ユノス/歴史

略史詳細史


 

略史


 現ユノスの北部地方は、シリーシア人によるオールビー王国が支配しておりましたが、やがてオールビー王国が滅亡してベルメック王国が建国されます。その後、セルセティアにいたセティア人の一部が、前聖歴152年にフィアン王国(現ソファイア)に征服されると、ユノスの地へと逃れてくることとなりました。そして、ベルメック王国の支配を逃れて、南部の辺境で細々と暮らすようになります。
 その後、聖歴9年にベルメック王国のラートリー朝が断絶すると、ソファイアとの間で55年戦役と呼ばれる継承戦争が始まります。継承戦争は聖歴65年に終わりを迎え、国内のミュンフ家から国王を出すことで決着して、国名もロンデニア王国と改められました。しかし、この戦いで疲弊したロンデニアは、聖歴82年にユノス領の独立を許すことになります。
 独立領はソファイアやロンデニアの脅威にさらされ続けたため、聖歴110年頃に南方のセティア人と結んでパルティーク同盟と呼ばれる軍事同盟を結成します。聖歴200年頃になると同盟内部で分裂が起こりますが、貴族主導のもとに2家を宗主とするフェルディガン王国が建国され、秩序が取り戻されました。やがてフェルディガン王国はブルム内海貿易で台頭し、聖歴353年、ロンデニアと制海権をかけて戦います。この時、フェルディガンはソファイアを味方につけて勝利をおさめますが、譲渡されたエストルーク領の扱いについて、宗主同士を頭として分裂して争うことになります。そして、セティア人を中心とする勢力は南部に移って、聖歴369年に新たに聖ユノス王国を建国されます。これに対して、北部のシリーシア人は新たにディランドナ王国を建てますが、ディランドナ王国は内部の混乱が続き、聖歴421年には聖ユノス王国に併合されてしまいます。
 聖ユノス王国はその後も拡大を続け、聖歴463年にはブリンテンハウラ連盟(現フレイディオン)の支配下にあった、シェルバ騎士団領(現エストルーク東部)を併合します。しかし、その後の王国は王の佞臣によって混乱し、聖歴478年にはウォールデン王朝が創始されます。ウォールデン王朝も他国への侵攻を幾度か行いますが、敗北によって国力を低下させ、聖歴633年に北部シリーシア人の独立運動を招きます。これには民族を同じくするロンデニアも加担し、王国は不利な情勢に陥りますが、ソファイアの助力で勝利を収めます。
 聖歴676年になると王朝が断絶し、国内貴族たちが争うようになりますが、聖歴686年にベルグラン王朝が誕生して内乱は終結します。そして、ベルグラン王朝は聖歴700年に入るまでに全土を平定し、新たなる王国の基盤を固めました。しかし聖歴756年、遂にこの国にも民主化の波が押し寄せ、革命指導者を中心とした人民政府の設立が宣言されます。これによって国名はユノス改められます。
 革命終結後も国内の混乱は続き、聖歴786年になるとサヴァリッシュ将軍による軍事クーデターが勃発します。彼は国王レノアールを傀儡とする軍事政権を樹立しましたが、ロンデニアとの海戦の隙をつかれ、エストルーク領の独立を許すことになります。これによって国民の信用を失い、また、国内の意見を武力で押さえつけようとしたことから民衆の蜂起をまねいて、この軍事政権は例を見ないほどの短期間で崩壊することになりました。
 その後、穏健派が民衆の支持を受けることになり、現在は与党として政権を握っています。聖歴789年の現在は、動乱期にある国際状況に対して国民の意識が再び軍事に傾き、軍事推進主義の急進派が支持を増やしています。これに対して、穏健派のユノス人民党を第一党として4党が連立内閣をつくり、急進派の台頭を阻止しているのが現状です。


◆ユノス年表

前聖歴 出来事

600年〜
 シリーシア人によるエルフォード朝オールビー王国(現ロンデニア)による支配を受ける。

450年〜
 オールビー王国が現ロンデニアの地へと版図を広げ、フィアン王国を彼の地から追い出す。
300年〜  オールビー王国内部で分裂が起こり、ラートリー朝ベルメック王国が成立する。
152年〜  フィアン王国にセルセティアが征服される。この時、セティア人の一部が現ユノスの地に移住する。
聖歴 出来事

