アルメア王国/歴史

略史詳細史


 

略史


 アルメア国民の大部分を占めるアル人は、前聖歴686年に現アルメアの地に移住し、ブラウディア公国を建国しました。その後、彼らは荒れ地の開拓を続けて、前聖歴300年代にはカルネア南部まで版図を広げます。しかし前聖歴155年、ヴァルネル人がイーフォン皇国から離れて現カルネアへとたどり着き、ブラウディア公国に戦いを仕掛けるようになりました。そして現在のカルネア南部地方を奪って、前聖歴148年にマトレーシュ公国を築きます。創始期のマトレーシュ公国の領土は現カルネアの1/4ほどであり、西半分の領域は未だアル人の領土のままでした。また、カルネア北西部の一部地域には、アル人から自治を許されていたフェルメル民族が住んでおりました。しかしヴァルネル人は、その後50年の間に起こった5度の戦乱を経て、アル人やフェルメル人を追い出し、前聖歴48年には現カルネアの2/3ほどの地域を支配するに至っております。
 マトレーシュ公国はその後も何度かブラウディアへと戦いを仕掛けますが、地形的な要因や固い防備によってわずかに領土を広げたのみで、現在の国境線がほぼ確定しました。それからの数百年、ブラウディアは外部との戦いを経験することなく、国土開拓に力を注ぐことになります。この間に、現アルメアの地には幾つもの公国が誕生しますが、聖歴270年代に入るとシェヴァリック王国(現ロンデニア北部地域)の侵攻に悩まされ、公国間で軍事同盟が締結されるようになります。この同盟はやがて1つの王国へと発展し、聖歴306年、8公国からなるローレンウェル王朝アルメア王国が建国されます。
 アル人は一致団結して外からの侵略に対抗しますが、自ら攻勢に出ることは無かったため、相手を疲弊させるだけの繰り返しとなりました。しかし、聖歴380年代になってロンデニアでクーデターが起こると、この情勢が大きく変わることになります。クーデターを起こした王女はシェヴァリック王国出身の母を持つため、シェヴァリックは王女に味方して戦っておりました。この時、アルメアはロンデニア王子と盟約を交わして、カルネアとともにシェヴァリックを討伐することに成功します。
 その後、聖歴442年に国王オーディルが水難事故で死亡したため、王家直系の血筋が絶えることとなりました。このため王国では王位後継問題が浮かび上がり、国内は幾つかの派閥に分かれて争うこととなりました。これには当時カルネアにあったプレジア王国の干渉もありましたが、結局は王家の分家であったバーネット子爵派が勝利し、聖歴447年、バーネット朝アルメア王国が誕生することとなります。
 その後、初代国王ファリーによって新たな国家制度が構築されます。これにより、再度の国家分裂を防ぐための方策として、国家を王都と7つの地方に分割して、それぞれに守護職を置いて地方を監視させる制度を作られました。この他にも、巡察使制度など地方反乱を防ぐための制度が幾つか設けられ、王家は大きな権力を持って地方を統治しましたが、時代が過ぎると少しずつ王権が弱体化してゆくことになります。聖歴656年には、王朝は1度交替しておりますが、この際には貴族による選挙によって王が選出されるという、きわめて平和的な手法が採られています。しかし、争いがないのは人々にとって歓迎すべきことであり、今でも伝統的な貴族制度を続けているにもかかわらず、この国では民衆から不満が聞かれることは殆どありません。


◆アルメア年表

前聖歴 出来事

686年
 アル人移民により、ブラウディア公国が建国される。

155年〜
 ヴァルネル人が現カルネアの地に移住をはじめ、前聖歴148年にマトレーシュ公国を建国する。マトレーシュ公国はやがて、ブラウディア公国と領土を巡って争うようになる。
聖歴 出来事
270年〜  シェヴァリック王国(現ロンデニア北部地域)がブラウディア公国への侵攻を開始する。
306年  8公国からなるローレンウェル王朝アルメア王国が建国される。
380年〜  ロンデニア、カルネアと結んでシェヴァリック王国を倒す。

433年
 都市国家半島で火山噴火が起こる。冷害による影響で、その後数年のあいだ飢饉が続く。

442年
 国王の死によりローレンウェル朝が断絶。王位継承戦争が勃発する。
447年  継承戦争の終結。バーネット朝アルメア王国が誕生する。
656年  バーネット朝の断絶。選王選挙により、ブランメルリージュ朝が誕生する。


