、早々に退位して娘ミュゼットに王位を譲り渡してしまいます。諸侯はこれに乗じて自らの地位を向上させようと数々の策を練りますが、ミュゼットは外交や統治といった方面に思わぬ才を発揮し、その知謀をもって諸侯同士を対立させて彼らの思惑を封じ込めてしまいます。そして、生涯をかけて王国の基礎をつくり上げ、その子ヒースクリフが王位を継ぐ時には、既に強固な地盤が形成されておりました。こうして、ミュゼット亡き後も安定した農業生産力に支えられた王国は発展を続け、ヒースクリフの子ファヴオーリの治世になると北への進軍を開始します。そして、聖歴116年には現ライヒスデールにあったヴィンストン公国およびその同盟国と戦い、幾つかの領地を奪っています。
 こうして順調に発展していった王国ですが、聖歴263年に王位についたルウィード王が生涯を通じて独身を貫き通したことで、王朝断絶の危機に見舞われます。しかしルウィードは死の直前に、若い頃に留学先で出会った娘と身分を隠したまま恋に落ち、彼女との間に一子をもうけたということを告白します。当時の宰相ラネッド侯爵が半信半疑のまま調べてみると、その娘は未婚のまま子を産んだということで家から追い出され、後に聖母教会に入って生涯を神に捧げる誓いをたてたものの、巡礼途中で病にかかって若くして亡くなったという記録に行き当たりました。ラネッドはさらに調査を続けて生まれた男児の行方を追うと、母の死後しばらくは孤児院に預けられていたのですが、後にネリル連合に属していたロセッティ家に養子に貰われていたということがわかります。ネリル連合は現在のセジュール地方からレドール地方にかけて存在していた自治都市および候国の連合体であり、海洋貿易を基盤として発展を遂げていた新興勢力です。
 もしその子が発見されないままだった場合、順当にゆけば国内でも有力なグランシャノス家が王位を継ぐのは確実でした。そして、これまでグランシャノス一派の動きを抑えていたラネッド家が排斥されることも、誰にでも容易に想像できることです。そのため、強力な切り札を手に入れた宰相は、ロセッティ家に全てを明かして説得にかかったのですが、王の息子アーベントは後に生まれたロセッティ家の娘ルクレーラを愛しており、両親もまた2人の子供を結婚させて家督を継がせる心づもりでした。宰相はネリル連合が現ロンデニアにあったミュンフ王朝との争いに発展しそうな状況にあることを利用し、彼らと手を組むことで王朝が軍事的な支援を行うことを約束し、アーベントを王位につけるよう口説きます。自治都市が多く加盟していたネリル連合は、王国が自治体に対して干渉することを嫌って申し出を拒否しようとしますが、宰相は自身の判断で自治を認める公文書まで発行してしまいます。
 こうして、ラネッド侯爵は死の床にあった王に息子を引き合わせると、すぐさま王位継承の手続きを済ませてしまいます。そして、きわめて短期間のうちにグランシャノス家を中心とする敵対貴族を排斥し、自身の権力基盤を完全に整えます。それから約束通りネリル連合に力を貸して、ロンデニアの侵攻や西方の貴族連盟の侵攻をくい止めると、より強固な同盟体制をつくるべくネリル連盟を説得し、聖歴305年にはジュレーヌ=ネリル連合王国を建国しました。
 アーベント国王とルクレーラ王妃はともに宰相一家の傀儡として扱われ、最終的にはラネッド家の跡継ぎが王女ロザネットと婚姻を結ぶことになりました。こうして次代の国王を輩出することとなったラネッド家は、世襲的に宰相職を独占して以後4代に渡って繁栄を続け、この間の戦いで南西部の貿易都市や幾つかの候国を勝ち取ることにも成功します。しかし、聖歴380年頃から南のブリンテンハウラ連盟と戦いを繰り広げることになると、両者の実力が拮抗して支出のみを増やす結果となり、宰相はその責任を議会で追及されます。そして、ついにラネッド家は宰相職を下りることになり、後に有力諸侯の一家という立場を経て、最終的には没落貴族として社交界からも遠ざけられる結果となりました。
 ラネッド家が宰相職を退いた後、王国はしばらく財政の立て直しを図ることになるのですが、この時に活躍したのが海洋貿易で財を蓄えていた旧ネリル連邦所属の自治都市でした。これら都市の自治領主はこの功績によって貴族位を得て、後には王国の政治にも深く関わるようになります。そして聖歴474年には、その中の一家であるウォリナー家から王妃を出し、その弟マクドールは元帥の地位を得ることになります。
 マクドール元帥は野心あふれる人物で、聖歴482年には南方のブリンテンハウラ連盟への一大侵攻を企画し、見事これを成功させます。王国はこの勝利によって、約100年間も越えられなかったディアノス川を渡ると、ブリンテンハウラ連盟の北部諸侯を次々と連合王国へと臣属させます。この功績によってマクドールは大元帥の地位を得ると、その後は王妃の口添えで内政にも干渉し始めます。そして晩年には、王国宰相職を兼任する国家最高の権力者となり、ジュレーヌ=ネリル連合王国はウォリナー家の独裁体制へと移行することになったのです。


