ソファイア王国/歴史

略史詳細史


 

略史


 前聖歴825年にフィアン王国として建てられた国で、ユナスフィール教国の次に古い歴史を持ちます。建国当初はシリーシア人(現ロンデニア)と争っていましたが、これに敗北するようになると、現セルセティアに進出するようになります。しかし、聖歴3年になるとフィアン王家は断絶し、外戚とその他有力諸侯たちの間による内乱が勃発します。この争いは聖母教会の介入でおさまり、聖歴7年には王家の傍系となるウェルシャン家が王位を継ぎ、国名もソファイアに改められることとなりました。しかし、この争いで植民地に対して隙をつくることとなり、聖歴8年にセルセティアの独立を許しています。
 その翌年の聖歴9年、ベルメック王国(現ロンデニア)のラートリー朝が断絶しますが、ソファイア王は母がラートリー家の出身であることから継承権を主張し、両国の間に55年戦役と呼ばれる戦いが始まります。この戦いは聖歴65年に終結し、ベルメック国内のミュンフ家が王位を継承して、ロンデニア王国と国名を改めることになりました。この戦いが元でソファイアは弱体化し、長い時間を費やして王国の復興に努めることになります。
 その後のソファイアはアリアナ海貿易に力を注ぎ、キルリア王国(現メルリィナ)やフェルディガン王国(現ユノス)と結んで勢力を拡大します。そして聖歴353年には、フェルディガン王国と結んでロンデニアを破り、多くの権益を得ることとなりました。また、フェルディガン王国がディランドナ王国と聖ユノス王国に分裂すると、両国の争いに加担して現ヴィスク地方の3候国を手に入れます。
 しかし王国の繁栄は続かず、聖歴400年代の半ばになるとエリスファリアの支援を受けたルバイオ王国(セルセティア北部)に破れ、セルセティアの植民都市から撤退することになります。また、キルリア王国の王位継承問題に干渉し、キルリア内のソファイア筋の貴族と結んで戦いを行うのですが、これに破れて反ソファイア派のブレイヴィオ侯爵によるメルリィナ王国が成立します。その後の国内では、敗戦の責任問題に関して王家と諸侯との間で軋轢が生じ、国王の暗殺事件が起こります。そして、クーデターによってレザスティ子爵が王位に就き、その後の内乱も制して正統後継者として認められることとなります。
 これによって国内はしばらく混乱しますが、やがて中央集権体制が整うと再び国外へと目を向けることになります。そして聖歴603年になると、セルセティアに味方してメルリィナ王国と争いますが、ロンデニアがメルリィナに加担したことで敗北します。しかし、聖歴633年に聖ユノス王国内のシリーシア人が独立運動を起こし、これにロンデニアが加担して内戦となった時、ソファイアはユノスに味方してフォージニア候国(現リュケア地方)を手に入れます。また、聖歴660年代に入ると、ユノス西部で農民反乱が起こるのですが、ソファイアはこれにも干渉してヴィスク地方を得ると、ユノス救国の名目の元にさらに東へと侵攻を開始します。しかし、ユノス民衆義勇軍の活躍によってソファイアは退却を余儀なくされ、ナイキストア山脈の中央部を境とする現在の国境が規定されました。
 これらの戦いによってソファイアは低迷期を迎えますが、諸侯の力の凋落に伴って王権は相対的に強化されました。しかし、このことが後の王国の発展を妨げ、産業改革という面で明らかに外国に遅れを取ることとなります。その反動から、タイレル12世の時代には再び国内産業の発展促進や植民地市場の獲得を目指すこととなり、セルセティアへの侵攻が行われます。ソファイアは一時的に勝利を収めて、この地に貿易港を得ることになりますが、やがて聖歴740年代になるとセルセティア王国に破れ、敢えなく撤退する羽目になるのです。また、聖歴756年に起こったユノスで人民革命が起こり、亡命貴族の要請を受けてユノスへの進軍を開始しますが、ロンデニアおよびフレイディオンの支援を受けたユノスに敗北します。この敗戦が決定的な打撃となり、以降のソファイアは国外への干渉を一切行わず、国家の立て直しに力を注ぐことになりました。
 しかし、聖歴768年に即位した現国王タイレル14世の時代になると、再び王家を中心とした中央政府の腐敗が顕著となってゆきます。このように中央の腐敗が頂点に達しつつある現在は、州権を取り戻そうという地方の動きが各地でみられます。特に南部のマイエスルッツ州の反発は激しく、やがて王国との争いになるのではないかと懸念されています。


