略史
現在のエリスファリア王国の地域に存在していたのは、前聖歴579年に成立したマイリール人によるエクセリール王朝です。やがて王朝は領土を拡大してエルモア屈指の大国となりますが、前聖歴412年にイーフォン皇国が建国されると徐々に衰退してゆきます。そして、聖歴12年にジグラット王国の独立から連鎖的に内部分裂が起こり、ついには小王国の乱立状態へと移行するのです。それから200年余りのエリスファリアは、幾つかの諸侯領として分割統治され、互いの領土を巡って争いを続けておりました。しかし聖歴224年、貴族6家とファリア騎士団の連合によって、フリューリエ朝エリスファリアが建国されます。エリスファリア王国はそれから約100年ほどの時間をかけて現在の領土を築き上げてゆきました。
その後、王国はログリア内海を通じての貿易を主軸として、国内経済を発展させてきました。しかし聖歴495年になると、ログリア内海の交易問題に関してラチェン人との間で諍いが起こり、ログリア通商戦役と呼ばれる紛争に発展することになります。これには戦力で圧倒的に勝るエリスファリアが勝利をおさめますが、一族の大多数を失ったラグというラチェン人が、海賊行為で得た富で大量の武器と傭兵を買い集め、聖歴510年、王国に対する復讐戦を敢行します。ラグは一時は3つの都市を陥落させますが、不慣れな陸地での戦いで苦戦し、ついには破れることとなりました。しかし、ラグの残した遺恨は国内に新たなる問題を引き起こしたのです。
聖歴534年、ラグによって滅ぼされた一族の領土を巡って貴族同士が争い、貴族戦争と呼ばれる内戦が勃発します。この争いは約30年ほど続きましたが、聖歴563年、法教会の調停でようやく決着がつくこととなりました。その後、法教会主導のもとで国内の建て直しがはかられ、国政への影響力も大きくなってゆくのですが、これが貴族の反感を買うようになります。王家は各勢力の均衡を図って国内を安定化させますが、これが功を奏して王家の権力が増し、600年代の半ばを過ぎる頃には絶対王政へと移行します。
しかし、レイシア4世の治世になると再び国内に乱れが生じます。聖歴678年のことですが、レイシア4世が離婚間題で法教会より破門されるという事件が起こりました。レイシア4世はこれに反発し、新たにエリスファリア国教会を設立して自ら教皇の地位に就きます。これ以来、この国では王が教主である教皇を兼任することとなり、エリスファリア国教会が永世国教であると定められました。この決定に対しては貴族の中からも多数の反対者が出ましたが、国王は直後に国内法教会の財産を没収し、地方の有力者である地主階級や富裕農民にこれを分け与えて貴族の反発を抑えます。
国教会という神聖権力を得た王家は、絶対者として国家に君臨することになります。その後セリーナ女王の治世になると国内産業が強化され、やがてロンデニアやペトラーシャ、それからライヒスデールやフレイディオンといった先進諸国に次ぐ技術力を持つに至りました。セリーナの進歩的な考え方は息子である現国王ラヴィアン1世や女王シーリアネスにも受け継がれ、現在のエリスファリアの発展を支えています。
◆エリスファリア年表
前聖歴 出来事 579年 マイリール人によるエクセリール王朝が誕生する。 412年〜 エルモア中西部にイーフォン皇国が成立する。皇国とエクセリール王朝は争うようになるが、やがて皇国の力が上回りエクセリール王朝は徐々に衰退してゆく。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 12年〜 ジグラット王国の独立に端を発して、エクセリール王朝が分裂。小王国の乱立状態へと移行。 224年 フリューリエ家とそれに追随する貴族5家、そしてファリア騎士団の連合によって、フリューリエ朝エリスファリアが建国される。 495年 ログリア通商戦役(ラチェン人とエリスファリアによる、ログリア内海の交易問題に関する紛争)の始まり。 504年 ログリア通商戦役で一族の大多数を失ったラグが、アリアナ海で海賊行為を始める。 