▼南西部の歴史
 イーフォン皇国の滅亡後、南部の諸侯たちは覇権を巡って激しく争っておりましたが、ジュレーヌ王国やメルレイン王国の成立に伴い、軍事同盟を締結してこれら周辺国家に対抗することになります。これが後に450年もの長きに渡ってこの地に存続するブリンテンハウラ連盟です。連盟は特定権力者が支配するのではなく、あくまでも対等の立場にある盟友としての関係を維持し続けました。軍事面での条約に抵触しない限りは、それぞれの国家内の自治は完全に保証されており、相互の間にも上下関係は存在しませんでした。
 連盟の施策は最高評議会によって決定され、議会を取り仕切る評議長はあくまでも議会の司会進行役でしかなく、代表としての特権を付与されているわけではありませんでした。とはいえ、進行次第では議会の決定を特定方向に導くことも不可能ではありませんので、2年ごとに自治体長の投票によって議長が選出され、再選は最低でも3期を置かなければならないという規則が設けられていました。これ以外にも争いになる要素は極力排除され、最高評議会では円卓を用いて上下関係を感じさせないような配慮がなされておりましたし、他にも貴族間における作法や互いの呼び方に至るまで細かく規定されました。また、連盟内部でのいざこざは査問会にかけられて裁定され、最悪の場合は自治権を奪われるなどの厳しい処罰が下されるよう取り決められていたのです。
 このような努力の結果、自治体間の結束が乱れることはありませんでしたが、逆に評議員同士の談合や汚職が頻繁に行われるようになったり、連盟維持のための資金繰りを平民への重税で賄うようになっていったのです。そのため、貴族領地の平民は政治の腐敗に憤り、武装蜂起を行ったり都市や山地に立てこもって抗議行動を行いました。これに対して貴族たちは譲歩を行い、最高評議会の下に民会を設置することを決め、新たな連盟法に基づく平民の保護を認めるようになりました。また、不当な逮捕・刑罰に対する異議申し立てを行うことが出来る連盟評定所や、平民による財務監査請求などの諸制度を整備します。こうして単なる軍事同盟に過ぎなかった連盟は、やがて同一の法を頂く1つの連合国家へと姿を変えて活動するようになります。
 その後もこのような制度の改正は度々行われ、民会は戦時を除いて最高評議会の決議に対する拒否権の発動が出来るようになるなど、平民の権力が拡大されてゆきました。このような時代になると、貴族たちは外部へと目を向けることで新たな権益を得るしかなくなり、進んで対外的な軍事行動を計画するようになります。そして聖歴290年頃には、キルリア王国(現メルリィナ)と同盟を結んで、ルクレイドにあったフローヴィエンヌ王国を攻め、その領土を支配下に置くことに成功します。その後、連盟はキルリアと関係を悪くして戦争に至りますが、この際にも戦いに勝利して、フローヴィエンヌ王国から奪った領土の半分をさらに獲得することになりました。その後、勢力を増した連盟は、西方の自治都市や独立公国を連盟に併合することに成功し、聖歴323年には現エストルークにあったシェルバ騎士団領にまで侵入し、その領土を支配下に置いています。
 しかし、聖歴380年頃になって北部のジュレーヌ=ネリル連合王国との戦いが始まると、国境付近での一進一退の攻防を繰り返すのみで、国家財政は徐々に圧迫されるようになります。また、聖歴410年になると東方の後キルリア王国が力を増して、現ルクレイドの地から連盟勢力を追いやり、かつて失った領土の殆どを取り返します。これによって財政の危機に瀕した連盟は再び平民の台頭を許すことになり、民会からの選出官僚が財務管理を担当するようになりました。そして聖歴450年頃には、民会は出兵に対する拒否権をも得ることになったのですが、力を付けた民会は後に貴族同様の腐敗を生み出し、一部の執政官の独裁政治が行われるようになりました。これに対して、最高評議会は武力によって民会に圧力をかけると、執政官の財産査定や監視を行うための監察官制度を成立させます。
 この制度は当初こそうまく機能しておりましたが、後に監察官の権限が拡大され、彼らは市民の風俗にまで監視の目を光らせるようになります。このような事情から貴族と市民の対立が激しくなると、連盟は内部から徐々に崩壊してゆき、連盟加盟国や自治都市は特定の派閥をつくって活動するようになりました。そこへ、ジュレーヌ=ネリル連合王国が一大侵攻を開始し、聖歴482年には砦を破られディアノス川を突破されると、連盟北部の諸侯から少しずつ王国へと併合されてゆきます。この危機に際して最高評議会でも意見が割れるようになり、約450年もの長きに渡って維持されてきた同盟関係は崩壊することになるのです。