◆ソファイア年表

前聖歴 出来事

825年〜
 現ソファイアの中央部にフィアン王国が誕生する。その後は徐々に版図を広げてゆき、現ロンデニアのアナリシア島南部を支配する。

450年〜
 オールビー王国の侵攻により、現ロンデニアの領土を失う。
300年〜  オールビー王国内部で分裂が起こり、ラートリー朝ベルメック王国が成立する。
152年〜  フィアン王国がセルセティアを征服する。この時、セティア人の一部が現ユノスの地に移住する。
聖歴 出来事

3年〜
 王家が断絶し、継承権を巡る内乱が勃発する。

7年
 王家の傍系となるウェルシャン家の長子がタイレル1世として即位し、国名もソファイアに改められる。

8年
 現セルセティアで反乱が起こり、この地域の植民地を失う。反乱軍にはベルメック王国(現ロンデニア)が加担。

9年
 ベルメック王国(現ロンデニア)との間で55年戦役と呼ばれる継承戦争が起こる。

65年
 55年戦役が終結し、ベルメック国内のミュンフ家から国王を出すことで決着。この時に国名がロンデニア王国と改められる。

328年
 王朝が交替して、シャンベルグ朝が創始される。

353年〜
 フェルディガン王国とロンデニアとの間で戦いが起こる。ソファイアはフェルディガンに味方して勝利し、ペルソニアのシュティクラヴル王国との独占交易権を手に入れる。

421年
 フェルディガン王国から分裂したディランドナ王国と聖ユノス王国の争いに干渉。聖ユノス王国に味方して勝利し、ヴィスク地方の一部地域を得る。
450年〜  ルバイオ王国(セルセティア北部)とエリスファリアの連合軍と争うが、これに破れてセルセティアの植民都市を失う。

471年
 パドウィック朝キルリア王国(現メルリィナ)が断絶。ソファイアは継承問題に干渉して進軍を行うが敗北。478年に反ソファイア派のブレイヴィオ侯爵家によるメルリィナ王国が建国される。

479年
 国王の暗殺事件が起こり、クーデターによってレザスティ子爵が王位を簒奪する。その後、国内では内戦が勃発。

488年
 レザスティ子爵が内乱をおさめ、正式に王位を継承する。

603年
 セルセティアとメルリィナ王国の戦いに干渉。セルセティアに味方して戦うが、メルリィナ、ルワール、ロンデニアの同盟軍に敗北。

633年
 ユノス国内でシリーシア人の独立運動が起こる。これに民族を同じくするロンデニアが加担して内戦へと発展するが、ソファイアの味方を得た聖ユノス王国が勝利する。

660〜676年
 ユノス南西部で農民反乱が起こる。ソファイアはこれに干渉してリュケア地方北部を得ると、ユノス救国の名目の元に侵攻を開始するが、ユノス民衆義勇軍の活躍によって退却。現在の国境線が確定する。

730〜740年
 セルセティアでの戦いに加担して貿易港を得るが、やがて北島がセルセティア王国に征服されたために撤退。

756年〜
 ユノスで人民革命が起こり、共和政府が樹立される。ソファイアは亡命貴族の要請で進軍を開始するが、ロンデニアおよびフレイディオンの支援を受けたユノス革命政府に敗北する。

770年
 現国王のタイレル14世が即位する。


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○フィアン滅亡〜ソファイア誕生(〜聖歴7年)