510年 大海賊ラグ、大量の武器と傭兵を引き連れてヴァンヤン島に帰還。エリスファリアに復讐戦を敢行する。3つの都市を陥落させるが、陸地での戦いに移るにつれ劣勢になる。 511年 ラグの死亡により、復讐戦は終わりを告げる。後にラグの残した遺産が噂にのぼる。 534年 ラグによって滅ぼされた一族の領土を巡って、貴族戦争と呼ばれる内戦が勃発する。 563年 法教会の調停によって貴族戦争が終結する。その後のエリスファリアは絶対王政へと移行。 678年 国王レイシア4世が結婚間題で法教会より破門される。王はエリスファリア国教会を設立し、自ら教皇位に就く。 705年 ジグラットとルワール間の国境紛争に介入してガンディアン地方のルクイエス候国を得る。 709年 ペルソニア大陸に冒涜の王と呼ばれる怪物が出現。ラガン帝国はこれによりペルソニアの植民地を多数失い、この地での力を失う。カルネア、ロンデニア、エリスファリア、フレイディオンはこぞって入植を開始し、ペルソニアは略奪の楽園と呼ばれるようになる。 722年 リーベルバーム地方でバストーシャ山の噴火が起こり、周辺地域が飢饉に見舞われる。 781年 セリーナ女王の死により、息子ラヴィアン1世が王位を継承する。
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詳細史
○エクセリール王朝時代(前聖歴579年〜聖歴12年)
現在のエリスファリア王国の地域に存在していたのは、前聖歴579年に成立したマイリール人によるエクセリール王朝です。この当時のエルモア地方にはカイテイン帝国以外の大国は存在せず、彼らの領土拡張を妨げる障害は存在しませんでした。とはいえ、王朝は聖母教会を国教とし、民族融和を基調路線とした穏和な手段で領土を拡張してゆき、(変異の影響を受けた者以外は)民衆が虐げられることも殆どなかったため、問題はあまり起こらなかったようです。
こうして、当初はルワール北部、エリスファリア、ジグラット付近しか保有していなかった国土は、最盛期にはカスティルーン南部、ペトラーシャ東南部、ルワール北部、エリスファリア、ジグラット、カイテインの一部地域を含む大国となり、前聖歴400年代に入る頃にはエルモア地方最大の勢力へと成長してゆきます。エルモア地方の文明の発展は、聖母教会とエクセリールの国民たちの力によるものといって差し支えないでしょう。
エクセリール王朝は幾度か遷都を繰り返しましたが、最終的には中央教会のあるアルマーナ(現ルワール大公国)を首都に定めることになります。エリスファリア地方は呪震と呼ばれる特殊な地震が起こるため、この地域が政治の中心となることはありませんでしたが、穏やかな内海に面していることから東部は海上交易によって栄え、富を蓄える貴族や貿易商人も多くあらわれました。彼らは呪震を嫌ってこの土地に居を構えることはせず、都市に自治権を与えて民衆の自治に任せることが多かったことから、東部の民は特に独立心に富み、権力者による支配を嫌うような地域性が生まれました。
しかし、前聖歴400年代の初頭には、大陸西方で有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになりました。そして前聖歴460年には、ヴァリュア、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼット、エルンシュテンの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦乱が始まり、領土拡張を目論むエクセリール王朝もこれに参戦することになります。平和な治世に慣れきっていた民衆は、これに対して不満を募らせていったのですが、後に貴族たちはその意見を権力で強引に押さえつけるようになり、エクセリール王朝は少しずつ軍国主義へと傾いてゆきます。