○クレンヴェルヌ王国の建国(聖歴482年〜560年)

 ジュレーヌ=ネリル連合王国は、わずか3年ほどの間にブリンテンハウラ連盟の1/3ほどの領土を併合し、現フレイディオンの北半分を領有することになります。しかし、連盟の中堅国家であったヴェランシャ家のモールフォック候国は、西方の自治都市などを味方に付けて連盟代表の座を得ると、連合王国の侵攻をくい止めるべく数々の裏工作を仕掛けます。これによって連合王国の内部の意見が割れるようになり、侵攻は一時的に停滞の兆しを見せ始めます。また、この間に連合王国に侵略された海洋貿易都市がデール王国(現ライヒスデール)へ助けを求めたため、デール王国は支配と圧制からの解放を大義名分として南への干渉を開始し、連合王国北部の幾つかの候国を占領するようになります。これによって、ジュレーヌ=ネリル連合王国はブリンテンハウラ連盟への侵攻を停止し、北への防備を固めざるを得なくなりました。
 ヴェランシャ侯爵は頃合いを見計らって和平条約を結び、それ以上の領土侵攻をくい止めることに成功しますが、条約の内容は連盟にとって非常に不利なもので、連盟への加盟自治体数を制限する内容まで含まれておりました。そのため、代償として幾つかの港湾都市を失うことになりますが、自治都市を切り捨てたことで逆に諸侯の結束は強まり、以後20年ほどの時間をかけて信頼関係を培うと、聖歴528年に自らを宗主とするクレンヴェルヌ王国を建国します。
 こうして王となったヴェランシャ侯爵ですが、後にクレンヴェルヌ王国に臣属する諸侯が増えると、以前の条約に抵触するとして連合王国から圧力を受け、内政にも干渉されることとなります。そして、王家の権限は軍事に関する指揮権と議会の議事進行権、そして財政管理を含む王国政府に対する監視のみとされてしまい、また、連合王国大使のクレンヴェルヌ王国議会への参加や、審問院と呼ばれる王国全体を裁く権限を持つ調査・裁判機関の設置を認めなければならなくなりました。


○混乱期(聖歴560〜662年)