元年
 ユナスが降臨し、イーフォン皇帝の死を予言する。イーフォン皇帝は予言通りに死亡し、エルモア地方は混乱に陥る。セティア人はこの年を境に聖母教会へと改宗を果たし、民族名をユノスと改める。
6年  イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。

9年
 ベルメック王国(現ロンデニア)とソファイアの間で55年戦役と呼ばれる継承戦争が起こる。

65年
 55年戦役が終結し、ベルメック国内のミュンフ家から国王を出すことで決着。この時に国名がロンデニア王国と改められる。

82年
 ユノス領が本国ロンデニアに独立戦争を仕掛け、自治権を勝ち取る。

110年〜
 セティア人と独立領の間で、パルティーク同盟と呼ばれる軍事同盟が結成される。

284年
 同盟会議の決定により、クレソフェリル公国(シリーシア人)とエッセルバイン候国(セティア人)を宗主とするフェルディガン王国が建国される。

353年〜
 フェルディガン王国とロンデニアとの間で戦いが起こる。ロンデニアの敗北により、エストルーク西部地方がフェルディガンへと譲渡される。

369年
 エストルーク領の扱いに関する内部分裂が起こり、フェルディガン王国はシリーシア人のディランドナ王国とセティア人の聖ユノス王国に分裂する。

421年
 王位継承問題でディランドナ王国が弱体化する。この隙をついて聖ユノス王国が侵攻を開始し、ソファイアの協力を得て現ユノス全土を統一する。

463年
 ブリンテンハウラ連盟(現フレイディオン)から、現エストルークの東半分にあったシェルバ騎士団領を奪う。

473年〜
 宰相であるサティアーノ公爵の政策に反発し、国内各地で暴動が発生する。このため、国王によって市民の虐殺が行われる。

475年
 現エストルーク東部の自治州を中心に、エストクレア人を主体とするエストルーク同盟が結ばれる。同盟は聖ユノス王国に対する独立運動を起こすが、ロンデニアの介入を招いて、結局は本国に帰属することになる。

478年
 ウォールデン将軍が王家に反旗を翻し、ウォールデン王朝を創始する。

550年〜
 ジュレーヌ=ネリル連合王国(現フレイディオン)と同盟を結んでロンデニアと戦うが敗北する。

598年
 クレンヴェルヌ王国と結んでジュレーヌ=ネリル連合王国と戦うが、これに敗北する。

633年
 北部でシリーシア人の独立運動が起こる。これに民族を同じくするロンデニアも加担したことで内戦へと発展するが、ソファイアの味方を得てこれに勝利する。

660年〜
 南西部で農民反乱が起こる。ソファイアがこれに干渉して国内へ侵攻を開始するが、民衆義勇軍の活躍によってこれを退ける。その後、奪われた土地の奪還を目指してソファイアへの逆侵攻を行うが、これには失敗する。

676年
 ウォールデン王朝の断絶。次の王位を巡って貴族たちが争い、国内は混乱状態に陥る。

686年
 ベルグラン王朝が成立し、内戦は収束する。

740年〜
 共和主義革命の起こったフレイディオンに侵攻を行うが、後に軍人皇帝となるカヴァリア将軍の前に敗北を喫する。

756年〜
 革命が起こり人民政府が設立される。これに伴い、国名がユノスと変更される。この間にエストルーク地方の民が一時的に自治を取り戻すが、後に再び自治権を奪われる。

782年〜
 ロゴシア地方でデュリプトン伯爵が独立政府を樹立しようとする。その後、革命政府とデュリプトン派との間で内戦が勃発。

786年
 内戦の隙をついてサヴァリッシュ将軍が軍事クーデターを起こし、国王レノアールを傀儡とする軍事政権を樹立する。

787年
 ポラス海峡の通航問題により、ロンデニアとの間で海戦が勃発する。
 エストルーク地方で乾血革命が起こる。これによって独立を勝ち取り、エストルーク連邦国家が誕生する。
 軍事政権が崩壊し、民主制による政治が再び行われるようになる。