 前聖歴825年にフィアン王国として建てられた国で、ユナスフィール教国の次に古い歴史を持ちます。建国当初は現ソファイアの中心域を支配するのみでしたが、その後は徐々に版図を広げてゆき、一時は現ロンデニアのアナリシア島南部を支配するまで領土を拡大します。しかし、前聖歴450年頃になるとシリーシア人のオールビー王国がロンデニア地方に進出し、この地の支配権を失うこととなりました。
 その後、オールビー王国とは幾度も戦いを繰り返しますが、失った領土を取り戻すことは出来ず、南方へと領土拡大の道を見いだすことになります。そして、前聖歴152年には現セルセティアの地を征服し、これを完全に支配下へと置きます。
 しかし、聖歴3年になるとフィアン王家は断絶し、外戚とその他有力諸侯たちの間による内乱が勃発します。この内乱は聖母教会の介入により思いがけず短期間で終結し、聖歴7年には王家の傍系となるウェルシャン家の長子がタイレル1世として即位しました。そして、国名もソファイアに改められることとなりました。


○ソファイア王国の発展(聖歴7年〜353年)

 しかしソファイアは、この内乱が原因で国外に対しても隙をつくることとなりました。聖歴8年にはセル人とセティア人が協力してフィアンを追い出し、セルセティアの地にハラーシュ連邦国が誕生することとなります。この独立が成功したのは、セルセティアをペルソニア大陸進出への中継基地にしようと考えた、ベルメック王国(現ロンデニア)の力添えがあったためです。このためソファイアとベルメックの仲は悪化したのですが、ここでこの捻れた関係を最悪にする1つの出来事が起こります。
 セルセティア独立の翌年である聖歴9年、ベルメック王国のラートリー朝が断絶することとなりました。この際、ソファイア王のタイレル3世は、その母がラートリー家の出身であることから継承権を主張し、両国の間に55年戦役と呼ばれる戦いが始まります。両国は互いに退くことなく勇猛に戦い続けたのですが、やがて双方とも国政に破綻をきたし、また、幾つかの諸侯の独立をも許す結果となりました。このような事情から聖歴65年に戦いは終結し、ベルメック国内のミュンフ家から国王を出すことで決着を得ました。なお、この時ベルメックはロンデニア王国と国名を改めています。
 この長期の戦争によって騎士や諸侯の力は哀え、結局は王権が強化されることになりました。王家主導のもとで国内の立て直しが図られ、戦乱時に王国を離反した地域を再統合するために時間を費やすことになります。
 その後、聖歴150年代までには現ソファイアの3/4ほどの地域を支配し、やがてアリアナ海貿易に力を注ぎます。その途上でラガン帝国やロンデニア王国と対立を繰り返したため、現メルリィナにあったキルリア王国と手を結ぶなどして勢力の拡大に努めます。また、聖歴200年頃には現セルセティアの南部にあったベルナール王国を通じて、ペルソニア大陸との交易を開始します。さらに、ブルム内海の貿易に関する制海権を手に入れるために、聖歴284年に成立したフェルディガン王国(現ユノス)とも関係を深めてゆきます。
 この間、海洋での小競り合い程度の戦いはありましたが、ソファイアは大きな戦いを経験することなく、比較的平和な治世を過ごします。そして聖歴328年には王朝が交替して、シャンベルグ朝の時代が始まります。前期シャンベルグ朝は華々しい歴史を誇り、セルセティアを介したペルソニアとの貿易などを通じて国力を蓄え、再び大国へと発展してゆきます。
 その後、ロンデニアがペルソニアへと目を向けるようになると、ブルム内海の監視が甘くなり、フェルディガン王国の台頭を許すことになります。これに対して聖歴353年、ロンデニアは制海権をかけて争うのですが、ソファイアがフェルディガンに加担したためにこれに敗北して、ブルム内海の覇権をフェルディガン・ソファイアの連合に奪われることになりました。この時の条約によってエストルーク領がフェルディガンに譲渡され、ソファイアはペルソニアにあった銀の王国シュティクラヴルとの独占交易権を手に入れることになります。代わりにフェルディガン・ソファイアは、それ以後20年の間は同盟を結ばないことになりましたが、これによってソファイアは莫大な銀を手に入れ、エルモア地方でも屈指の大国へと成長することとなります。


○栄光と衰退(聖歴353年〜478年)

