略史
現セルセティアに住むセル人は、前聖歴345年に中央地方から移住してきた民族です。その後、この場所には前聖歴200年頃にセティア人(出所不明)が移住を開始します。両民族は前聖歴152年にフィアン王国(現ソファイア)に征服されますが、聖歴8年にはベルメック王国(現ロンデニア)の助力を得て独立を果たし、聖歴11年に民族混合のハラーシュ連邦国が建国されます。しかし、両民族は習慣や宗教の違いがもとで対立を繰り返し、聖歴34年には北島全域と南島の一部にセル人のルバイオ王国が、残る地域にはセティア人のティヤンセン王国が成立します。その後、聖歴140年にティヤンセン王国の一部が独立し、ベルナール王国を建国します。ティヤンセン王国はベルナール王国への進軍を開始しますが、ルバイオ王国がベルナール王国を支援したため、ティヤンセン王国は滅亡することとなりました。
聖歴200年代に入ると、ベルナール王国がソファイアと結んだため、沿岸部には商業都市が幾つも誕生し、海上貿易を通じて発展してゆきました。しかし、これらの都市で反乱が起こるようになり、ラガン帝国の介入で幾つかの都市が独立を果たします。そのため、ベルナール王国はこれら都市に対する武力制圧を試みますが、独立都市の擁護という名目でラガン帝国が侵攻を開始しました。これには同盟国家であるルバイオ王国も参戦し、ソファイアの支援を受けてベルナール王国とともに海戦を繰り広げます。ラガンの兵力は圧倒的でしたが、海魔現象と呼ばれる変異現象によって多数の死亡者を出したため、大規模な戦いとはなりませんでした。これよりしばらくの間、セルセティア本土は他国の影響を受けることなく、アリアナ海貿易やペルソニア貿易の中継基地として繁栄してゆくことになります。
聖歴340年代に入ると、ルバイオ王国の王子クルヴァによる王位の簒奪が行われ、内戦が勃発します。結局、聖歴354年にはクルヴァが暗殺されて騒動は収まりますが、ルバイオ王国の衰退によりベルナール王国が領土を拡大してゆきます。しかし、聖歴386年の大火によりベルナール王都の大半が消失すると、その再建のために都市にも重税が課されるようになり、都市が王国から離反するようになります。政府がこれを力で押さえつけようとすると、都市のみならず地方豪農や領主との間に不和を生むことになり、やがて有力諸侯を中心とした反乱が立て続けに起こりました。内紛の影響はルバイオ王国にまで及び、聖歴450年代までのセルセティア全土は分裂状態が続きます。
しかし、国外勢力による干渉が行われるようになると、統一派と呼ばれる諸侯を中心に両国の貴族が結束してゆきます。そして、それぞれの王朝の最大勢力であるペジュクル侯爵とファーマソン公爵が手を握り、聖歴532年、統一王国グランゴールが誕生することになります。聖歴553年からはラガン帝国の侵攻がありましたが、これを阻んで統一された国家としての意識を高めます。こうして、聖歴560年代の中頃には連邦制による支配体制が完全に整い、ユノスと結んでアリアナ海貿易で活躍するようになるのですが、その後ユノスと不和になると海上での力を失ってゆきます。また、聖歴603年になるとアリアナ海の交易問題でメルリィナ王国と争います。この時はソファイアが味方についたのですが、メルリィナがルワールおよびロンデニアと同盟を結んだことで戦いに破れ、グランゴールは衰退の道を辿ることになります。
やがて各領邦国家が独自に交易をはじめ、各国との混血が進んだり異国文化が流入したために、国家としての統一意識が少しずつ失われてゆきました。しかし、青年ゴール党と呼ばれる組織を中心に国家の再統一を目指す運動が始まり、聖歴673年には南島の南西部一帯でセルセティア同盟が結ばれ、聖歴687年には遂にグラン・セルセティア(統一セルセティア)が発足されます。
ですが、性急な制度改革に伴う問題が様々な場面で起こり、中央政府を離れる自治体が続出したため、地方勢力は再び領邦国家としての体裁を取り戻してゆくことになります。こうして国内は暫し混乱の時期を迎えますが、統一セルセティアの衰退と前後して南部で革命が起こり、聖歴727年にセルセティア王国を名乗る勢力が、南島の西部から中北部までを武力によって統合します。そして聖歴740年代には北島への侵攻を開始して、全国土の4/5までを支配するに至るのですが、王国は宗教問題に抵触したことから崩壊を迎え、聖歴755年に起こった革命で滅亡することとなりました。
強力な統治者を失った後、セルセティア内部は再び大きな混乱に陥り、全土に幾つもの政体が乱立します。これらを収めたのは青年ゴール党から分派した新ゴール派という政治集団で、彼らの手によってセルセティア連邦が発足されました。しかしその努力は報われず、新たにラハト派の大神官となったグレン=グラブドゥが国政改革を唱えるようになると、民意は分裂に向けて一気に加速してゆきます。彼は21年前の聖歴768年、戒律を非常に厳しいものに改定し、民衆の生活にも直接干渉するようになりました。そして、これに反発したセティア人とラハト派側についたセル人の間に亀裂が生じ、ついに全土で両民族の衝突が起きることとなりました。この内戦は現在もまだ継続中で、多人数のセティア人に対して、セル人が独立戦争を仕掛けている形になっています。
◆セルセティア年表
