カイテイン帝国/歴史

略史詳細史


 

略史


 前聖歴792年、スレイラール人の大帝カイラス=エルシュ=カイテインによってエルモア東部地域が平定されました。これは農民集落を形成していたスレイラール人を東方騎馬民族であるキタン人が襲ったために起こった衝突ですが、一部のキタン人部族はカイラスの側について後に貴族の地位を得ています。そして前聖歴765年には、カイラス2世の手によってキタン人とエルミターン人が完全に征服され、皇帝の専制政治によるカイテイン帝国が建国されることとなりました。しかしカイラス2世の死後、3系統の民族(キタン、エルミターン、スレイラール)は調和を失い、3代目皇帝ヴェルシの暗殺からわずか7年で帝国は崩壊します。しかし、やがて皇帝の血を引くアルマズールが、聖母教会の後ろ盾を得てスレイラール人をまとめ上げると、帝国唯一の正統後継者として皇帝位について国内の平定に成功します。
 その後、前聖歴493年にスレイラール人の一部が隣国カスティルーンと同盟を結んで、ユークレイ国として独立して以来は、武力闘争をあまり行わないまま発展を遂げてゆきました。しかし聖歴281年になって、大魔戦争と呼ばれる大きな国内紛争が勃発します。悪魔にそそのかされた一貴族が起こしたこの内乱は20年あまり続き、これによってカイテインは弱体化することになりました。その後は法の瓦解時代と呼ばれる長い低迷期に突入し、国内体制の建て直しに長い時間を費やすことになります。
 この弱体化したカイテインを立て直したのは、エルミターン民族の血を引くルーヴィン一族です。彼らは皇帝に取り入って帝国の重職に就くことに成功し、やがて幼い皇帝ファルケの摂政の地位を得て、国政の殆どを取り仕切ることになったのです。これには前皇妃や諸侯も反発し、兵を挙げてルーヴィン派と戦うことになるのですが、聖歴493年、国を2つに分けた戦いにルーヴィン一族は勝利し、大公爵という世襲の摂政位を得ることになります。
 しかし、大公爵の権勢が増してゆくと皇帝は傀儡として扱われ、追随しない貴族も政治の中枢から外されるようになります。こうしてルーヴィン一族は帝国の実権の殆どを握って権勢を極めますが、これまでの慣例を破って大公爵家から皇妃を出そうとしたことと、隣国ペトラーシャの継承戦争へ介入を行って敗北したことで、諸侯の大きな反発を受けることになります。また、次代の大公爵ラマルカは一族の者からも暗愚と囁かれるほどの人物で、政治的な能力は殆ど期待できませんでした。その一方で新たに即位したユードオン帝は聡明さで知られる傑物で、政治の立ち入った部分にも細かく口を挟むようになります。両者は宮廷における権力闘争を繰り返しますが、皇帝の妹の殺害事件にはじまる一連の騒動から武力衝突に発展し、聖歴621年、ついにルーヴィン一族は打倒されることとなりました。
 こうしてユードオン帝はカイテインの実権を皇帝の手に取り戻し、現在の帝政国家の基礎体制を築き上げます。その後、国内状況が回復してからも地理的条件による国力の低さなどから、自ら他国に対して戦争を起こすことは殆どありませんでした。そのため大規模な人口の減少もなく、非常に安定した発展を遂げた国ともいえるでしょう。もともと資源も豊富な国家であり、現在では霊子機関をはじめとする先進技術の導入によって多方面での開発が進んでいるため、その人口に支えられる潜在的な国力はあなどれないものとなっています。


◆カイテイン年表

前聖歴 出来事

792年
 大帝カイラス=エルシュ=カイテインによるエルモア東部地域平定。

765年
 カイラス2世によるカイテイン帝国の成立。
742年  三代目皇帝ヴェルシの暗殺事件。
735年  カイテイン第一帝国の崩壊。カイラス2世の娘ヘルギータは西部へ逃亡。その弟レヴァートはモボヴロフ公国を建国。カイテイン地方の内乱状態は前聖歴640年代まで続く。
617年  ヘルギータの血を引くアルマズール皇子がモボヴロフ公国を征服。カイテイン第二帝国の創始。
535年  第二帝国、エルモア東部の再統一に成功。
聖歴 出来事

