年表
◆エストルーク年表
前聖歴 出来事 600年〜 西部地方の民が、シリーシア人のオールビー王国(現ロンデニア)の支配を受ける。 412年〜 7公国からなるイーフォン皇国が成立し、東部地方の民が皇国の支配下に置かれる。 184年 カリス卜人の反乱によって、イーフォン皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。 155年〜 ヴァリュア公国領の住民がイーフォン皇国から離れ、北方に移動してカルネアを建国する。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 9年〜 ベルメック王国(現ロンデニア)とソファイアの間で55年戦役と呼ばれる継承戦争が起こる。この間に東部地域が独立を果たして、シェルバ騎士団領として自治を確立する。 323年 シェルバ騎士団領がブリンテンハウラ連盟(現フレイディオン)に支配される。 353年〜 ロンデニアとフェルディガン王国(現ユノス)との間で戦いが起こる。ロンデニアの敗北により、西部地方がフェルディガン王国へと譲渡される。 369年 エストルーク領の扱いに関する内部分裂が起こり、フェルディガン王国はシリーシア人のディランドナ王国とセティア人の聖ユノス王国に分裂する。 421年 王位継承問題でディランドナ王国が弱体化する。この隙をついて聖ユノス王国が侵攻を開始し、ソファイアの協力を得て現ユノス全土を統一する。 463年 聖ユノス王国の侵攻によりブリンテンハウラ連盟が敗北。連盟領であった東部地域を聖ユノス王国に奪われる。 475年 東部の自治州を中心に、エストクレア人を主体とするエストルーク同盟が結ばれる。同盟は聖ユノス王国に対する独立運動を起こすが、ロンデニアの介入を招いて、結局は本国に帰属することになる。 686年 聖ユノス王国でベルグラン王朝が成立。 756年 本国ユノスで人民革命が起こる。この混乱によってエストルーク地方の民は一時的に自治を取り戻すが、後に再び自治権を奪われる。 787年 ユノスで起こった軍事革命による混乱の隙をついて、エストルークで乾血革命が起こる。これによって独立を勝ち取り、エストルーク連邦国家が誕生する。
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詳細史
○被支配時代
▼西部(〜聖歴353年)
現エストルーク西部地方は、前聖歴600年頃からシリーシア人に支配されていた地域です。この頃はエルフォード王朝の治世によるオールビー王国がこれらの地域を支配しておりましたが、後に王朝の交替を経てロンデニア王国と国名が変わります。それからもロンデニアの支配下に置かれることになるのですが、聖歴353年にロンデニアとフェルディガン王国(現ユノス)との間で戦いが起こり、ロンデニアがこれに破れると、この地域はフェルディガンに譲渡されました。なお、フェルディガン王国はやがて聖ユノス王国とディランドナ王国に分裂しますが、聖歴421年には聖ユノス王国として統合を果たします。
▼東部(〜聖歴463年)
現エストルーク東部はイーフォン皇国に支配されていた地域ですが、皇国の崩壊後はラートリー朝ベルメック王国(現ロンデニア)の支配下に置かれることとなります。しかし、聖歴9年にベルメックとソファイアの間で起こった55年戦役の間に独立を果たし、シェルバ騎士団領として自治を確立しました。その後はしばらく独立領として存在していたのですが、聖歴323年に現フレイディオン西南部にあったブリンテンハウラ連盟に征服され、その支配下に置かれることとなります。
その後、聖歴463年に聖ユノス王国の侵攻を受けるのですが、この頃のブリンテンハウラ連盟は内部で分裂が起こりつつあり、十分な戦力を揃えることが出来ないまま領地を奪われることになりました。
○ユノスからの独立(聖歴463年〜現在)
その後、この地は長くユノスの支配下に置かれることになります。しかし、当初は自治権が認められていたのですが、現東部地域を手に入れたことをきっかけに、聖ユノス王国は自治領の扱いを変更しようとします。これは中継貿易を主とした活動により北西部の港町が発展したことによるもので、王家はこれらの都市から自治権を剥奪して、自らの直轄地にしようと目論みました。これに反発した自治州は、聖歴475年にエストクレア人を主体とするエストルーク同盟を結び、本国に対して独立運動を起こすのです。
これはユノス国内が乱れ、武力によるウォールデン王朝の成立が起こる間に行われたため、本国では対応に遅れを取ることになります。しかし、この隙をついてエストルーク地方へのロンデニアの侵略が始まると、同盟はウォールデン王朝へと助けを求め、結局これに臣属することになりました。聖ユノス王国はロンデニア軍を退けることには成功しますが、これらの戦いで国力を落としたことにより、海上貿易での地位を失い、ブルム内海の覇権はロンデニアへと渡ることになります。
この事件の後、エストルーク同盟は強制的に解散させられましたが、ユノス本国内の平定に力を注がなければならなかったウォールデン王朝は、この地方に一定の自治権を与えることで反乱を抑えるという妥協的提案を行い、この地の民衆もこれに同意します。こうして、その後300年以上に渡ってユノスの支配下に置かれながらも、エストルークは比較的独立した気風を保つことになります。しかし、聖歴686年にユノスでベルグラン王朝が成立すると、少しずつ国内制度の統一が図られるようになり、エストルークの自治にも干渉をはじめます。そして聖歴700年代に入って二代目国王ヴィリエの治世になると、この地では他地域に先んじて農奴解放が行われることとなりました。しかし、これが領主と農民の関係を悪くさせ、本国への反抗心を強める結果となったのです。
その後、ユノス国内でも王家に対する反発が強まり、聖歴756年、遂にこの国にも民主化の波が押し寄せることになります。人民革命は極めて短期間のうちに決着し、国外勢力の干渉を招かぬまま、革命指導者を中心とした共和政府の設立が宣言されました。王制は即座に廃止されなかったものの、これによって貴族の地位は低下し、かつての特権の多くを失うこととなりました。また、国名から王国は消えてユノスという名称に変更されました。
この時期のユノス国内は混乱を極めていたため、エストルーク地方は中央政府から一時離れ、自治権を取り戻すことになります。しかし、国内が落ち着きを取り戻すと再び政治に干渉されるようになり、最終的には完全に自治権を奪われてしまうのです。その後、様々な改革が行われるようになったものの、エストルーク地方は悉く制度改正の実験台のように扱われるようになります。これに反発した自治州はエストルーク同盟を再結成し、聖歴787年にユノスで起こった軍事革命による混乱の隙をついて、独立を勝ち取ることに成功しました。そしてサレムの丘の盟約という都市間の盟約が結ばれ、晴れてエストルーク連邦国家が誕生することとなりました。
この革命が成功したのは、ひそかにロンデニアとの間に同盟が結ばれていて、ポラス海峡の通航問題に関するロンデニアとユノスの海戦が画策されていたためです。しかし、ロンデニアと連動していたとはいえ革命はそう簡単には成功せず、数多くの人々の死の礎の上に現政権が築かれることとなりました。その年は猛暑で、流れた血がすぐに乾いてしまったことから、人々はこれを乾血革命と呼んでいます。
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