前聖歴 出来事 345年〜 中央地方のパルファ国より逃亡したセル人が、現セルセティアの地に移住を開始する。 200年〜 セティア人(出所不明)が現セルセティアの地に移住を開始する。 152年〜 フィアン王国によりセルセティアが征服される。この時、セティア人の一部が現ユノスの地に移住する。 聖歴 出来事 3〜7年 フィアン王家が断絶し、本国で継承権を巡る内乱が勃発する。その後、王家の傍系となるウェルシャン家の長子がタイレル1世として即位し、国名もソファイアに改められる。 8年 本国ソファイアに対する反乱が起こり、セル人とセティア人の連合は独立を勝ち取る。反乱軍にはベルメック王国(現ロンデニア)が加担。 11年 民族混合のハラーシュ連邦国が建国される。 34年 両民族の対立により国家の分割が行われ、北方にセル人のルバイオ王国が、南方にはセティア人のティヤンセン王国が成立する。 140年 ティヤンセン王国からベルナール王国が独立する。 142年 ティヤンセン王国とベルナール王国が戦う。この時、ルバイオ王国がベルナール側に味方したため、ティヤンセンは破れ滅亡する。 170年〜 ラガン帝国の侵攻によりリーツェン諸島を奪われるが、本土への侵攻は阻止する。 329年 ラガン帝国による侵攻が起こるが、海魔現象と呼ばれる変異現象が起こり、ラガン帝国は多数の死亡者を出して撤退する。 330年〜 ルバイオ王国でクルヴァ王子による王位の簒奪が起こる。 354年 クルヴァの暗殺により、ルバイオ王国の王朝が交替する。 386年 大火によりベルナール王都の大半が消失。 450年〜 セルセティア沿岸部に植民都市を持っていたソファイアと、ルバイオ・リスファリアの連合軍が争う。破れたソファイアは植民都市から撤退する。 532年 ルバイオ・ベルナール両国の最大勢力であるペジュクル侯爵とファーマソン公爵が手を握り、統一王国グランルゴールを建国する。 553年〜 ラガン帝国による2度の侵攻を退ける。 603年 ソファイアと結んでセルセティアとメルリィナ王国と戦う。しかし、メルリィナにルワールとロンデニアが味方したことで敗北。 620年〜 ラガン帝国の侵攻を退ける。この時ソファイアの支援を受けるが、条件として開港を求められる。これがきっかけで領邦国家が独自に国外勢力と結ぶようになり、国家の統一性が失われる。 673年 南部で統一国家の構築を目指したセルセティア同盟が結ばれる。 687年 統一国家としてグラン・セルセティアが建国される。 727年 南部でセルセティア王国が建国され、ロンデニアの支援を受けてグラン・セルセティア領へと侵攻を開始する。 740年〜 セルセティア王国が北島まで領土を拡大し、全国土の4/5ほどを支配する。 755年 革命によりセルセティア王国が滅亡する。 761年 セルセティア連邦が結成される。 768年 セル人中心による北方同盟が結成され、セティア人との間に内戦が勃発する。
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詳細史
○移民国家(〜聖歴11年)
現セルセティアに住む黄人系民族セル人は、中央地方に前聖歴792年に建国されたパルファ国の住民でした。しかし、パルファはマステュス人という民族の反乱によって滅亡し、彼らによってラガン帝国が誕生することになります。パルファより逃亡したセル人は、前聖歴345年に現セルセティアの地へ移住し、部族を主体とした幾つもの村落を形成します。その後、この場所には前聖歴200年頃にセティア人(出所不明)が移住を開始します。
2つの民族は文化や風習が違っていましたが、この頃は人口も少なく住み分けができていたので、民族間の衝突はほとんどありませんでした。2つの民族を結びつけたのは、前聖歴152年にフィアン王国(現ソファイア)に征服されるという事件です。これによってセル人とセティア人は急速に接近し、混血も進むようになりました。なお両民族の混血民は、現在はグラズム人と呼ばれています。
フィアンは沿岸部に多数の植民都市の形成し、アリアナ海貿易やラガン帝国に対する前線基地として港を利用し、海上での発展を遂げてゆきました。しかし、聖歴3年になるとフィアン王家は断絶し、外戚とその他有力諸侯たちによる内乱が勃発します。この内乱は聖母教会の介入により思いがけず短期間で終結し、聖歴7年には王家の傍系となるウェルシャン家の長子がタイレル1世として即位することになります。そして、国名もソファイアに改められました。
こうして内乱を収めたものの、ソファイアはこれが原因で国外に大きな隙をつくることとなり、セルセティアに対する監視も緩くなります。そして聖歴8年、両民族の協力体制によってフィアン軍を追い出すことに成功し、聖歴11年には民族混合のハラーシュ連邦国が建国されます。なお、この独立が成功したのは両民族の団結ばかりではなく、セルセティアをペルソニア大陸侵攻への中継基地にしようと考えた、ベルメック王国(現ロンデニア)の助力があったためです。
○第一分割時代(聖歴11年〜150年)
このように独立に向けて手を携えた両民族ですが、後に民族同士の衝突が激しくなってゆきます。連邦国は部族代表による会議で政策を決定しておりましたが、建国当初はうまくいっていたこの制度も、やがて双方の流儀の違いで些細な諍いを起こしたり、会議が不要に長引くようなことが度々起こるようになったのです。何より、セル人がマイエル教を信仰しているのに対して、セティア人の殆どの部族は聖母教会を信仰しており、この宗教の違いが大きな壁となって双方の間に立ちはだかり、両民族は対立を深めてゆきました。