258年
 ナイセン山岳地帯を巡る戦いでユークレイを破り、ユークレイ国土の約半分を領地に得る。
273年  帝国の属国であるテルミジア公国が、エリンブラッフ王国およびマウロリディア公国と手を結んで統一ペトラーシャに侵攻。しかし、統一ペトラーシャはランカード朝カスティルーンと同盟を結んでこれを退け、テルミジア公国の一部はカスティルーン領土に併合される。
281年  大魔戦争が勃発。悪魔にそそのかされたウィンストン公爵(皇帝の従兄弟)が起こしたカイテイン帝国の国内紛争。20年余りにもおよぶ内乱によりカイテインは弱体化し、法の瓦解時代と呼ばれる長い低迷期に突入する。これにより、かつて得たユークレイ領の殆どを奪還され、テルミジア公国をも手放すことになる。
493年  庶子ファルケが皇帝の遺言により帝位につき、ルーヴィン一族が後見人として摂政位を得たことに前皇妃カロリーネが反発。後に帝国は皇帝派とカロリーネ派に分かれ、ポズオル平原で決戦を行う(ポズオルの乱)。戦いの勝利に大きく貢献したルーヴィン一族は大公爵という世襲の摂政位につき、大きな権力を振るうようになる。
577年  ペトラーシャの継承戦争に出兵するも、近代兵装の前に惨敗。
621年  皇帝の妹ヒルギッタが湖で変死。この犯人が大公爵の甥にあたるディルフィップ伯爵であったために、皇帝と大公爵の間に決定的な亀裂が入る。大公爵は皇帝に反旗を翻すが諸侯連合の前に敗北し、多くのエルミターン貴族が滅亡する。
748年  ハルネス1世の息子、ジュミール3世が皇帝位に就く。
778年  ジュミール3世の息子、ハルネス2世が皇帝位に就く。


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詳細史


○帝国成立(〜前聖歴765年)

 エルモア東部地域では、古くからキタン人という騎馬民族が狩猟を主体とした生活を送っていました。また、前聖歴900年頃のニナウェッジ地方では、エルミターン民族がペスティナという小都市を建設しておりました。
 その後、この地に聖母教会の聖職者に率いられたスレイラール人の集団が移動し、前聖歴830年頃に現在のソポトダーニ地方に定住するようになります。この一団は教会の指導に従った質素な農耕生活を送っておりましたが、キタン人が略奪をはじめるようになると、その討伐をとなえる者たちと聖職者を中心とした現状維持派の間で意見が分かれるようになりました。結局、討伐派が独立して東部地域(現ソポトヴォルグ地方)へと進出することになりますが、この長こそがカイテイン帝国の創始者となるカイラス=エルシュ=カイテインです。彼はキタン人の数部族を味方につけ、まもなく最大勢力であるディガン族を討ち取ります。その功績により周辺集落の支持を得たカイラスは、20年ほどの間にカイテイン中東部の平定に成功します。
 彼は余生を費やして政治の運営基盤を固めると、死の間際に息子に指導者の地位を譲り渡しました。しかし、カイラス2世は父親とは違って独善的な性格で、短期間のうちに独裁的な政治体制を整えると、西部に残った教会勢力を武力で屈服させてしまいます。さらに前聖歴765年までには、エルミターン族のペスティナ市および近辺の都市国家、そして東南部で狩猟生活を行っていた多くのキタン民族を制圧して専政国家を建設することになります。これがカイテイン帝国の基盤であり、彼は自ら皇帝を名乗ってカイテインの支配者として君臨しました。


○分裂時代(前聖歴753年〜前聖歴535年)