 その後フェルディガン王国内では、この時のエストルーク領の扱いについて、諸侯の意見が割れることとなり、フェルディガン王国は民族(セティア人とシリーシア人)が2分して争うことになります。そして、それから15年の間にセティア人を中心とする勢力は南部に移って、新たに聖ユノス王国を建国します。これに対して、北部のシリーシア人は新たにディランドナ王国を建て、現ユノス領は南北に分裂することとなりました。これに対してソファイアは、アリアナ海貿易の問題から聖ユノス王国と手を結ぶ道を選びます。そして、後には現メルリィナにあったキルリア王国とも手を結んで、アリアナ海貿易を支配して隆盛を誇ることとなったのです。
 その間、ユノス北部を支配したディランドナ王国では継承問題が元で内部は混迷し、国力は低下する一方でした。この隙をついて聖ユノス王国が南部から侵攻を開始し、これにソファイアも加担することとなります。そして、戦力に劣るディランドナ王国は2年で完全に制圧され、聖歴421年に聖ユノス王国に併合されることとなりました。この時の条約により、現ヴィスク地方の3候国を手に入れることとなります。
 この戦いは思いのほか激しく、一時的に軍の立て直しに力を費やすことになりますが、ほどなく国力はそれまで以上に増強され、再び国外へと目を向けることになります。そして分裂状態にあったセルセティアの貿易都市に進出し、都市の保護の目的でこれらを植民都市化するようになります。やがてソファイアは防壁や砲台を築いて、これら都市を要塞として扱い、ペルソニア貿易の航路を確保するための重要な拠点としますが、後にペルソニア進出を目論むエリスファリアが、王権の保護と称してルバイオ王国(セルセティア北部)を支援するようになると、2勢力間で戦乱が起こることとなりました。しかし、この戦いはエリスファリアの支援を受けたルバイオ王国が勝利し、ソファイアはこれら植民都市から撤退することになります。
 この敗北の挽回を目論む王家は、聖歴471年に起こったパドウィック朝キルリア王国(現メルリィナ)の断絶に際して、パドウィック家と親戚関係にあることを理由に介入し、パドウィック家の唯一の血筋と言われていたエレリア王女を後継者に指名し、彼女を自身の孫ジュリオと結婚させて王位に付けることを画策します。しかし、メルレイン王家の血を引くブレイヴィオ侯爵家は、国内第一の力を持っていたポルリーニ公国の当主トレビスと子供たちの婚姻を約束し、自家を王国の宗主とすべくメルレイン王家筋の諸侯に協力を要請します。そして、エレリア王女を自称する娘を捕らえて、拷問の末に身分を偽ったということを白状させ、その正統性を真っ向から否定して処刑してしまいます。
 キルリア南部のソファイア筋の貴族はこの所業に激しく怒り、ソファイア王国軍と共同で北へと進軍します。また、後キルリアの王室は国内の諸勢力から反感を買っていたのですが、エレリア王女は庶民に味方した数少ない貴族で、国民からは非常に人気が高かったため、これに連動して幾つかの抗議運動も起こりました。しかし、ソファイアの野心を知る諸侯は、国民の声を無視してブレイヴィオ侯爵家に味方して戦います。そして、7年ほどの戦いの後、ソファイアは敗北を喫して王国からの撤退を余儀なくされ、残された国内南部のソファイア筋の貴族は多くがソファイアへと亡命することになります。こうして聖歴478年には、侯爵家を首長とするブレイヴィオ王朝メルリィナ王国が誕生することになりました。


○王位簒奪(聖歴478年〜488年)