このため、聖歴34年には早くも民族の分割が行われ、北島全域と南島の一部にセル人のルバイオ王国が、残る地域にはセティア人のティヤンセン王国が成立します。両王国は軍事同盟を結ぶ対等の関係であり、相互不可侵を遵守したまま互いの内政には干渉しないよう条約を定めておりました。条約の更新は毎年行われ、問題が起こればその都度改正を繰り返し、相互の間に争いが起こらないように努めました。また、これとは別に半年毎に高等評議会と呼ばれる両国の全部族長による会議を開催して、それぞれの不満を小出しにして友好関係を維持してゆきました。というのは、この時期には既にロンデニアは現ユノス南部の地を失っており、両国家は他に大きな後ろ盾を持たなかったからです。彼らがラガン、ソファイアといった強国に対抗するためには、民族の垣根を越えた結束が必要だったのです。
しかし、聖歴130年代になると状況に変化が起こります。もともと各々の評議会で選ばれていたティヤンセン王(セティア人)ですが、クレナ族のレパード王がこれを世襲にしようとして、幾つかの部族を味方にして強引にこれを議会で通してしまったことから、部族間に不和が生まれるようになるのです。対外軍事活動に関しては同盟を結んでいたものの、互いの内政に関しては不可侵を貫いていた両王国でしたから、ルバイオ王国はこれに口を出すことはしませんでした。もしこれがルバイオ王国の乱であれば、彼の試みが成功することはなかったでしょう。なぜなら、ルバイオ王はマイエル教によって正統性を保っていたため、その承認なしでは王と認められなかったからです。これに対して聖母教会は王家の権威付けをしなかったので、ティヤンセン王の立場はあくまでも部族の代表でしかありませんでした。
クレナ族の策略に対して、同じくセティア民族系のルブリス族とエルゾナ族、そして差別的待遇を受けていたグラズム人(セル人とセティア人の混血)が手を組み、聖歴140年、南部一帯に新たにベルナール王国を建国します。ティヤンセン王国はルバイオ王国に対して支援要請を行い、ベルナール王国の討伐に出ようとするのですが、ルバイオ王国は一連の騒動を内政問題として片づけ、一切の要請を断ります。このために、ティヤンセン王国はルバイオ王国に対して怒り、聖歴141年に入ってすぐに同盟を解消してしまうのです。
この翌年の聖歴142年、ティヤンセン王国はベルナール王国への進軍を開始しますが、ルバイオ王国はベルナール王国の要請を受けて、この争いに参戦します。もとより大規模な穀倉地帯を欲していたルバイオ王国は、大河ヤハトの流域に広がる肥沃な土地を得る機会を逃したくなかったのです。こうして両国の挟撃によってティヤンセン王国は倒れ、ベルナール王国とルバイオ王国は旧ティヤンセン領を分割統治することになったのです。
なおこれと同時期に、王権から逃れるために東島ガムランルートへと移動した幾つかの部族が、寡頭有力者による共和制政体を作り上げております。政体といっても千人にも満たない人数であり、集落が幾つか出来た程度ですが、独立した存在として両国とは別の道を歩むようになりました。
○ラガン帝国の侵攻(聖歴150年〜329年)
その後、聖歴170年代の後半になると、ペルソニア侵攻を果たしたラガン帝国が、アリアナ海貿易の中継基地を得る目的で3度の攻撃をしかけ、東のリーツェン諸島を奪われることになります。しかしこの侵攻の後、ベルナール王国は次の進入に備えて、東海岸域に150kmにも及ぶ防壁を築き上げ、本土への侵攻は辛うじてルバイオ・ベルナールの両王国の同盟軍によって阻まれることになるのです。なお、先に独立を果たしたガムランルートの住人は、ラガン帝国に抵抗することなく港を明け渡し、その代わりに自治権を守り通しました。しかし、そのために長く裏切り者として扱われ、現在のセルセティアでもこの地方出身者は、あまりいい目では見られないようです。
聖歴200年代に入ると、ルバイオ王国は両国の結束を強めるための婚姻を申し出ますが、ベルナール王国は宗教上の理由からこれを断り、ペルソニアへの進出を狙うソファイアと手を結びます。これによってベルナール王国沿岸部には商業都市が幾つも誕生し、海上貿易を通じて発展してゆきました。やがて領主貴族がこれら都市に様々な税と規制をかけて私服を肥やすようになると、都市は王に直接帰属することで自治権を得ようとします。王は直接朝貢として税を得ることから、領主貴族の反発を力で押さえつけて、商業都市の自治を認めてしまいます。こうして自治権を得た都市は、事実上独立した都市国家として振る舞い、貿易を通じて大いに繁栄することになります。しかし、自治都市の時代が続くようになると、貴族化した都市の上層市民と市民の対立が起こり、一部の都市で大規模な反乱が起こるようになるのです。この際、ラガン帝国が都市市民の抵抗運動に力を貸したために、聖歴320年代には東部のラムエミュラ地方に幾つかの共和制政体が生まれました。
ベルナール王国はこの独立を許さず、これら都市に対して武力による制圧を試みますが、独立都市の擁護という名目で聖歴329年にラガン帝国が侵攻を開始しました。それまで傍観を決め込んでいたルバイオ王国ですが、ラガンの侵攻に対しては同盟国家として参戦します。ラガン帝国の兵力は圧倒的でしたが、海魔現象と呼ばれる変異現象によってラガンは多数の死亡者を出したため、大規模な戦いとはなりませんでした。これよりしばらくの間、セルセティア本土は他国の影響を受けることなく、アリアナ海貿易やペルソニア貿易の中継基地として繁栄してゆくことになります。
○ルバイオ王国の内戦(聖歴329年〜354年)
聖歴330年代に入るとルバイオ王国で内戦が勃発します。ラガンとの戦いでは、ルバイオ王国のクルヴァ王子が活躍し、南北島の海峡に浮かぶラヴァール島などの領地を得ましたが、彼は戦いのみを好む性質で政治的には無能だったために、王位を継ぐことは出来ませんでした。この頃、既に王位の相続は世襲化されており、国王にその指名権が与えられていたのですが、当時の王リュパムは溺愛していた弟王子のディムランに王位を譲り渡すことを宣言します。