 しかしカイラス2世の死後、3系統の民族(キタン、エルミターン、スレイラール)は調和を失い、辺境の領地で幾つかの小国が独立することになります。特に古くからカイラス1世に協力してきたキタン人のスアレス族は、彼らの功績を蔑ろにするカイラス2世に対して強い不満を抱いていたため、キタン民族をまとめて連盟を結成し、帝国に対して反旗を翻す構えを見せました。そのため、カイラス2世の娘ヘルギータはスアレス族の王ヴェルシと再婚し、その血族を貴族として多数登用することで内乱を回避します。こうして、一時的に流血沙汰は回避されたように思われたのですが、ヘルギータの弟レヴァートはキタン人を一族に迎え入れることを快く思わず、同じく不満を抱いていた親戚やロゴチェル地方に興った小国家の幾つかと手を結び、帝国を離反して後にモボヴロフ公国を建設することになります。
 この混乱を利用してエルミターン族の血を引く王たちは一計を案じ、キタン人の別部族の仕業に見せかけて、3代目皇帝ヴェルシを暗殺することに成功します。これが原因でわずか7年で帝国は崩壊し、ヘルギータはソポトダーニ地方へと逃げ落ちて、聖母教会の庇護下に入ることになりました。
 これより前聖歴600年代中頃までのカイテインは、最大7つの勢力に分かれて内乱を繰り広げます。しかし、後に再婚して子をもうけていたヘルギータの血を引くアルマズール皇子は、聖母教会の後ろ盾を得てフィスホーン周辺の民衆をまとめ上げ、前聖歴617年にはモボヴロフ公国の征圧に成功します。そしてレヴァートの血を引く者を根絶やしにすると、唯一の正統後継者であることを宣言し、皇帝位についたのです。これが第二帝国期と呼ばれる時代のはじまりで、カイテイン帝国はその後80年あまりをかけてエルモア東部の再統一に成功することになります。


○第二帝国期(前聖歴535年〜聖歴302年)

 その後、帝国の完全復興までの間に、カスティルーン建国およびユークレイ地方の独立を許してしまうことになりますが、南方の平野部や北方の開拓を精力的に行ったために、国力自体は以前よりも遙かに増強されました。その後の数百年は非常に安定した治世を送り、内的には宮廷での政治闘争を経験する程度となります。対外的には、イーフォン皇国の成立に手を貸したことでテルミジア公国(現ペトラーシャ北部)を得たり、ユークレイ地方の一部地域を奪還したりしますが、これらが国家体制に大きな変化をもたらすことはありませんでした。また、聖歴に入ってまもなくして、火山噴火や震災の影響で国内が乱れ、辺境地域の農奴反乱や自治都市の独立運動が連続して起こった時期がありましたが、短期間のうちにこれらを武力で制圧することに成功しています。
 このように、ある程度の規模の問題は起こりながらも、比較的平和な治世を過ごしていたカイテインですが、聖歴281年に大魔戦争と呼ばれる国内紛争の勃発により、大きな転機を迎えることになります。これは悪魔にそそのかされたエディル=ウィンストン公爵(皇帝の従兄弟にあたる人物)が起こした内乱ですが、彼は魔の力を借りて諸侯を滅ぼし、最終的には首都を包囲するまでに至ります。しかし、皇帝は一時的にヴァルハインへと逃げ落ち、東南部にあった領邦国家の協力を得てこれを討伐することに成功しました。
 しかし、この20年あまりの混乱はカイテイン国内に多大な打撃を与え、政治の主導権は地方へと移ることになります。この隙に聖歴258年の戦いで得たユークレイ領の殆どを奪還され、テルミジア公国も手放すことになります。そして幾つもの邦国の独立を許し、法の瓦解時代と呼ばれる長い低迷期に突入することになるのです。


○法の瓦解時代(聖歴302年〜聖歴493年)