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詳細史


○民族移動期(〜聖歴6年)

 現ユノスの主要な民族を占めるセティア人は、もともと南方のセルセティアの地に住んでいた民族です。しかし、前聖歴152年にソファイアにあったフィアン王国に征服されると、彼らの一部はユノスへと逃れてくることとなりました。もともと現ユノス北部はベルメック王国(現ロンデニア)に支配されていたため、彼らは南部の辺境で細々と暮らすようになります。そして、時が経つにつれてベルメックやフィアンといった大国の侵攻を受けますが、殆ど戦わずに居住域を移してゆき、辛くもその支配を免れているといった状況にありました。
 彼らは聖母教会の支援を受けて生活しておりましたが、この時まではマイエル教への信仰が続いていました。しかし後に、彼らを改宗させる契機となる一大事件が起こります。それがユナスの降臨として知られる奇跡で、疲弊したセティア人の前に空一面に浮かぶユナスの姿が見えたのだといいます。ユナスは涙を流したまま天に祈りを捧げ、人々に何かを語りかけました。その声は人々の耳に届かぬまま、やがて静かに消えていったのですが、ただ1人だけユナスの言葉を聞くことが出来た者がいたのです。それがシェアの老女と呼ばれる女性です。老女の語るところによれば、ユナスはエルモア地方最強と言われていたイーフォン皇国の皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、そして長き戦乱時代が訪れることを嘆いていたというのです。そして、この戦乱期を早く終わらせるためには、神に心からの祈りを捧げ、愛を忘れずに生きることであると説いて、ユナスは消えていったのだと伝えられています。
 まもなく、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、その後の皇国は内乱によってわずか6年で滅亡することとなりました。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代は崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。
 教会はこの年を新たなる時代の始まりとし、現在の標準暦である聖歴が生まれました。セティア人は自らの前にユナスが現れたことを神意と受け止め、この年から一族はユノス(ユナスに導かれた者の意)と民族名を改め、正統信仰者を名乗るようになります。


○ロンデニアの退却(聖歴6年〜82年)

 ロンデニアで大多数を占めるシリーシア人は、前聖歴600年頃に現エストルーク西部からユノス北部に居住していた民族です。この頃はエルフォード王朝の治世によるオールビー王国がこれらの地域を支配しておりましたが、前聖歴450年頃になると現ロンデニアのランドレイク島へと版図を広げてゆきます。その後、シリーシア人はもともとこの地域に住んでいた部族を併合し、大カルドレン島やアナリシア島へと居住域を広げました。そして、アナリシア島を支配していたフィアン王国を追い出すと、クルヴィス人が支配していた大カルドレン島の北西部を除く全地域を支配下に置き、現ロンデニアの殆どとユノス北部を支配するようになります。
 しかし、それから間もなくオールビー王国内部で分裂が起こり、ユノス北部にいたエルフォード家をランドレイク島のラートリー家が倒し、ラートリー朝ベルメック王国が成立することとなりました。ラートリー王朝の治世は約300年程続きますが、その間に周辺諸侯の幾つかを従えて領土を拡大しています。聖歴に入ってまもなく起こったイーフォン皇国の滅亡に際しては、現エストルークの殆どの地域も手に入れています。
 しかし聖歴9年、王が跡継ぎをもうけないまま亡くなったことから、ラートリー王朝はついに断絶することとなりました。この際、ソファイア王のタイレル3世は、その母がラートリー家の出身であることから継承権を主張し、両国の間に55年戦役と呼ばれる戦いが始まります。両国は互いに退くことなく勇猛に戦い続けたのですが、やがて双方とも国政に破綻をきたし、また、幾つかの諸侯の独立をも許す結果となりました。ベルメックはかつて奪ったエストルークの領地の半分ほどを失い、大カルドレン島もクルヴィス人によるシェヴァリック王国の支配下に置かれる羽目になります。このような事情により聖歴65年に戦いは終結し、国内のミュンフ家から国王を出すことで決着を得ました。なお、この時に国名がロンデニア王国と改められることとなります。


○フェルディガン王国の誕生(聖歴82年〜284年)