しかし、配下のドパルデュナ伯爵がクルヴァ王子をそそのかしたために、彼は王の不在中に弟ディムランを毒殺し、慌てて帰還した父王を捕らえて王位を簒奪します。王の近臣やマイエル教(マロスク派)の大神官たちは、この即位を不服としてクルヴァと戦うことを決め、直ちに軍勢を集めて王都へと進軍を開始します。これに対してクルヴァは直ちに王都周辺に防塁を築くと、王都守護隊とは別に兵士を揃えてマロスク派の本山攻略に着手します。
クルヴァは捕虜の虐殺や聖職者を人質に取るなど、相手の戦意を削ぐような心理作戦を好んで繰り返しました。また、自国兵士への恩賞の増加や、訓練された兵士による精鋭部隊の構築などに着手し、自軍の強化を行います。平民でも戦功をあげれば騎士や幕僚に昇格できたので、特に農民の次男や三男はこぞって王子の軍に参加しました。また、領地を継承できない貴族の第二子以下の者や、立場の弱い地方の豪農たちもまた、同じように功績をあげるべく戦争に身を投じてゆくことになります。
クルヴァが従えた英雄たちは、彼の手足となって動く忠実な軍の中核を担い、次々と勝利を重ねてゆきました。しかし、このように立身出世を志す者の支持を得たものの、これは彼の王権がマイエル教に支えられたものではなく、非常に脆弱な基盤しかもたないことからの苦肉の策でしかありません。もともと土地を持つ者からの支持が薄かったのはもちろん、クルヴァは信仰心の篤い者にとって聖域を汚す敵でしかありませんでした。
このような事情から、王の座を維持するためには絶対的な力と勝利が必要であり、クルヴァに敗北は許されませんでしたし、自分に対する反逆者の存在を認めるわけにもゆかなかったのです。しかし、クルヴァはあくまでも戦場での勇者であり、政治家としての才はまるで持ち合わせておりませんでした。にもかかわらず、彼は軍人としての能力を持つ者のみを重用し、文官を小賢しい臆病者と考えて一切信用せず、近くに置くことをしませんでした。そのため、彼は占領地どころか自領地の統治さえ満足に出来ず、やがて戦勝で得た土地を持て余すようになるのです。
この戦いの混乱のうちに、クルヴァや王家に愛想をつかした家臣は王国を離れ、地方で独自の政治を営むようになります。そして秩序の破壊者としての彼は、ルバイオ王国の貴族のみならず、ベルナール王国の貴族からも疎まれるようになるのです。なお、この時にルバイオ王国から離反してベルナール王国へと臣属した土地では、聖母教会がマイエル教の影響を受けて独自の様式で発展することになります。
国家体制が崩れて徐々に劣勢になると、クルヴァは錯乱気味になり、幕僚の粛正などが頻繁に行われるようになります。特に文官に対する仕打ちはひどく、自らの過ちを部下のせいにして残虐な手段で刑に処したりしたようです。これによって彼は部下の忠誠心さえ失い、粛正に対する恐怖のみが軍を支える規律となりました。その後、これを恐れてクルヴァの下を離れる諸侯が続出したため、彼は支配地の一部を他国へ売却することで戦費を賄おうとします。しかし、ここに至ってはベルナール王国もクルヴァを敵国とみなさずには居られなくなり、同盟の破棄を宣言して3年のうちに首都を攻撃するまでにこぎ着けます。それからは籠城戦へと突入し、1か月ほど王城の包囲が続いたのですが、クルヴァの首と引き替えに延命を図ろうとした味方による暗殺で、この戦いは終結することになります。
こうして聖歴354年、ルバイオ王国の王朝が交替して、領邦国家の代表らによる評議会によって王が選ばれるという方式が採択されます。マイエル教はこの戦に貢献したため、評議会にはマイエル教の聖職者も加入するようになりました。なお、最後までクルヴァに従った者の中には、王国の壊滅後に東部山中に逃げ込み、追っ手を逃れて密かに隠れ住んだ一団がおりました。彼らの子孫は聖歴600年代になるまで、その地で独自の文化を育みながら生活していたようです。
○ベルナール王国の衰退(聖歴354年〜400年)
その後のルバイオ王国は、乱れた国内を立て直すために時間と資金を費やし、長い低迷期を迎えることとなりました。一方のベルナール王国は、当時ラガン帝国がアニスカグナ地方のイルヌ王国との戦いを開始したことも幸いして、ソファイアと通じてアリアナ海やペルソニア貿易で利益を上げて、順調に国力を上げてゆきます。
両国の国力には圧倒的な差があったため、ベルナール王国は乱れた国内を治める力を持たないルバイオ王国に代わって、クルヴァ討伐によって得た地域や離反した地域の再統治に力を貸し、自らも領土を拡張することになります。この頃の貴族の関心は、民族混合の地(南島の北部域)での分割について、どれだけ領土を得られるかといったところに焦点が置かれておりました。しかし、この領土争いが激しくなると地方への監視の目が甘くなり、やがて西海岸部の都市勢力が台頭することになります。
特に、イグナッツァ地方にあったビトゥン市とビンダー市の台頭が顕著で、両市が合併してビトゥン=ビンダー市となった頃には王都を凌ぐ人口が集まり、国家で最も発展した地域に成長しておりました。彼らは戦いで傷ついた都市の再建で活躍し、資材や食料の売買で多額の収益を上げました。やがて、ソファイアから親善大使として訪れていたピエダーテ=バロッソが、この地方の開発計画に力を貸すようになると、この地域とソファイアの結びつきが特に強くなり、ソファイアの力を後ろ盾として更なる発展を遂げるようになります。ピエダーテは市に難民を受け入れるよう説得し、彼らに土地を開墾させることで、都市を支える耕作地帯を得ることに成功しました。やがてこの都市は伐木、製塩、開墾など、商業以外の分野でも発展してゆき、やがてこの地方一帯の警備を請け負うようになります。