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詳細史


○ブラウディア公国の創始(〜前聖歴48年)

 現在のアルメア国民の大部分を占めるアル人は、前聖歴745年頃に中央地方からエルモア地方に移住してきた民族だと考えられています。建国の歴史は古く、前聖歴686年に創始公ベディア=ウラノフが移民たちを集めて、この地にブラウディア公国を建国したのが始まりです。当初は荒れ果てた地ばかりだったのですが、公国の住民は聖母教会の聖職者を中心にねばり強く開拓を続け、前聖歴300年代にはカルネア南部まで版図を広げておりました。
 この地は森林に囲まれており、それまで国外勢力からの干渉は殆どなかったのですが、前聖歴155年に1つの事件が起こります。この年、ヴァリュア公国領のヴァルネル人がイーフォン皇国から離れ、北方に移動して現カルネアへとたどり着き、民族移動を主導したモーズリー家の指揮のもとにブラウディアに対して戦いを仕掛けてきたのです。そして、現在のカルネア南部地方を奪って前聖歴148年にマトレーシュ公国を築き上げました。
 創始期のマトレーシュ公国の領土は現カルネアの1/4ほどであり、西半分の領域は未だアル人の領土のままでした。そして北方の一部地域には、アル人から自治を許されていたフェルメル民族が住んでおりました。しかしヴァルネル人は、その後50年の間に起こった5度の戦乱を経て、アル人やフェルメル人を追い出し、前聖歴48年には現カルネアの2/3ほどの地域を支配するに至っております。アル人は穏やかな気性で知られておりますが、これらの戦乱でもアル人は殆ど戦うことなく土地を明け渡したと言われています。なお、フェルメル人の半数は現アルメアの北部地域に移り住み、後にアルメア王家に臣属してポテンシャ候国を建てることになります。


○アルメア王国の建国(前聖歴48年〜聖歴400年)

 マトレーシュ公国はその後も何度かブラウディアへと戦いを仕掛けますが、地形的な要因や固い防備によってわずかに領土を広げたのみで、現在の国境線がほぼ確定しました。それからの数百年、ブラウディアは外部との戦いを経験することなく、国土開拓に力を注ぐことになります。この間に、現アルメアの地には幾つもの公国が誕生しますが、聖歴270年代に入るとシェヴァリック王国(現ロンデニア北部地域)の侵攻に悩まされ、国家間で軍事同盟が締結されるようになります。この同盟はやがて1つの王国へと発展し、聖歴306年、8公国からなるローレンウェル王朝アルメア王国が建国されます。
 アル人は一致団結して外からの侵略に対抗しますが、自ら攻勢に出ることは無かったため、相手を疲弊させるだけの繰り返しとなりました。しかし、聖歴380年代になってロンデニアでクーデターが起こると、この情勢が大きく変わることになります。クーデターを起こしたジャクリーヌ王女はシェヴァリック王国出身の母を持つため、シェヴァリックはジャクリーヌに味方して戦っておりました。この時、アルメアはロンデニア王子と盟約を交わして、カルネアとともにシェヴァリックを討伐することに成功します。


○継承戦争(聖歴400年〜447年)

 その後、聖歴440年代に入ると、この国の歴史で唯一の内乱が起こります。国家分裂の危機に瀕した最大の要因は継承問題でしたが、それ以前にも各領邦国家内に問題が発生しており、これらの要因が複合的に絡んだために、争いは一層拡大されることとなりました。アルメアの暗黒時代と呼ばれるこの時期、唯一の幸運と言えるのは、近隣の国外勢力の多くが国内問題を抱えていて、その干渉を殆ど受けなかったことでしょう。