 長い戦いに疲弊したロンデニア国民は、待ち望んでいた平和の訪れを喜びました。しかし、それから18年後の聖歴82年に、弱体化したロンデニアに対して現ユノス地方にあった諸国が独立戦争を仕掛け、自治権を勝ち取ることに成功します。これによってロンデニアは大規模な穀倉地帯を失うこととなり、やがて海の道へ発展の希望を託すようになったのです。
 その後も、現ユノス地方はソファイアやロンデニアの脅威にさらされ続けたため、セティア人と旧ロンデニア領の民は手を携えて外敵に立ち向かうことを約束し、聖歴110年頃にはパルティーク同盟と呼ばれる軍事同盟を結成します。同盟内部の政治は完全に分かれており、互いの自治に干渉しないよう約束が交わされておりましたが、統一された経済基盤を望む商人たちの要望によって、後に通貨の統合や加盟自治体間での関税の緩和などが行われるようになります。
 その後、聖歴200年頃になると近隣諸国は海洋貿易に力を入れるようになり、同盟領は外部から干渉されることが少なくなります。このようになると、加盟自治体は互いの利益のみを主張し合い、次第に衝突を繰り返すようになってゆきます。しかし、聖歴250年頃になると、貿易を中心として力をつけたウィーベンドルフ家(シリーシア人)のクレソフェリル公国とブランキーノ家(セティア人)のエッセルバイン候国が諸侯を味方に付け、2家主導のもとに王国として新たなる秩序を形成するようになるのです。そして聖歴284年、同盟会議のもとで2家を宗主とするフェルディガン王国の建国が決定されました。


○フェルディガン王国の治世(聖歴284年〜369年)

 両家同士の争いもなく、周辺諸国の戦乱に巻き込まれることもなかったため、建国当初のフェルディガン王国は比較的穏やかな治世を過ごします。そして、アリアナ海での貿易を通じて、ソファイアとともに発展してゆきます。
 その後、ロンデニアはペルソニア貿易へと力を入れたため、ブルム内海貿易でもフェルディガンが台頭するようになりました。これに対して聖歴353年、ロンデニアは制海権をかけて戦いを挑むのですが、ソファイアがフェルディガンに加担したためにこれに敗北して、ブルム内海の覇権をフェルディガン・ソファイアの連合に奪われます。この時の条約によって、ロンデニア領であった現エストルークの西半分がフェルディガン王国に譲渡されることとなります。代わりにフェルディガン・ソファイアは、それ以後20年の間は同盟を結ばないことになりました。
 しかし、この時のエストルーク領の扱いについて、領土拡張を目論む諸侯の意見が割れることとなり、フェルディガン王国は宗主同士を頭として分裂して争うことになります。そして、それから15年の間にセティア人を中心とする勢力は南部に移って、聖歴369年に新たに聖ユノス王国を建国します。これに対して、北部のシリーシア人は新たにディランドナ王国を建て、現ユノス領は南北に分裂することとなりました。なお、この間の戦いでエストルーク領はディランドナ王国に併合されましたが、王国は国内の混乱を治めることに力を注いだため、この地は自治権を与えられて独自の政体の下で活動を続けます。


○ディランドナ王国の滅亡(聖歴369年〜421年)

 その後、アリアナ海貿易の問題から、ソファイアと聖ユノス王国が手を結ぶことになります。そして、後には現メルリィナにあったキルリア王国とも手を結んで、アリアナ海貿易を支配して隆盛を誇ることとなったのです。
 その間、北部のディランドナ王国は継承問題が元で内部は混迷し、国力は低下する一方でした。まず、2代目の国王となった先王テウリスの弟ジョセフは、やがて国内を治めるために独裁的な振る舞いをするようになります。こうしてジョセフ王は諸侯の支持を失ってゆくのですが、彼は行動を改めることなくますます王権のもとに諸侯を締め付けるようになったため、貴族たちは先王の息子ロデリックを引き込んでジョセフ王を暗殺します。こうしてロデリックが即位することになるのですが、彼もまたジョセフの息子ルヴィルに倒されたために、王国内は混乱をきわめることとなったのです。
 これを収めるため、テウリスに譲位して引退した母フィランヌは復位を決めるのですが、彼女を支持する声は少なく、諸侯の中から新たなる王を国外から迎え入れて王朝を改めることを提案する声が挙がります。しかし時は既に遅く、これを機として聖ユノス王国が南部から侵攻を開始します。これにはソファイアも参入したため、戦力に劣るディランドナ王国は2年で完全に制圧され、聖歴421年に聖ユノス王国に併合されることとなりました。この時、シリーシア人の中には、ロンデニア、エストルーク、フレイディオン、アルメア、ライヒスデールなどに逃れた者も多かったようです。