7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、前聖歴412年に残り5公国の領地を手中に収め、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国と周辺諸候国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南西部)を誕生させます。エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。
この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。そして、聖歴12年にジグラット王国が独立すると連鎖的に内部分裂が起こり、ついには小王国の乱立状態へと移行するのです。
○分裂期(聖歴12年〜聖歴350年)
それから200年余りのエリスファリアは、幾つかの諸侯領として分割統治され、互いの領土を巡って争いを続けておりました。しかし聖歴224年、そのうちの1つを治めていたフリューリエ家と、それに追随する貴族5家、そしてファリア騎士団の連合によって、フリューリエ朝エリスファリアが建国されることになります。これらの勢力を繋いだのは法教会ですが、カスティルーンやペトラーシャといった国家の成立とは異なり、アリアの降臨によって再び勢力を得た聖母教会の干渉を煩わしく思った貴族たちが、反聖母教会という立場から改宗しただけであり、とりわけ民衆の支持を得たなどの理由ではありませんでした。
王家として国家の中心となったのはエクセリール王家の血を引くフリューリエ家ですが、王家そのものは強い武力を有しておらず、権力の基盤となるものは血筋しかありませんでした。これを補ったのが9つの団から成るファリア騎士団であり、それぞれの団長は9人騎士として特別な地位を与えられました。彼らはいわゆる騎士よりも遙かに高い、侯爵位と同等の領地と特権を下賜され、政治への参加も認められたのです。
ファリア騎士団は平民出の武装集団が貴族化したものであり、彼らの後ろ盾となるものは何1つなく、立場を尊重しなければならない理由も存在しませんでした。そのため、5家の貴族領主たちは騎士団に対する厚遇に不満の意を示したのですが、彼らには建国時における功績を讃えて公爵の地位を与え、騎士団には決して5家以上の権力を与えないことを条件として、特別待遇を認めさせたのです。そのため実際の権限は領主貴族と同等でありながら、9人騎士たちは現在に至っても特別な権力を与えられた騎士以上の立場にはなりません。
ともあれ、エリスファリア王国は誕生し、それから約100年ほどの時間をかけて現在の領土を築き上げてゆきました。その間、ラガン帝国と数度の海戦を交えましたが、その度に際どい状況ながらもこれを退けています。また、同じくエクセリール貴族の末裔であるエリンブラッフ公国が、ペトラーシャと戦った時にも参戦していますが、ペトラーシャに味方してエリンブラッフ王国を滅ぼし、その一地方(現在のルワール北部地方)を獲得して領土を広げています。
○ラグの復讐海戦(聖歴350年〜聖歴534年)
こうして、現在とほぼ同等の領土を得た頃のエリスファリアは、カーカバートなどを仲介した海洋貿易で更に発展を遂げ、エルモア地方でも有数の金満国家へと成長していました。特にボルネアール公爵家は金融貴族と揶揄されるほど巨額の富を蓄え、集めた大量の財宝や美術品を館中に飾り立てるなど、王家をも凌ぐ権勢を誇ったといいます。
また、聖歴450年代には、セルセティアに植民都市を持つソファイアと、セルセティア北部にあったルバイオ王国を支援するエリスファリアとの戦いになるのですが、これに勝利してソファイアをセルセティアから退けることに成功します。そして、後にセルセティアの多くの地域を支配状態に置き、交易で大いに栄えることとなるのです。