 弱体化したカイテインを立て直したのは、エルミターン民族の血を引くルーヴィン一族です。当時のエルミターン人はグレイザン地方の奥地へと追いやられていたため、大魔戦争には積極的に参加することなく、戦力を維持して期をうかがっておりました。その後、ルーヴィン一族は武力と引き替えに皇帝に取り入り、帝国の重職に就くことに成功します。そして皇帝の遺言により、幼い皇帝ファルケの摂政の地位を得て、国政の殆どを取り仕切ることになったのです。
 これに反発したのが前皇妃カロリーネで、庶子であるファルケ(母親不明)を後継者に指名した先皇帝の遺志をも不服とし、自らの子ザリンチェロを擁立して正統後継者を名乗ります。また、エルミターン一族が名門出身ではないため、諸侯は彼らが摂政位に就くことを不満に思い、多くの一族が前皇妃の側につきました。しかし、カロリーネ派がスレイラール人を優遇したため、キタン民族系の貴族は皇帝ファルケに味方し、国家は大きく2つの勢力に分かれることになります。そして聖歴493年に、ポズオルの乱と呼ばれる決戦に勝利した皇帝派は、捕らえたカロリーネ、ザリンチェロ、および近臣たちをすべて処刑し、一部辺境を除く国家の平定に成功します。この戦いに大きく貢献したルーヴィン一族は皇帝の正式な後見人となり、その長であるヴィラロスは大公爵という世襲の摂政位に就きました。


○大公爵の治世(聖歴493年〜聖歴624年)

 初代大公爵であるヴィラロスは、忠誠心をことのほか露わにして皇帝に仕えたのですが、時代が進むにつれて皇帝は傀儡として扱われるようになります。こうしてルーヴィン一族は、帝国の実権の殆どを握って権勢を極めますが、聖歴573年(ペドナー大公爵の治世)に、これまでの慣例を破って大公爵家から皇妃を出そうとしたことで、諸侯の大反発を受けることになります。また、これとほぼ同じ時期に隣国ペトラーシャの継承戦争に出兵するのですが、諸侯はその一昨年の冷害時に出た難民への対策を取るために、満足に兵を揃えることが出来ませんでした。エルモア西方への進出の機会を逃すまいと、大公爵は国内問題を棚上げにして強引に出兵するのですが、旧式の装備しか揃えていなかった帝国軍は近代兵装の前に惨敗を喫し、盤石だった支配体制に亀裂が入りはじめます。
 さらに聖歴589年に大公爵位についたラマルカは、一族の者からも暗愚と囁かれるほどの人物で、政治的な能力は殆ど期待できませんでした。その一方で新たに即位したユードオン帝は聡明さで知られる傑物で、遊興に耽っていた先代の皇帝とは違って、政治の立ち入った部分にも細かく口を挟むようになります。皇帝は政治的権限を取り戻すために、大公爵による専制政治を廃して他家貴族の政治参加を提案し、キタン人を中心とした地方諸侯と手を結ぼうと試みました。もちろんエルミターン族はこれに反発し、中央集権体制を崩すまいと様々な謀略を仕掛けます。
 しかし、ユードオンの友人であった陰謀家コルネーユ=ヴォートランが司法省に登用されると、まもなく状況に大きな変化が生じます。まずコルネーユの調査により、ルーヴィン家筋の官僚貴族による宮廷管理費の着服など幾つかの大きな犯罪が明るみに出て、大公爵に連なる一族は公的な信用を失うことになります。そして、その数年後の聖歴621年に皇帝の妹ヒルギッタが湖で変死するという事件が起こるのですが、彼女の側仕えの者が大公爵の甥にあたるディルフィップ伯爵の犯行であると証言したことから、帝国の内部情勢は一変します。ディルフィップ伯爵はヒルギッタと恋仲であると噂されていた人物であり、事実、死体が発見される前日の夜会において、2人がともに姿を消すところを目撃されています。
 皇帝は大公爵ラマルカの留守をいいことに、確実な証拠もなしに伯爵を幽閉し、迅速に裁判を進めて死刑の判決を下します。ルーヴィン一族のみならず、エルミターン貴族は結集してこれに異議をとなえるのですが、伯爵本人が弁明をすることもなかったために、大公爵の帰還を待たずして処刑されることになりました。また、その直後にヒルギッタの護衛担当だった騎士(この時点では辞任後)が、路上で大公爵家一門の騎士と小競り合いになり、相手を殺害してしまうという事件が起こりました。目をかけていた甥と家臣を殺害されたことに憤慨したラマルカは、怒りのおさまらぬままに皇帝に反旗を翻し、3日後には帝都防衛を担当していた軍の大半が、皇帝の居城を完全に包囲することになります。しかし、ひそかにコルネーユが帝都付近にひそませておいた皇帝派の軍勢が速やかにこれを包囲・挟撃し、地方のエルミターン兵が帝都に到着する前に大公爵を討ち取ることに成功しました。
 残されたエルミターン貴族は、わずか2年のうちに辺境へと散り散りに追いやられてしまいます。このうち数家は、現ルワール大公国との国境付近に位置していたリュメイヌ公国と手を結んでこれに対抗するのですが、最終的には逆臣として討ち取られてしまいました。そして、続く1年のうちに数家を除いた殆どのエルミターン貴族が根絶やしにされ、大公爵という称号とともにカイテインの歴史から姿を消すことになります。