 こうして南方の防備を固めたジュレーヌ=ネリル連合王国は、今度は海への道を開こうとして、現ユノスの地にあった聖ユノス王国と同盟を結んで、ロンデニアとの戦いに力を入れることになります。この間、クレンヴェルヌ王国はワインの輸出を中心とした貿易で力を蓄えると、現ルクレイドにあったハルモニア王国への野心を燃やします。この頃のハルモニア王国は内部分裂を起こしており、新勢力である共和派が半ばクーデターを起こす形で議会を乗っ取ると、新憲法を通過させて新しい議会制度を確立していました。この時、クレンヴェルヌ王国はメルリィナ王国と密約を結んでおり、クレンヴェルヌ王国は共和派を、メルリィナ王国は共和派の敵対諸侯を救うという大義名分を得て、それぞれがハルモニアへと侵攻を開始します。そして、クレンヴェルヌ王国が共和派の敵対諸侯を、メルリィナ王国が共和派を倒すと、両国は当初の予定通りに和平を結んで争いを終結させたのです。そして、聖歴584年に結ばれた条約によって、現ルクレイドの北西部はクレンヴェルヌ王国が奪い、それ以外の地域はメルリィナ王国に委ねられることになります。メルリィナは国王の弟エバートをこの地の王に封じ、新たにブローヌベント朝エシディア王国が興ることとなります。
 ジュレーヌ=ネリル連合王国は、クレンヴェルヌ王国が力をつけることをよく思わず、再びかつての不平等条約を持ち出して王国の分割を求めました。しかし、クレンヴェルヌ側が要求を拒否したため、連合王国は威圧する目的で国境付近へと兵を配備したのですが、クレンヴェルヌはこれに対しても徹底抗戦の構えを見せて反発します。その後、ほどなくして戦端は開かれるのですが、当時の連合王国のライール王は享楽を好み、この争いに力を注ごうとはしませんでした。しかし、後に狂王と呼ばれるシモン王子が、聖歴595年に父ライールを排斥して王の座につくと、連合王国は力を結集して南進を開始します。そして、わずか2年でクレンヴェルヌ王国の1/3ほどを占領してしまいます。この時、クレンヴェルヌは聖ユノス王国へ助力を求めますが、旧ハルモニア領であった諸侯が王国を離反し、エシディア王国へと臣属することを決定します。そのためクレンヴェルヌは急激に戦力を失い、聖歴598年に連合王国の支配下に置かれることとなりました。
 シモン王はクレンヴェルヌ王都に入ると、クレンヴェルヌ王家一族やその忠臣を残忍な方法で処刑してしまいます。また、王の部隊が占領下の都市で虐殺や略奪を行ったり、これに対抗した聖母教会の排斥を始めるなど、数々の暴虐の限りを尽くします。戦後になっても、シモン王はこれまでの忠臣を排斥して独裁体制を整え、反逆した民衆を見せしめに処刑するなど恐怖政治を行ったため、民衆はもとより貴族たちにも疎まれるようになります。そして、王の独裁に我慢できなくなった諸侯たちは、王の腹心であったベルモンド伯爵の下に集い、聖歴602年にシモン王の暗殺を謀ります。これによってウォリナー家の治世が終わり、貴族共和制によるファウラ連邦共和国が誕生することになります。
 ファウラ連邦共和国はブリンテンハウラ連盟と同様に、貴族議会とその代表によって国政を執り行う制度を採択しておりました。最初の20年ほどは諸侯同士の主導権争いが絶えず、国内はしばらく乱れたままだったのですが、ベルモンド伯爵に加担したバルジュトン侯爵が徐々に力をつけ、連邦議会を主導するようになります。その後30年ほどは国力の増強に努め、比較的平和な治世を過ごした連邦ですが、バルジュトン侯爵の死後には再び領主同士の足並みが揃わなくなり、幾つかの派閥に分裂して戦います。この争いは約10年の間続きますが、結局は連邦最大の領地を支配していたファンク家がこの地を平定し、聖歴662年にフレイディオン王国が誕生することになりました。


○緑葉革命(聖歴662年〜730年)