しかし聖歴495年に、ログリア内海の交易問題に関してラチェン人との間で諍いが起こり、ログリア通商戦役と呼ばれる紛争に発展することになります。これは裕福で装備も充実していたエリスファリア軍から仕掛けたもので、全てにおいて劣るラチェン人としてはどうしても避けたい戦いでした。そのため、ラガン帝国に対して支援を求めるなど交渉を行ったのですが、この時期のラガンは国内問題やペルソニア大陸の植民地を巡る処理で忙しく、またエリスファリアとの関係を良くしておいた方が遙かにメリットがあったため、要請を完全に無視してしまいます。こうして味方を得られなかったラチェン人は、消極的な手法でしか対抗することが出来ないまま惨敗し、多くの部族がエルモア中に散ってゆくことになりました。
このようにヴァンヤン島を離れていったラチェン人の中に、ラグという名の青年がおりました。彼は漁師頭の家に生まれたようですが、通商戦役で一族の大多数を失った後は残された一隻の船で島を出て、アリアナ海で海賊行為を始めるようになります。そして聖歴504年頃までに多額の財宝を手にして、ブルム内海にも海賊王ラグの勇名を馳せることになりました。
ラグが海賊行為を行うようになったのには目的がありました。それは故郷と部族を奪ったエリスファリアに対する復讐を行うためで、海賊稼業の傍ら離散したラチェン人を身内へと取り込んでゆきました。そして、時をかけて集めた大量の武器と傭兵をログリア内海の島々に隠し、優秀な参謀ザイアス=ブリュッケンを得て復讐戦を敢行したのです。ラグの復讐海戦と呼ばれるこの戦いは、聖歴510年のフェルダインの陥落から始まりました。フェルダインはボルネアール家筋の貴族が治める大都市で、当時からエルモア地方でも有数の軍港を保有しておりましたが、都市内部に部下を入り込ませていたラグは軍艦に火を放たせ、混乱の隙をついて都市へと侵入を果たしました。そして、領主のヴォンダル侯爵を人質として、わずか一夜のうちにフェルダイン軍を都市から撤退させることに成功します。
強固な要塞としても機能するフェルダインを得たラグは、それから半年のうちに2つの都市を手中に収めます。しかし、海上生活を主としていたラチェン人たちは、陸地での戦いに移るにつれ劣勢になり、その翌年には戦局を逆転されることとなります。そして、続く511年にはフェルダインが陥落し、捕らえられたラグとその側近たちが処刑され、ラチェン人たちの多くは再び方々へと散ってゆくこととなったのです。
○貴族戦争(聖歴534年〜聖歴563年)
フェルダインを中心とした国家東部地域は、ラグの死後もまた大きな戦禍に巻き込まれることになります。フェルダインの領主であったヴォンダル侯爵はラグの一族を直接滅ぼした者であり、ラグもまたその復讐として一族すべてを処刑したのです。この他にもラグによって領主を失った領土は多かったのですが、この領地を巡って国内の貴族同士が争い、約30年ほども続く長い戦いを迎えることになります。
こうして聖歴534年に勃発した内戦が貴族戦争と呼ばれるものですが、これは戦乱に嫌気がさした民衆たちが、支配者たちを揶揄する意味でつけた呼び名です。貴族戦争は当初は短期間で決着すると思われたのですが、王家は前線に立ったファリア騎士団の功績をことさらに取り上げ、これに領土を与えて自らの権力を強化しようとしました。この動きに対して、議会を牛耳っていた長老派と呼ばれる貴族連盟が反発しましたが、長老派に対抗していたソレル家一派が多くの地方領主を味方とし、国王との駆け引きを開始します。国王はこれを歓迎し、ソレル派やファリア騎士団を厚遇して空白地となった領土を与えると、地方領主の支持を得て幾つかの政治改革を断行するなど、長老派をことごとく無視するような動きに出ます。
これに憤慨した長老派貴族たちは、ソレル家が国王をたぶらかして専横を目論む逆臣とし、王母カトリーヌの書状を得て征伐を開始したのです。この頃の国王と王母は、王女の婚姻問題や植民地政策について意見を違わせるなど、非常に不仲な状態が続いておりました。国王は政治に干渉しようとする王母を疎ましく思い、地方の離宮へと遠ざけていたのですが、それが長老派にとっては幸いし、国王の目を気にすることなく王母との密談を積み重ねることが出来ました。王は王母の討伐命令を無効としたのですが、大義名分を得た長老派は王の意見を無視して、ソレル派諸侯の領土へと進軍を開始します。これに対して国王は、ファリア騎士団や諸侯を動かして長老派を征伐しようとするのですが、地方で反乱や農民一揆などが相次ぎ、軍団として統制された動きを取ることが出来ませんでした。