その後、聖歴386年の大火によりベルナール王都の大半が消失すると、その再建のために都市にも重税が課されるようになりました。これによって商業は不振となり、文化も衰退して交易を生業としていた都市は没落してゆきます。こうした中、生き残った都市は周辺地域と協力して地方での自給自足体制へと移行し、国家を離れて活動するようになるのです。
政府はこれを許さず、地方を力で押さえつけようとします。しかし、これは都市のみならず地方豪農や領主との間に不和を生むことになり、やがて有力諸侯を中心とした反乱が立て続けに起こりました。また、イグナッツァ地方では都市が同盟を結んで、積極的に王権への反抗を試みました。こうして王国は弱体化してゆくのですが、崩壊にまで至ることはありませんでした。ですが、辛うじて国家としての体裁を整えるだけで、中央政府に国家をまとめる力がないことは誰の目にも明らかとなっておりました。
○国外勢力の干渉(聖歴400年〜530年)
ベルナール内紛の影響はルバイオ王国にまで及び、復興途上の国家は再び大きく乱れることになるのです。その後、聖歴450年代までのセルセティア全土は分裂状態にあり、諸侯領の殆どが半ば独立した部族国家として存在するようになります。この間、自国の領民を失うまいとした領主は移動の制限を行ったため、自由農民が農奴へと没落します。また、各領主は自らの領地へと都市を取り込むために、独自に都市への特権を授与して勢力の拡大に努めました。この勢力拡大争いは地方領同士の戦いへと発展し、領土保持のためにも軍備に過剰な力を注ぐようになります。
この間、西部の貿易都市はアリアナ海で隆盛を誇っていたソファイアの植民都市のような状態になり、王権を完全に無視して自治を行うようになりました。やがてソファイアは防壁や砲台を築いて、これら都市を要塞として扱い、ペルソニア貿易の航路を確保するための重要な拠点とします。
このような国外勢力の干渉に対して、王や諸侯は何も為すことが出来ず、自領地を守るのが精一杯の状況にありました。しかし、ペルソニア進出を目論むエリスファリアが、王権の保護と称してルバイオ王国を支援するようになると、聖歴450年代には王家を中心とする諸侯と西部都市との争いに発展してゆきます。この戦いにはエリスファリアの支援を受けたルバイオ王国が勝利し、ソファイアはこれら植民都市から撤退することになります。
しかし、これはソファイアからエリスファリアに支配者が移っただけに過ぎず、逆に北部の港湾都市やラヴァール島まで奪われ、他国に対抗するための前線基地とされてしまいました。そして、ラヴァール島のハラリート市には総督府が置かれて、要塞のごとき趣を呈するようになるのです。これについて他国が殆ど干渉しなかったのは、当時ラガン帝国の凋落によって、アリアナ海の南海域では海賊が頻繁に出没するようになったという事情があります。エリスファリアはアリアナ海の守護者として、海域の警備に当たるという名目でセルセティアに駐留していたのですが、これについては同じくアリアナ海で貿易を行っていた他国の承認も得ていたようです。その条件として、他国もこの地の港を利用することをエリスファリアに認めさせていたので、エリスファリアが関税等で特例措置を受けてはおりましたが、互いに諍いを起こすこともありませんでした。
やがて、この植民都市化は南部にも及ぶようになり、多くの港に他国の船が停泊するようになります。植民都市は当然のことながら多民族の住人が居住しており、この時代は国外との人種の混血が頻繁に行われました。また、国外からの移民の流入によって、マイエル教と聖母教会との混合もさらに進んでゆくのです。
このような状態をよしとしなかった全土の貴族は、統一派と呼ばれる諸侯を中心に結束してゆきます。エリスファリアの駐留隊はこれら統一派の動きを警戒して、陸上にも要塞を建設し始めるのですが、本国において聖歴510年に始まるラグの復讐海戦と呼ばれる戦いと、それに繋がる貴族戦争と呼ばれる諸侯同士の争いが起こり、本国へと引き上げることになります。
これはセルセティアの貴族階級にとってはありがたい出来事でしたが、エリスファリアは支配者のような立場にあっても、自治権を奪ったり重税をかけたりすることはなかったので、実際に支配下にあった都市にとっては、エリスファリアの退却は望ましいものではありませんでした。そのため、植民都市は新たな後ろ盾を必要とし、国内問題を処理して再び南海で台頭してきたロンデニアと手を結ぶようになります。しかし、ロンデニア内で内戦が起こったために、彼らもまた聖歴520年代に入ると本国へと撤退してしまうのです。
ロンデニアが退却したとはいえ、常に他国の侵略を警戒しなければならない諸侯は、互いに協力しなければならないことを認識するようになります。こうして国内の意識は統一に向かいはじめ、沿岸部に近い領地を中心として新たに同盟を締結し、相互に軍事的支援を行うことを約束します。後ろ盾を失った植民都市もまた、王権に反発したままではありますが、そのままでは身を守ることができないため、統一派の掲げる国家建設に加担することになります。これには先の2国があっさり植民都市を見捨てたために、国外は信用できないという認識が植え付けられたことと、地方諸侯による占領や山賊・海賊による略奪で壊滅した商業都市があったことも関係しています。
○統一王国グランゴールの成立(聖歴530年〜603年)