▼レクセンドラ公国
 この国家の内部崩壊は、聖歴433年に都市国家半島で起こった火山の爆発により、エルモア全域で冷害が続き多数の餓死者が発生したことから始まります。これが引き金となって、聖歴435年に農民層を中心とした暴動が起ったのですが、反乱の鎮圧に向かった公爵が逆に捕虜となった上に、連絡の行き違いで殺害されてしまったのです。この事件が偶然の出来事ではなく、1人の男の計画によるものであったことは、今でも明らかにされていない事実です。しかし、経緯はともかくとして、これによって順調に発展してきたレクセンドラ公国の運命は大きく変わることになります。
 殺された公爵の跡を継いだのは、まだ9歳になったばかりのビューネでした。この母ヨナは亡くなった公爵の親友であったジルノルマン伯爵のもとへと嫁いでおりましたが、ビューネは伯爵との間に出来た子供ではなく、公爵に仕えていた騎士ロシェルとの間に生まれた子供でした。
 ヨナが幼い頃から近衛騎士として仕えていたロシェルは、いつしかヨナに恋するようになっておりました。そして、貴族の子女として籠の鳥であったヨナもまた、物心がついた時にはロシェルに憧れるようになっていたのです。しかし、ヨナと一介の騎士に過ぎないロシェルの仲が許されるはずもなく、2人は駆け落ちして北部の寒村で身分を偽って暮らすことになります。公爵が差し向けた捜索隊が2人を発見した頃には、既にビューネはこの世に生を受けた後でした。
 2人の駆け落ちは表向きにはなかったことにされており、公式にはヨナは国外留学に出ていたことになっています。そしてヨナはその後、事情を知るジルノルマン伯爵と結婚し、ビューネは伯爵との間に出来た子供であると公式に発表されました。ロシェルは任務の途中に行方不明になったことにされましたが、実際には地下牢に幽閉されており、非公式の処刑を待つばかりの身でした。しかし、同じくヨナを慕っていた騎士仲間ファーシングの手によって、処刑直前に辛うじて救い出されます。その後、彼は公爵への復讐とヨナをその手に取り戻すために、国内に身を潜めて行動の機会を窺っておりました。そして彼は飢饉という状況を利用して農民反乱を主導し、見事に公爵の命を奪ってみせたです。
 復讐を遂げた彼は、相続問題によってヨナの身辺が慌ただしくなる前に次の行動に移ります。そして凶賊を装って伯爵を殺害し、ようやくヨナと再会を果たしたのです。しかし、全ての事情を知りながら自分を受け入れてくれた伯爵を、ヨナはこの数年の間に愛するようになっておりました。同時に、拷問を受けて片目と片腕を失い、全身の至るところに火傷を負っているロシェルを見て、ヨナは同情と悔恨の念を抱かずにはいられません。ロシェルは再び2人で静かに暮らすことを提案したのですが、その願いは叶えられませんでした。全ての原因が自分にあると考えたヨナは、自らの命を断つことで許しを得ようとしたのです。
 翌朝、全焼した屋敷の近くの森から、全身に傷を受けて半死半生となった伯爵(に扮したロシェル)と、無傷のビューネが発見されました。結局この事件は暴徒と化した農民による凶行として片づけられ、妻と近臣の全てを惨殺された伯爵によって、その後、多くの反乱農民が掃討されたということです。伯爵は自らの戒めとして、失った片目と片腕、そして全身に受けた火傷の痕を治すことなく、仮面を被って生きることを選択します。そして、公爵位を継いだビューネの後見人として、領地経営を行うこととなりました。


▼エクストゥス公国
 聖歴431年、公爵ホルガーは妻を亡くしたことをきっかけに、プレジア王国(現カルネア)のレセップス侯爵の娘イヴェットと婚姻を結びます。しかし、見合い旅行に訪れた彼女に対して、公爵の弟であるリディアスが恋心を抱いてしまったのです。そして何よりの悲劇は、イヴェットもまたリディアスを愛してしまったことでしょう。とはいえ、それも無理からぬことで、まだ16歳の少女だったイヴェットにとって、43歳にもなるホルガーはあまりにも遠い存在でした。また、政務に忙しいホルガーに代わって、異国で心細い思いをしている彼女の世話を引き受けたのは、22歳と年齢の近いリディアスであり、このことが何より2人の想いに拍車をかけることとなりました。
 結婚からまもなくして2人の不義密通が始まります。しかしその8年後、この事実はホルガーの傍仕えであったエルベルトによって公爵に知られ、リディアスは国外へと遠ざけられることとなったのです。この時、その前年にホルガーの不興を買って宰相位を降ろされたクラプトン伯爵が、復讐心からリディアスに近づきます。それから一週間後、ホルガーは心臓の発作で死亡することになりますが、これはクラプトン伯爵による毒殺でした。
 その後、公爵の葬儀から1年も経たないうちにリディアスはイヴェットと結婚し、公爵位を継ぐことになります。もともとホルガーとリディアスの間には3人の公子がおりましたが、彼らは病などで既に死亡しておりました。リディアスの他には、ホルガーとその先妻との間に生まれていた息子シェインが公爵継承権を持っていましたが、ホルガーとリディアスの父である先々代の公爵により、リディアスが後継者第二位に指名されていたため、公爵位の継承自体に異を唱える者はおりませんでした。しかし、先王崩御からの時期が早すぎることも含めて、イヴェットとの婚姻に反対する者は少なからずおり、このことを理由にホルガーの近臣だった者たちがシェインを擁立する派閥を作り始めたのです。
 このような権力闘争が行われている最中、父の死に疑問を抱いていたシェインは、密かに調査を進めておりました。そんな彼に、既にクラプトン伯爵によって始末されていたエルベルトの妻が、リディアスとイヴェットの不義密通の事実こそが、公爵と夫が謀殺された理由であることを告げるのです。信心深いシェインは、これら神の御心に反する所業を許すことは出来ませんでした。また、ホルガーの死とともにリディアスの養子となっていた彼ですが、イヴェットとの間に子供が出来れば自身の立場はどうなるかわかりませんし、クラプトンによって殺害される可能性も考えられました。こうしてシェインは叔父に敵対することを決意し、実母の実家であるエパレッド伯爵家の庇護下に入って、自らの継承権を主張して反対勢力を集めるのです。これが聖歴442年のことになります。


