歴史


 


○統一前時代〜併合

▼エクセリール王朝
 サリュンティル市を含むティルノーブリア地方は、古くにエルモア地方の大国として存在した、マイリール人によるエクセリール王朝の領土でした。この王朝はカスティルーン南部、ペトラーシャ東部、ルワール北部、エリスファリア、ジグラット、カイテインの一部地域を含む王国であり、当時のエルモア地方では最大の勢力を誇っておりました。
 しかし、前聖歴412年にエルモア中央部にイーフォン皇国が誕生すると徐々に衰退を始め、聖歴12年のジグラット王国の独立に端を発して、幾つかの小王国に分裂することになります。そして現在のペトラーシャ東部地方もまた、エリンプラッフ王国としてエクセリール貴族の末裔が統治することになりました。


▼エリンブラッフ王国時代
 当時、サリュンティル市のある場所は、レオリア砦と小さな農村があるだけの土地でした。ここに街が誕生するのは、エリンプラッフ王国時代の聖歴300年代のこととなります。
 聖歴273年、エリンプラッフ王国は北のテルミジア公国およびマウロリディア公国と結んで、西部にあったペトラーシャ連合王国へと侵攻を開始しました。この動きに対して、ペトラーシャは法教会を通してランカード朝カスティルーンを味方とし、逆にエリンプラッフ王国の2/3以上を領土とすることに成功します。
 この時、エリンブラッフ王国に残った貴族のうち、レヴァンス伯爵家が再興の地に選んだのが現在のサリュンティル市の一帯です。この周辺地域はベルアジュールと名付けられ、聖歴320年代にはレオリアの丘にベルアジュール城が建設されます。そして、それから100年の時間をかけて、ゆっくりとベルアジュール領は発展を遂げてゆくのです。


▼ペトラーシャ連合王国への併合
 その後、聖歴400年代初頭まで、エリンブラッフ王国による支配は続くのですが、聖歴433年にペトラーシャ連合王国の侵攻を受けます。この頃のエリンブラッフは内部で分裂状態にあり、王国の北部を支配していたラヴュシエール侯爵家が離反すると、多くの家がそれに追随しました。そして、聖歴435年の終わり頃に、遂にオルトード王家は降伏勧告を受け入れることになります。
 オルトード家の忠臣として最後まで戦い抜いたレヴァンス伯爵家は、この敗北によって廃絶に追い込まれました。そして、新たにウィレット伯爵家がこの地に封ぜられ、それから約200年に渡って支配を行なうのです。


▼発展期
 その後、ウィレット伯爵家の統治時代に、国境に近いこの街は交易都市へと姿を変えます。そして、聖歴500年代になると、大きく蛇行し氾濫の多いオルセル川から、治水と水運のためにフルーレ川を引いて、さらなる街の発展の基盤を作り上げました。


▼城の移転
 聖歴524年、地震によってレオリアの丘で土砂崩れが起こり、ベルアジュール城の約3分の2が崩落します。これにより、城はフルーレ川沿いに移転することになったのですが、この時代になるとベルアジュール領が戦乱に巻き込まれることもなく、ウィレット伯爵も経済の発展の方に力を注いでいたため、領主の新しい居城は最低限の防御機能を備えた城館として建設されました。そのため現在でも、この建物は旧領主邸あるいは旧伯爵邸と呼ばれることが多く、城と呼ばれることは滅多にありません。


○継承戦争〜人民革命(聖歴565年〜659年)