その後、再び国内は部族同士の結びつきが強くなりますが、王家はこれら諸侯の同盟締結を好ましく思っておりませんでした。ルバイオ、ベルナール両国の王権は弱体化したままでしたが、再び国外の助けを得て力を取り戻さないとは限らないため、それぞれの王朝の最大勢力であるペジュクル侯爵とファーマソン公爵が手を握り、セルセティア全域の統一を目指そうとします。それぞれの王はこの動きを押さえきることが出来ず、統一派の諸侯とこれに加担した有力家系によって、聖歴532年、統一王国が誕生することになります。
しかし、宗教問題に抵触すると各方面から大きな反発が起こったため、政府は宗教的に寛容な政策を取らざるを得なくなります。そして、特定の宗教や部族ごとの土地区分を管区として分割する制度が提唱され、統一王朝は中央集権ではなく連邦制を基盤とする国家として構築されてゆきます。その後も独自路線を貫こうとする混血民族たちを内部に取り込む必要が生じたり、都市の利益を確保するために関税を緩和するなど、王朝は当初の理想からは離れた妥協的政策を繰り返します。また、国名も内部不和を避けるためにいずれの民族名をも含めず、統合国家を指す言葉であったグランゴールの名を用いることになるのです。
このように様々な苦労はありましたが、統一から10年の時間をかけて諸制度は徐々に固まってゆきました。そして、最終的には主な民族の居住地域別に領邦国家に分かれ、各国の代表が議会を作って国を治めるという方策が採られます。この議会は統一派と各邦の代表者で構成されており、自治都市代表も議員として含まれることとなりました。これには反発する諸侯も多かったのですが、統一国家グランゴールはこれら反対勢力の意見を数の力で押さえ込んで、国家としての統一を果たしてゆきます。
聖歴553年からはラガン帝国の侵攻がありましたが、2度の侵攻を食い止めて統一された国家としての意識を高めます。聖歴558年になると、ラガン帝国では王朝の交替に伴う内乱が起こり、3度目の侵攻は行われませんでした。こうして、聖歴560年代の中頃には連邦制による支配体制が完全に整い、聖歴570年代には聖ユノス王国と手を組んで、メルリィナやルクレイドといった国の混乱に乗じて、再びアリアナ海貿易などで活躍するようになるのです。
しかし、その後ユノスと不和になると、グランゴールは海上での力を徐々に失ってゆきます。また、聖歴603年になるとアリアナ海の交易問題でメルリィナ王国と争い、ソファイアが味方についたことで優位に戦いを進めるようになりますが、メルリィナは長年敵対していたルワール大公国と同盟を結び、ソファイア・グランゴールの連合軍と互角の戦いを繰り広げるようになります。そして、最終的にロンデニアが敵に回ったことで戦局は逆転し、グランゴールは海上の要衝に位置しながら衰退の道を辿ることになります。
○統一セルセティアの誕生(聖歴603年〜687年)
その後、貿易都市が再び独自に国外勢力と結びつこうとしたため、中央政府が海洋の交易権を完全に握り、国家の許可状のない交易船を港から閉め出すという、半鎖国策を打ち出すようになります。聖歴620年代になると再びラガン帝国が侵攻を開始し、この対応に追われることになりますが、この時はソファイアが味方になってこれを撃退します。しかし、その代替条件として開港を求められることになり、沿岸の都市は再び中継貿易港として力を取り戻してゆきます。
王朝が恐れたように、この事件をきっかけにそれぞれの邦国が独自に交易をはじめ、各国との混血が進んだり異国文化が流入したために、国家としての統一意識が少しずつ失われてゆくようになりました。そのため、再び1つの国家としての意識の確立が望まれるようになり、民族や宗教によらない新しい概念による統治を目指す集団が誕生します。彼らの中核を為す組織は青年ゴール党と呼ばれており、特定の人種や所属に偏らない構成の、知識人階級を主体とした政治集団でした。この中心となったがマイリーエ=カーテリスという人物で、彼はロンデニア人とセティア人の混血であったといいます。マイリーエはやがて、南島西部の貿易都市であるベルジィフ代表となり、グランゴールの国家議会でも統一政策を強く提唱するようになるのです。
なお、青年ゴール党の影響によって、この時期は政治的結社が幾つも結成されています。このうちの1つであり、暗殺などを生業としていた過激な黄金の蹄党は、青年ゴール党の影の組織であり、政敵を抹殺するために生まれたという噂もあります。また、この組織は現在も暗殺ギルドの1つとして生き残っていると考えられています。
彼らは住民を宗教や民族によって分類差別するのではなく、統一国家という枠組みによるナショナリズムの意識を民衆に植え付け、中央政府主導の国家統治を実現させようと活動を続けました。そして、大多数を占めるセル人とセティア人の融合という意識を強く喧伝するために、セルセティアという名称を用いて、両民族の心を改革に向けようと試みます。そのため、これら一連の思想を現在では汎セルセティア主義と呼んでいます。
従来の連邦国家の概念を放棄させるには、領邦国家における支配者という意識や、農奴たちの思想を根底から覆す必要がありました。ベルジィフ市から起こったこの運動は、最初10年のうちは西部のごく一部の地域にしか広まらず、逆に周辺国の武力干渉を呼ぶことになるのです。しかし、民族共和を掲げたマイリーエの活動はやがて都市市民や農民の間で実を結ぶことになり、聖歴673年には南島の南西部一帯でセルセティア同盟が結ばれることになります。そして他の領邦国家との戦いや暗殺、民衆の反乱などを経て、聖歴687年にグラン・セルセティア(統一セルセティア)の発足へとこぎ着けることになるのです。