 ファンク朝フレイディオン王国はその後50年ほど続きますが、内乱後の国内をうまくまとめることが出来ず、国境周辺域には自治都市や地方諸侯領など独立した小自治体が乱立することになります。また、王国内部でも中産階級が台頭し、後に彼らは政治参加を求めて貴族に反発するようになるのです。
 そしてついに聖歴719年、緑葉革命と呼ばれる市民革命が起こることとなります。これにはライヒスデールの干渉を受けるのですが、ペトラーシャの支援もあって革命軍は勝利を収めることになります。これを緑葉革命と呼ぶのは、革命に参加した人々がこの地に生えるメリーメラントという雑草を胸にさしていたからです。この草は茎を食用とすることができ、民衆はこれを噛んで飢えをしのいでまで戦ったのです。フレイディオンの国旗には意匠化されたこの草の葉が中央に配置されており、メリーメラント・フラッグと呼ばれています。
 その後、六月議会と呼ばれる国民議会が開かれ、王制廃止と憲法の発布を行いました。しかし、この革命は都市の有産市民が中心となって行なわれたものであり、選挙権を有産市民に限るなどの決定を行ったために、後には農民階級との意見の食い違いが起こり、国内に乱れが生じました。また、貴族制度を廃止できなかったために、力を残していた貴族の意見を抑えることが出来ませんでした。貴族たちは立憲君主を唱えていたのですが、主流であった共和主義のパウエル派の意見を覆すことが出来なかったために、後にライヒスデールやソファイアと通じるようになります。これら国外勢力は近年立て続けに起こっている人権革命の余波を恐れて、フレイディオンへの侵入を試みようとすると、これに同調する反革命勢力の反乱などが相次いで起こることとなりました。


○軍人皇帝時代(聖歴730年〜現在)

 このような事情のために、有産市民を中心とした民衆の間では軍事による社会秩序の回復が望まれるようになります。この時、反乱鎮圧などで活躍したアレイスラー=カヴァリアは、聖歴736年にライヒスデール軍を破ったことで国民から英雄視され、革命政府の要人として活動するようになります。その後、西方からユノスが侵入した際に、もう1人の英雄として讃えられていたアンドレセン将軍が敗れると、再びカヴァリアが兵を指揮してこれを退けます。
 こうして国民の信頼を得たカヴァリアは、副総裁の地位を得ると次々と政敵を粛正してゆき、最後には半ばクーデターに近い形で政権を得て、新たなる議会を設立します。そして、聖歴743年に自らフレイディオン皇帝の地位に就いて、独裁政治を行うようになりました。
 その後、しばらくはカヴァリアの治世が続いていたのですが、ここでフレイディオン最大の醜聞と呼ばれる事件が起こります。聖歴761年にカヴァリアは何者かに暗殺されてしまうのですが(カーカバートの暗殺ギルドの仕業と噂されています)、その息子であり将軍でもあったカヴァリア2世は国内の混乱をさけるために、影で仕えていた黄金十字秘協会という錬金術集団にカヴァリアの複製体(レプリカント)をつくらせ、その死を隠蔽しようと工作したのです。これを告発したのが、カヴァリアの右腕とも呼ばれていた現在の皇帝アルザフです。この事件はレプリカント・スキャンダルと呼ばれ、国内外で大問題となりました。結局、カヴァリア2世は失脚に追い込まれ、アルザフが次の総裁の地位につくことになりました。そして、アルザフはその月のうちに総統政府を樹立し、自ら総統に就任して独裁権を握ります。
 フレイディオンの軍事化は今も引き続き行われており、現在はライヒスデールと軍事同盟を組み、ユークレイとの交戦を支援しています。この軍事同盟は各国の反感を買い、近いうちにこれに対する大同盟が結成される動きもあります。それに対抗するかのように、アルザフはカイテインとの同盟を結ばうとしており、三国軍事同盟による新大陸進出をもくろんでいます。
 アルザフの政治は独裁政権とはいえ私欲を追求するものではなく、あくまでも国益を念頭に置いているため、これまで国内の批判はそれほどでもありませんでした。しかし、国際的に批判の多いカイテインを支援する動きに対しては反対意見も現れつつあります。特に総統政府の中に良識の筆派という集団がつくられ、総統に対して政策の修正を熱心に訴えています。


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