▼ポテンシャ侯国
 ポテンシャ候国は、アルメア内でただ1つ民族系統を異にするフェルメル人の国家です。この国の乱れは相続問題に端を発しますが、これは財産を子供に分割して相続させる風習が原因で、古くよりこのことが血族間での政争を助長してきました。
 事の起こりは聖歴390年、シェヴァリック王国討伐の際に従軍した侯爵ルパードの死に始まります。侯爵の死は暗殺によるものですが、調査の結果、内部の者による犯行が有力と判断されました。その後、長子であるストイクスが順当に侯爵位を継承することになりましたが、ストイクスはこの犯行を弟シレルの仕業とし、政敵となりそうな弟を未然に排除しようと企みます。これによって侯国は2つに割れて争うこととなり、6年の戦いの末にシレル討伐に成功したものの、ストイクスの息子たちは悉く戦死する羽目になりました。
 このためストイクスは、分家の1つであったデュランデ伯爵家から、フィジャールという青年を侯爵家の跡取りとして迎え入れることになります。フィジャールは商人あがりで、元々は伯爵家にも養子に入った男ですが、言葉巧みで策略においても天才的であった彼は、その知謀を持ってこれらの主君に受け入れられ、立身出世の道を歩んできました。そもそもストイクスにシレル討伐を吹き込んだのも、フィジャールがデュランデ伯爵を通じて行ったものです。
 フィジャールが養子となって8年後の聖歴408年、ストイクスは原因不明の病によって急死します。既に高齢であったために誰も疑うことはありませんでしたが、これはフィジャールによる毒殺でした。その後フィジャールは、分家の1つであったルシャンドル家から妻を娶り、一介の商人から遂に侯爵位に登り詰めることとなったのです。そして、彼は政敵となりそうな者を悉く排除してゆき、独裁領主として候国を完全統治することになります。
 フィジャールは結婚の翌年に跡継ぎとして男子を授かり、それから8年の間に3人の娘を得ましたが、誰もがフィジャールの謀略に利用されるものと考えました。しかし、このようなフィジャールの生き方そのものが、後の彼に悲劇をもたらすこととなります。
 長子であるエミリオはわずか8歳にして父の性格を理解し、謀略に利用されないように、そして殺されないように知恵遅れを装うことを思いつきます。このことは母と乳母だけが知る事実でしたが、どのような経路を通じてか、11歳の時に父フィジャールに知られてしまうことになります。フィジャールはこの行為を己に対する背信と捉え、幼い息子を塔に幽閉してしまいます。謀略の限りを尽くした彼は、この頃には身内の者ですら信じられなくなっており、息子が自分を欺いて命を狙うのではないかと考えたのです。
 3年後、母の取りなしによってようやく塔から出されたエミリオは、すぐに政略結婚としてプレジア王国(現カルネア)の侯爵家へと送り出される羽目になります。それから4年経ったある日、エミリオの元に母の死を知らせる手紙が届きました。そして、葬儀に出るために国に戻った時、召使いの口から母の死因が公式の発表とは異なり、父の逆鱗に触れて殺されたのだと知るのです。この時エミリオは父の暗殺を決意し、葬儀の夜に見事これをやり遂げます。これが聖歴428年のことです。
 エミリオはフィジャールの恐怖政治に反発していた家臣の支持を得て、侯爵位を継承することになります。しかし、これを好機と捉えた幾人かの重臣は、この行為をプレジア王国の謀略だとして、まだ政略結婚に利用されていなかった三女ロザリアを擁立して、エミリオに侯爵位の譲位を迫ったのです。これが単なる内部の政争で済めば、これ以降の歴史は大きく変わっていたかもしれません。ですが、実際にプレジア王国が継承争いに干渉しようとしたことで、エミリオは家臣団の信頼を失ってゆきます。この当時のプレジア王国はカルネア西部への進出を果たし、さらなる領土拡大を目指しておりました。プレジアにとって燃料や船舶材料としての木材資源を確保することは重要であり、アルメア進出への好機を逃すつもりはなかったのです。
 プレジア王国の介入によって、政争は武力闘争へと発展することになります。エミリオの下を離れた家臣は多く、当初は劣勢に立たされていたのですが、プレジア王国が直接的な支援を行うようになると拮抗した状態まで盛り返します。この戦いは5年の間続きましたが、聖歴433年に都市国家半島で起こった火山爆発の影響で飢饉が起こると、プレジア王国は一時的に軍を退却させ、物資の援助のみを行うようになります。また、候国内でも民衆の反乱などが相次いだために、いずれの勢力も争いを続けることが出来なくなり、国内の暴動鎮圧に力を注ぐこととなったのです。しかし、聖歴440年代に入って騒動に一段落がついた頃、再びプレジア王国の介入が始まり、内乱が再開されることなります。