○統一セルセティア時代(聖歴687年〜704年)
しかし、統一政府は既存の権力構造を守れるかという貴族たちの不安に対処しなければならず、改革は最初の段階で躓くことになります。まず、国家代表は領主貴族と地域代表から構成される議会によって選ばれることになったのですが、選挙権について論争が起こりました。統一セルセティアの領地区分では、これまで政治的権限のなかった地域や被差別的扱いを受けていた民族にまで、地域代表を出す権限が与えられました。旧支配者層にとってこれは我慢ならないことでしたが、民族共和を掲げて建国した以上、政府は被差別民の独立を望む声にも対応せざるを得ませんでした。やがて、これら混血民たちの都市がサントッツァ地方北部に誕生し、この地域に被差別民を集めることで諸侯の不満を和らげます。
その後、暫定政権を解散して改めて国家代表を選出することになりますが、中心指導者であったマイリーエが前々年に死去していたため、その弟子クレイル=バルシーロが国家代表に選ばれました。統一政府は国家体制を強固なものとするべく、クレイルの下に一致団結して国内制度の改革に全力を注ぎます。この改革運動は、民生、文化、法律、軍制、社会制度など様々な分野に及びましたが、状況は容易には変わりませんでした。国家としては確かに1つになったセルセティアでしたが、この中に幾つもの地域社会が含まれており、土地ごとに独自の文化・伝統といったものが根付いておりました。これらを単一の国家制度の枠組みの中に組み込むことは困難を伴う大事業であり、やがて改革に伴う混乱で経済構造が弱体化することになったのです。
また、統一運動が南部を中心に起こり、セティア人主導で改革が行われたため、北部セル人の居住地域では早い時期から不満の声が上がっておりました。これに加えて性急すぎる改革への反動から、中央政府の統治を拒む地方部族が各地で運動を起こすようになると、やがて政府内部でも意見が割れ始めます。なお、これは一連の改革がマイリーエの人望に依っていたことも影響しており、これに見劣りするクレイルに対して人々は少なからず失望していたのです。
また、国家の柱としての常備軍の成立も統一には欠かせないものでしたが、領主という意識がこの整備を妨げることになります。このため、地方長官を派遣して中央政府主導の政治を試みようと制度を改正するのですが、地方の流儀に合わないことで彼らの多くは住民から否定され、これまで通りの地方代表の選出方式に制度が改められることになるのです。
この失敗から中央政府を離れる自治体が続出し、地方勢力は再び領邦国家としての体裁を取り戻してゆくことになります。これら一連の制度改革における失敗の原因は、エリート主導による活動によって、上からナショナリズムを設定したことでした。しかし、この時代はまだ市民による改革という意識が成熟していなかったため、彼ら革命家の能力に原因を求めるのはいささか酷というものでしょう。
○セルセティア王国の台頭(聖歴704年〜聖歴755年)
こうして国内は暫し混乱の時期を迎えますが、統一セルセティアの衰退と前後して、海洋貿易で財政を立て直した南島のミスティル小州を中心に、新たなる秩序が生まれようとしておりました。この地は旧ジャーカスト候国として治められていた場所で、第一次改革において多大な功績を挙げたアモン=エリヌースの子エアファルが治めておりました。ミスティル小州はロンデニアの支援を受けて急激に成長を遂げ、聖歴720年までに国内随一の工業力を身につけることになります。これは聖歴700年代初頭にラガン帝国がペルソニアで凋落し、多数の植民地を失った影響を受けたもので、ロンデニアは植民地参入のための補給港を欲していたのでした。
その後、聖歴727年にミスティル小州主導の革命が起こり、ロンデニアから輸入した最新型の兵器を用いたエアファルが、南島の西部から中北部までを武力によって統一し、セルセティア王国を名乗ることになります。しかし、この時ロンデニアへの対抗心から再びソファイアがセルセティアへの干渉を始めたために、東部や北島の支配には至りませんでした。
エアファルは無理な領土拡大は望まず、早い時期に地盤を固めるべく内政の充実に力を入れ、ロンデニアの影響を受けた政治制度を構築してゆきました。以前の国家制度の崩壊に懲りた彼は中央集権の早期強化に取り組み、かつての憲法を廃止すると新たな絶対主義の理念を持って国家の統治に当たります。まず彼は農奴解放を行って平民層の支持を得ます。また、国内の少数民族に政治的権限が認められ、文化・習慣を保持したまま国家へと組み込まれてゆきました。
それから官僚制度を改め、文武諸官に官位に応じた封地を与えるとともに、世襲ではない能力主義的な制度を形成します。しかし、中央からは地方監視のための役人を派遣するだけで、実際の地方長官はその地方出身者から選抜する制度を取りました。宰相以下の高級官僚と州・小州の長官である高級軍人には広い土地が与えられたので、多くの貴族は農奴を持たない地主として、既存の権利をあまり損なわずに国家に所属することになりました。この土地はさらに部下へと分け与えられますが、これは官職や軍務に対する俸給として保有が認められるもので、任期が終われば領地は返還しなければなりませんでした。この制度によれば、失策や人望低下による領地没収もあり得たため、地方統治において領主の横暴は許されなくなり、特に民衆からこの制度は歓迎されたようです。