○第3帝国期(聖歴624年〜)

 こうして皇帝は現カイテイン領の殆どを手中に収め、第3帝国期と呼ばれる支配体制を築き上げます。一連の行動を計画的にすすめ、戦いをきわめて短期間で済ませたことで、皇帝はもともとの帝領の人民を殆ど失うことなく政権を取り戻すことに成功しました。しかし、諸侯に協力を仰いだことで恩賞として土地を分け与える必要が生じ、キタン人の優遇政策を取らざるを得なくなります。また、諸侯との約束通り、帝国の政治は寡頭有力貴族を中心とした合議制政治へと移行し、強力な中央集権体制を維持することは出来なくなりました。
 しかし、それまで大公爵一門が政治の実権を握っていたことで、地方諸侯の多くは帝国全土の統治に携わった経験がなく、最終的には旧政府の中央官僚を身内に引き入れた皇帝派が、憲法の制定を含めて実際の業務を一手に引き受けることとなります。そのため、国家安定のために暫定的に定めた皇帝優位の法律を安定後も引き継ぐなど、かつてより皇帝の地位は飛躍的に向上しました。また、領地替えに乗じて発生した農民反乱を押さえるためと称して導入した、中央政府主導の警察制度や巡察使といった地方監査制度が正式採用されることになり、皇帝は諸侯を監視・予防する手段を手に入れる結果となりました。実際、この時期に幾つかの地方反乱が起こっており、これらがその鎮圧に実に有効に機能したことで、諸侯も制度そのものを否定するわけにはゆかなかったのです。
 これらの改革と並行するように行われたのが聖母教会の国教化でした。それ以前にも北西部では深く信仰されていたのですが、南東部のキタン人の間ではこれまであまり熱心に信仰されることがありませんでした。多民族の集合国家であるカイテインは統一されたイデオロギーを持っておらず、国家をまとめる政策の1つとして民衆の教化を求めたのです。これは各国の風潮であった近代化への一歩として、学校教育制度の改革に伴う形で行われたものであり、聖職者の多くが初等学校教師として各地へと派遣されることになりました。同時に、皇帝の政治相談役として宮廷司祭を招き入れたり、教会に対して国家給費が支払われるなど、その他幾つかの優遇策が取り入れられました。
 しかし、後のハルネス1世の治世になると、霊子機関導入に関する衝突で宮廷司祭の地位が消滅することになります。続くジュミール3世、ハルネス2世も西方諸国に倣った近代化を推し進めるのですが、国家給費の支給を止めるなどして、その障害となる聖母教会の地位を低くしています。


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