▼ウィアノール公国
 ウィアノール公国の混乱は親子間の諍いから始まります。聖歴433年に都市国家半島で起こった火山の爆発後、国内では一時的に飢饉が起こりました。しかし、この時の対応について公爵バオルと息子ポレストの間で意見が食い違い、父に対してポレストが反旗を翻すことになったのです。家臣は幽閉されたバオルを救出し、やがて双方の間で武力衝突が起こるのですが、聖歴436年、王家の仲裁によって2人は和睦します。
 この時の功績によって家臣の発言権が増大して、公爵家は徴税権や不入権を含む幾つかの権限において、家臣団の優位性を認めなければならなくなりました。そのため、まもなく公爵位を継承したポレストの弟シュテファンは、強大になりすぎた家臣勢力の一掃を計ろうと、秘密警察を利用して汚職の濡れ衣を着せて、中心的存在であったレンドラ家の追放を図ります。しかし、このことで家臣の恨みを買ったシュテファンは、近臣の1人であるスイッツァー子爵の不意打ちを受けて命を落とします。子爵はそのまま公国領主の座に収まろうとするのですが、追放されていたポレストが帰還して、かつて自分に味方した家臣と力を合わせて対抗勢力を結集します。また、これとは別にポレストの妹であるティーナ公女を擁立する一族も現れたため、公国は3つの勢力に分かれて争うこととなりました。これが聖歴441年のことです。