しかし、幾度かの会戦を経た聖歴545年、膠着していた状況に変化があらわれます。もともと王母は武力で国王を退位に追い込み、溺愛していた幼い孫ピアーズを早々に王位につけて、その摂政として権勢を振るおうと目論んでいたのですが、ピアーズが545年に船の事故で急死すると、彼女はショックからくる心労で寝込んでしまいます。長老派の正当性は王母1人にかかっていたため、その存命中に決着をつけようと軍勢を整えるのですが、ちょうどこの頃、王妹の夫がルワール大公国の貴族の出であることから、これに参戦しようとしたルワールとの国境紛争が南西部で生じます。そして、長老派の中でも主力となるガネーシャ侯爵の軍が国境付近へと釘付けとなり、全軍による総攻撃は見送りとなってしまうのです。そして、この3年後に王母が死亡して長老派の結束が失われると、多くの諸侯が孤立してソレル派の軍勢の前に倒れることとなりました。
こうして大勢が決した聖歴563年、長老派の最大勢力であるパルフィット家の要請によって法教会が調停役を請け負い、ようやく停戦条約が結ばれることになりました。これにより、多くの空白地が国王の直轄地とされ、王権が強化されることとなります。これらの直轄地は、さらにソレル派を中心とした地方諸侯やファリア騎士団に下賜され、議会での発言権も増す結果となりました。長老派の中枢は現在の領地を没収されはしなかったものの、国家における官職を失うなどの措置を受けて主流からは外され、国家に対する影響力を失うことになります。
○絶対王政時代(聖歴563年〜聖歴670年)
その後、法教会主導のもとで国内の建て直しがはかられることになりますが、まだくすぶっている民衆の不満を抑えるために、法教会の進言によって幾つかの新しい制度が取り入れられました。たとえば、議会には高位聖職者や市民による下院が設置され、貴族たちが構成する上院の決定には下院の承認が必要となりました。しかし、下院からの法案の発議が認められ、土地への課税など貴族に不利益な議題が下院からのぼるようになると、法教会の影響力を積極的に削ごうと貴族が一致団結するようになります。
貴族の団結による反乱の再来を恐れた国王は、法教会の過剰な干渉を抑えるために地方諸侯の権限を強くしたり、官職にともなう貴族位の売買によって有力市民を取り込むといった工作によって、聖職者の発言権を相対的に弱くすることでこれに対応します。こうして国内の勢力均衡を第一とした政治体制を整えると、各勢力(大貴族、地方諸侯、聖職者、自治都市、大商人など)の間での争いに目が向けられ、その結果として国家君主の権力が維持されるという構造が生まれました。
このような世の中が続くと、世俗勢力は王家と積極的に関係を結んで、自身の権益や発言力を強めることに尽力するようになります。逆に教会はこれらの動きに反発して世俗権力との対立を深めてゆくのですが、下層の民衆の支持を得ることしか出来ず、王家はあらゆる分野で絶対的な権力を手に入れることとなったのです。こうして、600年代の半ばを過ぎる頃のエリスファリアは絶対王政へと移行し、中央集権体勢の世の中がしばらく続きます。
王家は貴族の一致団結による反抗を抑制するために少しずつ領地替えを行ったり、王家以外の諸侯には保有できる兵数の制限を設けるといった政策を採ります。そして、これによって国家全体の軍事力が低下するのを防ぐために、傭兵を雇い入れたり常備軍の整備に力を入れ、王家は国家を支配する地盤を完全に固めました。
○国教会の誕生(聖歴670年〜聖歴679年)
しかし、ほどなくして王位についたレイシア4世の治世になると、再び国内に乱れが生じるようになります。この頃のエリスファリアは、ペルソニア大陸やメルリィナ継承戦争への出兵に重ねて、王家の浪費や飢饉による影響によって財政が窮乏し、破綻寸前の状態にまで陥っておりました。それでもレイシア4世は、自らの権威を示すために新たな宮殿の建設を強引に行わせ、民衆はおろか諸侯の反発まで受けることになります。これに対して、法教会も不興を買うことを承知でたびたび進言するのですが、王家との関係を悪化させるだけで終わってしまいました。