▼ペトラーシャ継承戦争(聖歴565年〜643年)
 聖歴400年代中頃から、長く安定した治世を送っていたペトラーシャ連合王国ですが、聖歴565年にペトラーシャ継承戦争と呼ばれる大きな国内紛争が勃発します。これは世継ぎを指名しないまま王が急死したために起こったもので、数多くの勢力が入り乱れて70年余りの長い期間継続しました。主な勢力として王母派、王妃派、王妹派の3つがあり、女性を中心とした争いだったので、これを女継戦争と呼ぶこともあります。
 この頃の伯爵家の当主だった「ラピス=ウィレット」女伯爵(聖歴528〜579年)は、いずれの勢力にも加担することなく、周辺諸候と結束して中立を守ることを選択します。これは聖歴550年頃に現ルワール北部を手に入れたルワール大公国や、出兵の噂のあるカイテイン帝国を警戒してのことでしたが、やがて長く続く戦乱に心を痛め、国家の安定に力を尽くそうと考えるようになります。こうして伯爵家は、各勢力の調停役と民衆の保護を目的に活動していた法教会を積極的に支援し、後に「法の楯」と呼ばれる第4の勢力として、長く活動を続けることになるのです。
 その後、法教会が穏健的な救済策を捨て去り、農民を中心とした反乱勢力に助力して革命を起こすことを計画すると、当主である「キュリアン=ウィレット」伯爵(聖歴571〜629年)は、迷わず革命勢力に身を投じることを決意します。そして、その思想を受け継いだ孫の「ユーン=ウィレット」(聖歴627〜664年)まで、代々の当主は革命勢力の指導者として名を残すことになるのです。


▼人民革命(聖歴643年〜659年)
 その後、聖歴643年に継承戦争は終結しますが、民衆による内乱はおさまるばかりか更に勢いを増し、国内の殆どの地域を制圧してゆきます。そして、聖歴658年にはデルニース5世および6世の立てこもる王城を包囲して無血開城させ、残る王族のすべてを捕らえて王朝を打倒するのです。
 この翌年の聖歴659年1月3日、人民投票によって王政の廃止が決定され、ペトラーシャの政治は民衆の手に渡ることになりました。王家はその後も存続しますが、国王は象徴的存在と規定され、政党と三権分立制による近代政治制度が誕生します。また、貴族の地位は残されているものの、支配者として保持していた特権の殆ど全てを失うことになりました。
 民衆の支持を得ていたウィレット家は、これらの諸制度の改革にも深く携わり、ユーン=ウィレットは新政府の行政大臣の座に就くことになります。しかし、彼はまもなく没落した貴族の1人に殺害され、その子らも病や事故で相次いで亡くなってしまい、ウィレット家の勢力もまた、その他の貴族と同じように少しずつ衰えてゆくのです。


○サリュンティル市の誕生と発展(聖歴659年〜現在)

▼サリュンティル市誕生
 聖歴659年にはじまる国政改革によって、ベルアジュールの名は県として引き継がれ、新たな行政区としてサリュンティル市が誕生しました。そして、継承戦争時から勢力を維持していたこの街に県庁が置かれ、ティルノーブリア地方の中心都市として、陸上交易を通じて発展を遂げてゆきます。また、大きな戦乱に巻き込まれずにいたこの地に、多くの芸術家や文芸家たちが移り住んだことから、やがて芸術文化の都市としても名を知られるようになるのです。


▼天使の降りる街
 その後、聖歴700年代に入ってから、サリュンティルは観光都市としても名を広めるようになります。このきっかけとなったのが「天使の広場」の建設です。もともとこの土地には、ウィレット伯爵家が所有する城館の離れと庭園があったのですが、聖歴672年に市に売却されています。その後、一部を改装して美術館や資料館として公開していたのですが、聖歴685年に発生した大火によって、建物や庭園の殆どが失われてしまいました。
 その後、ここには広場を建設することが決定されるのですが、離れが建てられていた場所を整地している途中に、以前は存在しなかった小さな泉が湧いていることに気付きます。そして、この泉が姿を現わしてから、後に「癒しの風」と呼ばれる奇跡の風が吹くようになり、この土地は天使が降りる場所と噂されるようになるのです。
 このことから、ここは「天使の広場」と名付けられ、泉の真ん中には平和の象徴である天使像が建てられました。やがて、たくさんの街路樹に囲まれたこの美しい広場には、数多くの巡礼者が訪れるようになります。そして、聖歴770年に三国鉄道が開通すると、それまで以上に人々が集まるようになり、サリュンティルは観光都市としても大きな発展を遂げることになるのです。


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