こうして成功を収めたやがてエアファルの権力は絶大となり、首都にミュルゴー宮殿などの大建築を挙行し、君主の権勢を国内外に見せつけます。そして聖歴740年代には北島への侵攻を開始して、全国土の4/5までを支配するに至るのです。こうして、強力な武力による専制君主として君臨した彼ですが、たった1つの禁忌を侵したために、彼の王国は崩壊への道を辿ることになりました。それは宗教問題であり、これに基づいた思想的対立は根深く、穏便な対処策では互いの齟齬を払拭できずに終わるのです。このため、エアファルは晩年になって宗教の影響を国家から積極的に排除しようとするのですが、宗教の否定は特にマイエル教を信奉する人々にとって、生活習慣を含む文化を否定されることも同然でした。
その後、聖歴752年にマイエル教の一派が北部山中の少数民族と結んで、国家に対する抗議行動を行うのですが、命令が正しく行き届かなかったために、彼らとの間に戦闘が起こることになります。そして抗議行動に参加した者が虐殺されると、これに対する政府への批判が集中し、マイエル教徒を中心とした独立運動へと発展してゆきます。エアファルは平和的解決を望んで、彼らの要求に対して最大限の譲歩を行おうとしますが、セティア人がその決定を待たずに暴走したため、民族同士の争いへと突入してしまうのです。
こうして順調だったエアファルの支配体制は、彼の意にそぐわぬ形で崩壊してゆきます。そして、聖歴755年には革命が起こり、エアファルはマイエル教徒に捕らえられ、王宮に集まった民衆の前で無惨にも処刑されてしまいました。なお、彼は一切抵抗することなく、また何も弁明することなく死んでいったということです。
○南北の分裂(聖歴755年〜現在)
強力な統治者を失った後、セルセティア内部は再び大きな混乱に陥ります。北島では一部で残っていた貴族邦国が周辺への侵略を行い、北部各地で旧態依然とした統治制度を復活させてゆきました。他にも全土で暴動や有力地主の勢力争いが行われ、幾つもの政体が乱立するようになります。
これらを収めたのは青年ゴール党から分派した新ゴール派という政治集団でした。彼らは中道的な政策によって各勢力の不満を抑えようとしますが、民族間に生まれた大きな溝を埋めることは出来ず、やがて民族自決の意識が高まってゆくことになります。新ゴール派はこの動きを抑えることが出来なかったため、国家としてのセルセティアは連邦制を採択せざるを得ませんでした。こうして聖歴761年に生まれたのがセルセティア連邦です。
新ゴール派が成し得たのは、各邦代表者から成る連邦議会を成立させ、弱い権力しか持たない中央政府を発足した程度に止まりました。しかし、このような情勢が続くことは他国の干渉を招きかねず、セルセティア連邦にとって不利益なことは明白です。また、ロンデニアやカルネアといった国家が各邦国に近寄り、中継貿易港としての植民都市を手に入れる目的で連邦の分断を試みていたため、性急に強固な国家制度を構築する必要が生じました。
このため中央政府は、連邦への加入を拒んだ北方の貴族邦国を除いて、各邦代表を集めて幾度も会議を繰り返し、聖歴763年には暫定憲法を発足させるまでこぎ着けます。しかし、こういった努力にもかかわらず、聖歴765年、両民族の分裂を決定づける事件が起こるのです。
この年の始めに、国民の窮状や政治の腐敗などを訴える武装集団が、議会の会議場に押し入って銃を乱射し、首相以下4名の閣僚とマイエル教(ラハト派)の大神官を殺害しました。さらにこの一団は、逃亡の途中で民間人を人質に取って近くの建物に立てこもったのですが、警官隊の失策によってセティア人の幼い少女が命を落とすこととなったのです。
この集団がセル人系の聖母教徒であったことが、後の世論を沸かせる最大の要因でした。セティア人は犯行がセル人の手によるものであったことを理由に非難の声を上げ、逆にマイエル教を信仰しているセル人は、大神官が聖母教徒に殺されたことに対して激しく怒りました。こうして、両民族間の亀裂は決定的なものとなったのですが、マイエル教ラハト派が穏便な対応で事を済ませようとしたために、一時的に騒ぎは収まることとなりました。これによってセル人のラハト派への信頼が集まり、北島を中心に発言力が増してゆきます。
この事件に対する怒りは民衆の心に刷り込まれ、表向きは1つの国家の様相を呈していても、かつてないほど民族自決の意識が高まっておりました。しかしこの時点での民族分布は、以前のように南北で切り分けられるほど簡単なものではなく、このことが辛うじて即時分裂を妨げていたのです。当時もおよそ北部にはセル人が、南部にはセティア人が多く住んでおりましたが、戦乱から逃れるために居住地を移動した部族も存在しましたし、中間地点の民族混合の地では混血民も多く、簡単に民族別に土地を切り分けることは不可能でした。また、中道派・民族共和派に属する者も決して少ない人数ではなかったのです。
しかし、新たにラハト派の大神官となったグレン=グラブドゥが国政改革を唱えるようになると、民意は分裂に向けて一気に加速してゆきます。彼は聖歴768年、戒律を非常に厳しいものに改定し、民衆の生活にも直接干渉するようになりました。これだけならまだしも、マイエル教徒セル人がこの戒律を、同じ地域に住む聖母教徒のセティア人にも押しつけたために、相互の間で激しい口論や諍いが繰り返されるようになったのです。やがて、今まで解決されぬまま積み重ねられてきた民族間の問題にまで論争が発展すると、マエティン市を中心に住民同士の武力闘争が発生し、ついに全土で両民族の衝突が起きることとなりました。この内戦は現在もまだ継続中で、多人数のセティア人に対して、セル人が独立戦争を仕掛けている形になっています。
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