このような反目を経た後の聖歴671年、レイシア4世はラガン帝国から第3王妃ガラディを迎え入れることになります。これは対ロンデニア同盟(主にペルソニア大陸の植民地問題)を結ぶために行われる婚姻であり、形式とはいえ非常に重要な意味を持つものでした。しかし、ガラディはマイエル教の信奉者であり、法教会への改宗を頑なに拒否しました。このことから、法教会が結婚の儀を執り行うことを拒否するという異例の事態に至りますが、帝国との関係を考えて婚姻を先延ばしにするわけにもゆかず、王家は宮殿での略式婚だけで婚姻を成立させてしまいます。
この決定は当然のことながら教会の大反発を受けました。そして、聖職者を議員として多数抱えていた下院議会の議題として取り上げられ、以前からの国王の強引なやり方を嫌う貴族たちをも巻き込んだ論争となりました。また、法教会では一夫多妻を禁じてはいなかったのですが、同じく法教会を国教としていたカスティルーンで、貴族間の二重結婚が原因の家督相続問題が起きていた時期であり、教会上層部ではこれを禁ずるかどうかを検討しておりました。そのため、禁止派を多く抱えていたエリスファリア国内の法教会は、教会の権威を蔑ろにした行為も含めて、レイシア4世を背教者として激しく非難します。しかし、王家は関係の修復をはかるどころか、聖職者を議会から閉め出したり、聖職特権の一部を取り上げることでこれに対抗しました。
王家がこのような強引な手段を取ることが出来たのは、貴族戦争の結果として現在のルワール北部地域を失ったことで、ペトラーシャとは直接の往来が不可能となり、国外の法教会勢力の干渉が少なかったためです。また、ちょうどこの頃のペトラーシャは人民革命が起こっていた時期であり、仮に国土が接していたとしても影響は少なかったでしょう。このような事情から教会側が引き下がることで、問題は一時的に沈静化したように思えたのですが、王家はさしたる時を置かずして更なる抗争の火種を生み出すのです。
聖歴678年のことですが、王室は隣国ジグラットとの関係が悪化したことを機に、ジグラット出身の第二王妃と離婚することを決定します。しかし、法教会では離婚は破門に該当する事項であるため、教会上層部は遂にレイシア4世に対して破門を宣告しました。
レイシア4世はこれに反発し、エリスファリア国教会を設立して自らを正統信仰者であると宣言します。これには権力と引き替えに法教会を離反したヴィチェイル=レグベルド枢機卿が大きく関与しており、身内やそれ以前に金銭で取り込んだ部下たちを使って、1年という短かい期間で新たな教会組織を作り上げると、レイシア4世を教皇として認定しました。そして、王権もまた神に与えられた神聖なものとして、国内での王の立場を絶対的支配者であると規定します。なお、レグベルド枢機卿はこの功績によって教皇に次ぐ主席枢機卿の地位を得、教皇庁を統括する役目に任ぜられました。また、教皇庁も彼を偉大なる聖人として讃え、首都に新たにつくられた一号教会(内部に教皇庁を抱える)をレグベルド正教会と名付けています。
これ以来、この国では王が教主である教皇を兼任することとなり、エリスファリア国教会が永世国教であると定められました。そして、国民はすべて自動的に国教会の信者とされ、それ以外の信仰を認められませんでした。信者のことは国教徒と呼びますが、国教徒以外の者は公職につくことが許されないとされたため、当然ながら官職に就く者も改宗を強制されることになります。