 その後、ソファイア国内では出兵を主導した宰相のアルヴァラッド侯爵に対する反発の声が上がり、アシュリー=レザスティ子爵がその地位を受け継ぐことになります。しかし、レザスティ子爵は出生を疑われて王位継承権を剥奪された者であり、王家への更なる権力の集中を恐れた諸侯は、有力貴族のうちのセブレイス公爵の子シャンドルを宰相の地位に推します。これに対して、国王トレイユは反対者の親戚筋に当たる諸侯を、アルヴァラッド侯爵と同様に敗戦の責を取らせて罰し、所領を没収することで圧力をかけました。
 この処遇に対しては、さすがにセブレイス公爵も王に対して怒りを露わにしますが、表だってこれに反発することは出来ませんでした。しかしこの時、思いがけずレザスティ子爵が裏で諸侯に提案を持ちかけるのです。その内容とは王位簒奪についてであり、子爵の継承権を認めるかわりに王国の要職を与えるというものでした。
 諸侯はこれに乗り、短期間のうちに王都を制圧して国王を暗殺すると、新たなる貴族議会を創設して子爵の王位継承を承認したのでした。しかし、第一王女ローザと第三王女リルミアが逃げのび、王家の血筋に当たるシュターナ公爵家を中心とした軍を結成して、レザスティ子爵派の討伐のために進軍を開始します。
 この戦いはやがて子爵側が優勢になり、ピルグリア城陥落の際にローザ王女が捕らえられ、幽閉後に処刑されてしまいました。この時、亡き王を弔うために聖母教会に入っていた王妃ロウィーナは、愛娘の仇を取るために教会を出て、中立派諸侯の取りまとめ役としてシュターナ公爵のもとへと赴きます。しかし、母親の異なる第三王女リルミアは王妃を疎み、独自に有力貴族の力を得ようとしたため、まとまった軍力を揃えることが出来ずに終わるのです。
 これが原因となって子爵は戦いに勝利し、聖歴488年、正式に王位を継承することになります。この時、子爵は自らの血筋の正統性を示すために王朝名を変えず、シャンベルグ朝ソファイアをそのまま受け継ぐこととなりました。そして、創始王であるタイレルの名を息子に付けることまでしております。しかし、アシュリー王の血の正統性を認めない歴史家も多く、これ以降の国家を第二ソファイア王国、もしくはシャンベルグ第二王朝と呼ぶ者もいます。


○シャンベルグ第二王朝(聖歴488年〜676年)

 その後、アシュリー王は残りの生涯をかけて国内を立て直すことになります。彼は中央集権体制を整えるために反対諸侯から領地を没収し、これを王領としたり佞臣にのみ分け与えました。そして、地方諸侯の勢力を積極的に削ぐための改革を断行し、王家と中央貴族偏重の官僚制度を作り上げるのです。この時に成立した制度は現在の国政の土台となっておりますが、これが国家の発展を妨げているという現状があります。
 聖歴520年代になるとソファイアは再び国外へと目を向け、ロンデニアやエリスファリアといった海洋の強国が国内問題で揺れている隙に、アリアナ海貿易で大きな権益を得ることになります。しかし、この時期のセルセティアは国外勢力を疎んでおり、また、ラガン帝国との争いに時間と費用を取られたために、思うようにペルソニアへ足を伸ばすことは出来ませんでした。
 その後、聖歴603年になると、セルセティアがアリアナ海の交易問題でメルリィナ王国と争いますが、ソファイアはこの機を逃さずセルセティアに味方して情勢の逆転を狙います。しかし、この時メルリィナは長年の敵対心を払拭する目的も含めてルワール大公国と同盟を結んだために、やがてソファイア・セルセティアの連合軍と互角の戦いを繰り広げるようになりました。そして、最終的にロンデニアがメルリィナの味方についたことで戦局は逆転し、3国はアリアナ海の制海権を握ることになります。セルセティアはこれによって力を失い、海上の要衝に位置しながら衰退の道を辿ることになったのです。
 この一件から再びロンデニアとの確執が表面化しますが、既に近代国家への道を歩み始めていたロンデニアは、近代兵装による強力な常備軍を整えており、未だ古い体制に縛られているソファイアはことごとく海上での戦闘で敗北を喫することになるのです。それにもかかわらず、軍制を含めた国内改革が行われることはなく、損失の埋め合わせは国民への税に求められました。
 その後、聖歴633年にユノス国内のシリーシア人が独立を果たそうと北部で運動を起こし、これに民族を同じくするロンデニアも加担したことで、ユノスは内戦へと発展することになります。一時、シリーシア人勢力は北部からセティア人を追い出して自治を勝ち取りますが、ロンデニアへの敵対心からソファイアがユノスに味方したことで情勢は逆転し、多くのシリーシア人貴族がロンデニアに亡命することとなりました。なお、この戦いによって、ソファイアはフォージニア候国(現ヴィスク地方)を手に入れます。
 聖歴660年代に入ると、再びユノス国内で大農場での過酷な賦役労働に対して反発した農民反乱が西部で起こるのですが、ソファイアはこれにも干渉してリュケア地方の北東部を得ると、ユノス救国の名目の元にさらに東へと侵攻を開始します。しかし、ユノス民衆義勇軍の活躍によってソファイアは退却を余儀なくされ、ナイキストア山脈の中央部を境とする現在の国境が規定されました。その後ユノスは、失ったリュケア地方の奪還を目的としてソファイアへの侵攻を開始しますが、結局これを奪い返すことが出来ないまま出兵を繰り返し、悪戯に財政を圧迫することになります。この戦いは、聖歴676年のウォールデン王朝(ユノス)の断絶とともに幕を下ろすこととなりますが、結局ソファイアは実入りのない戦いに人員と経費を投じただけとなりました。