 このように、王国内でも影響力の大きい諸侯国内で数々の問題が起こっていた頃、アルメアの混乱に拍車をかける出来事が起こります。聖歴442年、国王オーディルが水難事故で死亡したため、王家直系の血筋が絶えることとなりました。これにより王国では国王の後継者問題が浮かび上がります。
 当時、王家の血を引く家系は3つありました。1つは分家であるバーネット子爵家ですが、王国の宰相職を務めていた国内最有力のシェーンベルグ侯爵と敵対していたために、侯爵家に信頼を置く王家からも疎まれ、王国の要職からは遠ざかって久しい一族です。2つ目はオーディル王の母の実家にあたるウィアノール公爵家ですが、ちょうどこの頃は公国内で相続争いが起こっていた時期であり、公爵家の血を引くポレスト公子とティーナ公女のいずれを推したとしても、王国内が混乱を来すことは目に見えていました。もう1つはオーディルの叔母が嫁いだジルノルマン伯爵家であり、その血を引くビューネ公爵も継承権を持つ存在でした。
 諸侯にとって最も都合がよいのは、ビューネ公爵を王位に就けることでした。かつて公国内で起こった事件から、もともと公爵家の統治能力は問題視されておりましたし、まだ16歳の少女であることから、後見人となれば王国を我がものとして動かせる可能性もあるわけです。また、王権が弱体化していたことと、各地で内乱が相次いでいたことも好都合といえる状況で、この機に乗じて王の名において国内平定に乗り出し、中央集権体制を作り上げることも決して夢ではなかったのです。
 いち早く自らの立場を決めたのは宰相のシェーンベルグ侯爵で、将来的に自らの傀儡とする目的で、王家の旧臣とともにビューネ公爵を擁立しました。これに敵対したのがバーネット子爵を中心とする諸侯連合で、王国の要職から遠ざけられていた諸侯が子爵の下に集まりました。これらとは別に、ウィアノール公国ではポレスト公子派とティーナ公女派がそれぞれ継承権を主張し、諸侯を自派へと引き込もうとします。各派閥による政争はやがて武力闘争へと発展し、飢饉の影響からようやく立ち直った国内は、再び暗黒の中へと突き落とされることになります。この継承戦争に加えて、エクストゥス公国の公爵派とポテンシャ侯国のエミリオ派は、双方がプレジア王国と関係することから、同盟を結んで周辺勢力から身を守ろうとしました。
 プレジア王国の干渉も含めて、国内状況は混乱の極みに達した頃、状況に大きな変化が現れます。この時はビューネ派が優勢に戦いを進めていたのですが、シェーンベルグ侯爵がビューネと息子カーディアスを結婚させようと目論んだことから、派閥内の結束に亀裂が入り始めます。しかし、何より大きな影響を与えたのは、伯爵に扮したロシェルの心に対してでした。彼は娘のビューネが、文官であり家庭教師でもあるフォガット男爵を慕っていることに気づいており、この2人の境遇に自らの過去を重ね合わせて苦悩していたのです。戦いが長引き、迷う時間が与えられるほど彼は葛藤を繰り返し、過去の記憶に苦しめられました。そして侯爵への回答期限の2日前、遂に彼は1つの結論を出しました。
 ビューネ派の諸侯が集う中、ロシェルは自ら仮面を外して正体を明かし、ビューネに王家の血が流れていないことを告白します。シェーンベルグ侯爵はこの事実を外部に隠し通そうとしましたが、ビューネ派を離反する諸侯が相次いで現われ、まもなく国内に真実が知れ渡ることとなりました。侯爵は自らの立場を守るために、ロシェルおよびビューネを王家僭称の罪で処刑しようとしますが、城を包囲した時には既にロシェルは自害しており、ビューネおよびフォガット男爵は逃がされた後でした。
 これによって最大勢力であるビューネ派は瓦解し、3年の戦いの後にバーネット子爵派が勝利を収めることになります。そして聖歴447年、バーネット朝アルメア王国が誕生することとなりました。この時、余力を残していたプレジア王国を退却させるため、王家はポテンシャ候国の一部を割譲し、ポテンシャ侯国のエミリオとエクストゥス公国のリディアス公爵家の亡命を見逃しました。王家はその代償として不可侵条約を取り交わすことに成功し、現カルネアとアルメアの国境が正式に確定することになります。
 その後、国内では大きな粛正が起こり、大規模な領地替えが行われました。ポレスト公子とティーナ公女は後顧の憂いを断つために処刑され、ウィアノール公爵家は断絶することとなります。このように消えてゆく家系もある一方で、獅子奮迅の活躍を見せたキャリバール侯爵家のように、公爵位を与えられて領地を倍以上に増やす家もありました。


○王国再建(聖歴447年〜現在)

 その後、初代国王ファリーによって新たな国家制度が構築されます。これにより、再度の国家分裂を防ぐための方策として、国家を王都と7つの地方に分割して、それぞれに守護職を置いて地方を監視させる制度を作られました。この他にも、巡察使制度など地方反乱を防ぐための制度が幾つか設けられ、王家は大きな権力を持って地方を統治しておりましたが、いずれも時代が過ぎて王権が弱体化するとともに有名無実化することになります。というのも、これより後のアルメアでは公国同士の争いが起こることはなく、国外勢力の干渉を受けることもなかったからです。つまり王家は臣属する諸侯に恩賞を与える機会も、軍事同盟の盟主として領邦国家を主導することもなく、自ずとその地位は下がる一方となったのです。
 聖歴656年にはバーネット朝が断絶して、新たにブランメルリージュ朝へと移っておりますが、この際には貴族による選挙によって王が選出されるという、極めて平和的な手法が採られています。しかし、争いがないのは人々にとって歓迎すべきことであり、今でも伝統的な貴族制度を続けているにもかかわらず、この国では民衆から不満が聞かれることは殆どありません。また、聖母教会における布教の重要拠点であるこの国は、軍事国家の多いエルモア北西部の緩衝地帯となっていることも事実です。このように現在のアルメアは、様々な意味でエルモア地方の平和の象徴と呼べる存在といえるのです。


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