この決定は、いくら国王とはいえエリスファリアの歴史上かつてない暴挙であり、当初は貴族の中からも多数の反対者が出ました。しかし、レイシア4世は直後に国内の法教会の財産を没収し、地方行政の有力者である地主階級や富裕農民にこれを分け与え、この決定を正統なものとして認めさせます。それから、聖職者は政治家として下院議会に出席する権利を持ちますが、この地位を中央貴族たちに売ることで彼らの支持を得て、なおかつ受け取った金銭を国内改革に向けることで、王家は国内の反対派を表向き納得させることに成功しました。こうして王家は、地方と中央の勢力バランスを保ちながら貴族主義体制を強化し、国内の乱れを最小限に防ぎます。
○地方勢力の台頭(聖歴679年〜現在)
法教会からの没収財産を国内改革に向けることにより、王家は財政の窮乏を立て直すことに成功しました。そして、国教会という神聖権力を得た王家は、絶対者として国家に君臨することになります。
しかし、改革当初は教会を利用して支持を得たものの、これだけで王権を維持することは難しく、聖歴700年代に入ると戦争での勝利が必要とされるようになります。そして、聖歴705年に起こったジグラットとルワール間の国境紛争に介入して現在のガンディアン地方のルクイエス候国を得たり、ラガン帝国がペルソニア大陸で失った植民地を各国と奪い合い、幾つかの植民地を手にすることになるのですが、栄華を夢見るのは束の間に過ぎませんでした。
というのは、聖歴722年に入ってすぐのことですが、リーベルバーム地方でバストーシャ山の噴火が起こり、近辺の土地が飢饉に見舞われたためです。そして、続いて起こった疫病で多くの民衆の命が奪われ、国内産業に大きな打撃を受けることとなります。これは国教会に切り替わったことで術法師が減少し、これらの危機に十分に対処できなかったことも原因に数えられます。
ともあれ、農村での労働力を確保する必要が生じ、農民を厚遇するような政策をしばらく続けることになりますが、これに伴って国内体制には様々な変化が生じました。たとえば、貴族の反対を抑えて農奴制を廃止し、年貢ではなく貨幣による納税を認めたのですが、これによって富裕農民階級が台頭して、一部地方では貴族との力関係が逆転するような状態も見られるようになりました。このようにして台頭した富裕農民の中には、繊維産業への参入や工場建設などに積極的に関わる者も多く出て、国力増強の手助けとなりました。彼らは土地や生産手段を得てさらに富を拡大すると、下院での議席数を増やして中央集権体制に食い込んでゆきます。領主貴族は土地への無課税など幾つかの特権を保持しているため、このような有産階級とは明確な階級差は存在しておりますが、力をつけた富裕農民はさながら貴族のように振る舞うようになったのです。
国内体制の変革によって地位を低下させた貴族たちは、利益を得るために植民地の更なる拡大を望むのですが、当時の国王サフィオンは対外戦争を嫌い、現在の領土の維持安定を求めました。そのため、時を経るにつれて貴族の不満の声は大きくなるのですが、王家はこのような有力貴族を抑えるための手段としても有産市民の台頭をむしろ歓迎しました。そして、産業の進展を求めて市場統一を望む彼らとの協調によって、王権を維持しようと試みたのです。しかし、この時に行ったのは特許状の濫発や官職への推薦など、あくまでも個人的な繋がりを結ぶことで支持を得ようとしたため、国内政治の腐敗や工業力の低下を引き起こしました。
そこで新たに王位に就いた女王セリーナは、市場の競争力を高めようとして、先王が交付した一切の特許状を無効とします。この決定は一部の有産階級の非難を浴びますが、これによって新たな産業資本家が市場に参入することになりました。彼女はその後も、植民地政策やロンデニアへの対抗意識から霊子機関の導入を試みたり、海外の技術者を招き入れて官営工場を設立するなど、工業の発展に力を注ぎました。エリスファリアは女王のこうした先見性によって、ロンデニアやペトラーシャ、それからライヒスデールやフレイディオンといった先進諸国に次ぐ技術力を持つに至りました。セリーナの進歩的な考え方は息子である現国王ラヴィアン1世や女王シーリアネスにも受け継がれ、現在のエリスファリアの発展を支えています。
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