○衰退朝(聖歴676年〜現在)

 これらの戦いで領土は拡大しましたが、国庫の破綻によってソファイアはかつてない低迷期を迎えます。しかし諸侯の力の凋落に伴って、王権は相対的に強化されることとなりました。この時期の国王タイレル11世は慎重かつ臆病な性格で、国外で起こっていた人権革命などの影響が国内に及ぶのを恐れ、書物や書簡の検閲を行うための秘密警察組織を整えたり、外国人に対する入国制限まで行うようになります。しかし、秘密警察の検閲が行き過ぎて、運営にかかる費用が膨大なものとなったことから、国内では非難の声が相次ぎ、次の王の時代にはこの制度は廃止されるようになります。
 この制度が以降のソファイアへと及ぼした影響は大きく、産業改革という面で明らかに外国に遅れを取ることとなりました。その反動から、タイレル12世の時代には再び国内産業の発展促進や植民地市場の獲得を目指すこととなり、セルセティア進出を決定します。当時のセルセティアでは、ロンデニアの支援を受けた勢力が南島で革命を起こして、新たなるセルセティア王国を建てておりました。そのため、ソファイアは北島の反革命勢力に力を貸して、この地に貿易港を得ることになります。これによってわずかに国力を高めたのですが、やがて聖歴740年代になると、北島はセルセティア王国に征服され、ソファイアは敢えなく撤退する羽目になるのです。
 その後、聖歴756年にユノスで起こった人民革命によって、かの地には民主化の波が押し寄せることになります。革命は極めて短期間のうちに決着し、国外勢力の干渉を招かぬまま、革命指導者を中心とした共和政府の設立が宣言されました。王制は即座に廃止されなかったものの貴族の地位は低下し、かつての特権の多くを失った貴族たちは、次々とソファイアへの亡命を果たします。この時ソファイアは、亡命貴族の要請を受けてユノスへの進軍を開始しますが、ロンデニアおよびフレイディオンの支援を受けたユノスは、この撃退に成功します。この敗北が決定的な打撃となり、以降のソファイアは国外への干渉を一切行わず、国家の立て直しに力を注ぐことになります。
 しかし、聖歴770年に即位した現国王タイレル14世の時代になると、再び王家を中心とした中央政府の腐敗が顕著となってゆきます。これは一向に改まることなく、増強された国力以上に宮廷の浪費が激しくなり、王家への富の偏在に拍車がかかることになるのです。
 このように中央の腐敗が頂点に達しつつある現在は、地方の権力を取り戻そうという動きが各地でみられます。そして、王家に反発して行動を起こしたのが、フェオリル地方のマイエスルッツ州を中心に活動している貿易商のイリオ=ガトラスゥムです。彼によって国外産の工業機械や霊子機関が導入されたことで、この州の貿易や産業は飛躍的な発展を遂げることとなりました。この工業改革の波は徐々に全土に広まってゆき、州権強化の面でもマイエスルッツが要となっています。
 しかし、これら改革派の動きは王家、教会、それから古くからある同業者組合のすべての方針と逆に位置づけられるものであり、いずれ力への闘争へと移行するのは誰の目にも明らかです。その先触れとして、パジェナウア市では同業者組合のメンバーを中心とした集団が工場に押し入り、機械を全て破壊するという事件が起こりました。工場側は傭兵を雇ってこれに対抗する策を取っており、現在は死人こそ出てはいませんが、やがて血生臭い事態になるのも時間の問題でしょう。こういった一連の事情をややこしくしているのが聖母教会の存在で、霊子機関の導入をよく思わない教会をどのように扱うかで、工場主たちは頭を痛めています。


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