○聖ユノス王国の治世(聖歴421年〜478年)

 この戦いの後、地方を中心としてわずかに反乱が起こりますが、聖歴430年代にはほぼ全域を平定します。それからの20年は国内の立て直しに力を入れ、戦いで力を失った領土を直轄地とするなどして、王家は中央集権化を果たします。
 それから、聖歴463年には現エストルークの東半分にあったシェルバ騎士団領を併合します。シェルバ騎士団領を支配していた現フレイディオンのブリンテンハウラ連盟は、当然のごとく奪回を目指して出兵しますが、辛くもこれを退けて支配地を拡大します。
 この戦いで功績を挙げたサティアーノ公爵は国王に取り入って出世し、後には宰相の地位にまで登り詰め、国政の一切を任されるようになります。しかし、そもそも先の戦いでの功績の殆どは部下のリブローニ男爵によるもので、彼自身は政治的には無能といってよく、国王を除いては身分の上下を問わず誰からも嫌われておりました。リブローニ男爵はもともと公爵の家庭教師だった人物で、最初は政治的手腕を発揮して公爵を助けておりましたが、サティアーノ公爵は男爵が民からの信望が厚いことを妬むようになり、後に地方へと飛ばした挙げ句領地を没収してしまいます。
 このため、公爵は幾つもの失策を重ねて国を不況に追いやることとなるのですが、彼は国王に気に入られていたため、宰相の地位を追われることはありませんでした。このように安泰だったサティアーノ公爵ですが、聖歴473年に入ってまもなく、彼を恨んだリブローニ男爵によって刺殺されることになります。この行為は国民から歓迎され、男爵は一躍英雄として扱われるようになりますが、国王は怒り彼を捕らえて公開処刑に及ぼうとします。しかし、公爵の無能さに泣かされていた国民はこれに反発し、王都を中心として暴動を起こし、処刑寸前の男爵を救出します。
 暴動はこれだけにとどまらず、王都では食料品店をはじめとした商店や貴族御用達の店、それから留置所や治安判事の詰め所までが襲われます。そして、この討伐に出た貴族を殺害するという事件にまで発展すると、国王の命令によって市民の虐殺が行われ、王都は戦場さながらの雰囲気に包まれます。
 この虐殺事件によって王都の騒動は一時的に沈静化しましたが、国王は抗議した聖母教会を武力で封じ込めようとしたため、平民のみならず諸侯の中にも王家を批判する者が多く現れるようになりました。その後、ナイジェル=ウォールデン将軍が王家に反旗を翻し、国内西部の諸侯をまとめて民衆の側について戦います。そして聖歴478年、ついに王都を制圧して国王を捕らえると、王位についてウォールデン王朝を建てることとなりました。


○ウォールデン王朝前期(聖歴478年〜640年)

 この戦いの間、旧シェルバ騎士団領で独立運動の動きが見られましたが、この地へのロンデニアの侵略が始まるとウォールデン王朝へと助けを求め、結局これに臣属を続けることになります。王国はロンデニア軍を退けることには成功しますが、これらの戦いで国力を落としたことにより、海上貿易での地位を失い、ブルム内海の覇権はロンデニアへと渡ることになります。
 聖歴550年代に入ると、現フレイディオンにあったジュレーヌ=ネリル連合王国と同盟を結んでロンデニアと戦いますが、一度もこれを破ることが出来ずに終わります。そのため、セルセティアと手を結んでアリアナ海貿易へと乗り出し、メルリィナやルクレイドといった国の混乱に乗じて台頭するのですが、やがてセルセティアと不和になると力を失います。
 その後、強国となるべく国内産業の発展に力を入れ、軍事力の増強に努めた聖ユノス王国は、フレイディオンにあったジュレーヌ=ネリル連合王国とクレンヴェルヌ王国の戦いに干渉します。ユノスはクレンヴェルヌ王国に味方して戦ったのですが、離反する諸侯が現れたことでクレンヴェルヌ王国は急激に力を落とし、聖歴598年には敗北することとなりました。
 それからしばらくの間は、国内には厭戦の風潮が蔓延したため国外の動きに積極的に干渉せず、内政の充実に力を入れることとなります。しかし、その間に力をつけたシリーシア人が、聖歴633年に独立を果たそうと北部で運動を起こし、これに民族を同じくするロンデニアも加担したことで、内戦へと発展することになります。一時、シリーシア人勢力は北部からセティア人を追い出して自治を勝ち取りますが、ソファイアがユノスに味方したことで情勢は逆転し、多くのシリーシア人貴族がロンデニアに亡命することとなりました。なお、この戦いによって、ソファイアはラシュコー地方西部にあったフォージニア候国を手に入れます。


○ウォールデン王朝後期(聖歴640年〜686年)

 その後、この独立運動に対する反動から国内では絶対主義による政治が行われ、官僚と常備軍の整備が進むようになります。しかし海洋ではその力は奮わず、やがて農業を中心とした国内産業によって国家を維持するようになります。
 聖歴660年代に入ると、大農場での過酷な賦役労働に対して反発した農民反乱が南西部で起こるのですが、ソファイアがこれに干渉してリュケア地方(マシューズヴェロー地方西部)の北東部域を得ると、さらに東へと侵攻を開始します。しかし、民衆義勇軍の活躍によってこれを退け、ナイキストア山脈の中央部を境とする現在の国境が規定されました。その後、失ったリュケア地方の奪還を目的としてソファイアへの逆侵攻を行いますが、結局これを奪い返すことが出来ないまま出兵を繰り返し、悪戯に財政を圧迫することになります。
 聖歴676年になると王が死亡して、市井の娘との間に残した子ファーナがウォールデン王朝の後継者となります。しかし、出自を問題とした諸侯は彼女の即位を認めず、王朝は断絶することになりました。その後の国内では貴族たちが覇権を争い、複数の王が乱立する状態となります。この争いにファーナも巻き込まれることになりますが、まもなく彼女が自害したため、ウォールデン王朝の血筋は完全に途絶えてしまいました。
 その後の国内は、それぞれの王が濫発した権利書によって混乱を来たし、領地を巡っての戦火は止まず、治安は乱れる一方となりました。また、街道の封鎖などによって交易が途絶え、流通市場や経済にも大きな打撃を受けます。
 しかし、やがて軍事力に優るサーティア家が他諸侯を抑えて台頭し、国土の1/3の地域を平定します。敵対諸侯はこの力を恐れ、血筋的に特定派閥に偏っていない辺境のネービス伯爵を王として擁立します。その後、ネービス派の諸侯はサーティア家を滅ぼして国内平定に成功するのですが、内紛が起こって王は家臣のパウロック男爵に暗殺されてしまいます。この時、やはりネービスに臣属していたベルグラン家はいち早く事態の収拾に乗り出し、先手を打ってパウロックを倒し、諸侯の長として王の座に就くことに成功しました。こうして聖歴686年、ベルグラン王朝が興ることになります。


○ベルグラン王朝期(聖歴686年〜757年)

 ベルグラン王朝は聖歴700年に入るまでに全土を平定し、新たなる王国の基盤を固めました。それからの数十年間、王国は戦いのない治世を過ごすことになります。
 初代国王カーノスは、主に富裕農民層を味方につけ、諸侯の力を抑えつつ王権を助長してゆきました。彼は知略に長けており、常に自らの前に楯となる人物をおいたり、懐柔策と妥協的提案によって諸侯の不満の矛先をかわしました。
 二代目国王ヴィリエは穏和な性格の持ち主で、父が固めた基盤をもとに民衆のための国政改革に乗り出します。彼の最大の功績は農奴の解放であり、王朝成立時に新たにベルグラン家所領として定められた土地とエストルーク地方からこれを行いました。彼は農民を土地に縛り付ることによる産業化の遅れが国力低下の原因だとして、土地の貸付と賃金のやり取りによる大農場経営を推進します。全国的な制度普及に際しては貴族の反発が大きく、農民が解放されるためには土地を買い上げる必要があったため、実際には富裕農民層が権利を拡大したのみとなりましたが、これが後の民主化への大きな一歩であったことは間違いありません。
 しかし、その子マーキスはソファイア筋の母の影響を強く受けたためか、ヴィリエとは正反対の思想の持ち主として育ちます。王位を継いでまもなく、彼は父が改革した税制などを旧来の制度に戻してしまい、貴族中心の国家を再建しようとします。彼は領土拡大を目論み、聖歴740年にフレイディオンに侵攻を開始して、英雄と讃えられていたアンドレセン将軍を破りますが、後に軍人皇帝となるカヴァリアが前線に立つようになると敗戦が続き、結局兵を引かざるを得なくなります。また、彼は夜毎に夜会を開くなど浪費が激しく、敗戦の影響も合わせて国庫はかつてないほどの窮乏に陥ります。その埋め合わせを全て国民への税に求めたため、民衆は政府への不満を募らせ、都市市民を中心に反貴族へと世論が高まってゆきます。
 このような民衆の動きに対して、マーキスはフレイディオンの革命に対する反動から、貴族制度を守るために締め付けを厳しくし、果ては民衆の食事や装束にまで規制をかけるようになりました。そのため、先王を慕っていた民衆の不満はやがて頂点に至り、聖歴756年、遂にこの国にも民主化の波が押し寄せることになります。
 人民革命は極めて短期間のうちに決着し、国外勢力の干渉を招かぬまま、革命指導者を中心とした人民政府の設立が宣言されました。王制は即座に廃止されなかったものの、これによって貴族の地位は低下し、かつての特権の多くを失うこととなりました。また、国名から王国は消えてユノスという名称に変更されました。


○軍部の独裁と民主化への道(聖歴757年〜現在)

 その後、逃亡した貴族たちの要請を受けてソファイアがユノス進軍を開始しますが、ロンデニアおよびフレイディオンの支援を受けてこれを撃退します。それから20年の時間をかけて政府は民主政体の構築を試みますが、多くの革命指導者たちは当初の理念を忘れ、やがて利権争いに奔走するようになります。そして、あくまでも理想に基づいた国家の設立を夢見る者、他国の干渉を避けるために妥協的政策を提示する者、私欲によって政治の主導権を握ろうとする者などの間で様々な駆け引きが行われ、頻繁に暗殺事件が引き起こされるようにまでなるのです。
 その後、革命指導者の1人であったモーリス=デュリプトン伯爵が政府を離れ、聖歴782年、ロゴシア地方に独自の政府を樹立しようとします。しかし、彼は資本家や大地主と手を組んで改革を行おうとしたために、中下層市民の協力を得ることが出来ませんでした。そして、聖歴786年にこの地方で政治運動に参加していた青年闘士が殺害されると、怒った民衆はデュリプトン派の大物政治家を捕らえて報復のために処刑を行い、両派の全面衝突という事態に陥るのです。
 政府はこの混乱を治めるために、ロゴシア地方へと陸軍を出動させることになりました。しかしこの間、首都では首脳陣の腐敗に憤った青年将校と、彼らの理想をうまく代弁したヴィクトール=サヴァリッシュ将軍がクーデターを起こし、国王レノアールを傀儡とする軍事政権を樹立したのです。しかし、クーデター後の混乱と、それに続くロンデニアとのポラス海峡通航問題による戦争の隙をつかれ、エストルーク領の独立を許すことになります。これによって国民の信用を失い、また、国内の意見を武力で押さえつけようとしたことから民衆の蜂起をまねいて、この軍事政権は例を見ないほどの短期間で崩壊することになりました。
 その後、穏健派が民衆の支持を受けることになり、現在は与党として政権を握っています。聖歴789年の現在は、動乱期にある国際状況に対して国民の意識が再び軍事に傾き、軍事推進主義の急進派が支持を増やしています。これに対して、穏健派のユノス人民党を第一党として4党が連立内閣をつくり、急進派の台頭を阻止しているのが現状です。


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