10回目という区切りの回に末席ながら関わらせていただいたものとして個人的に感想を述べさせていただく.
末席ながら,と書いたのは,こうした写真展に出展するには「写真」というメディアに対し,その表現にまつわる最低限のスキルに欠けているという自覚がある故である.
ただ,近年では「ボケ」「ブレ」など表現上のテクニックとして,その表現内容とレリヴァントであれば「それもアリ」な状況であるとも言えるが,それにしても本人の自覚は致命的であると思われる. そういったところで,基礎を踏まえた方々の表現へのスキルとテクニックは展示に対する 「表現のあり方」 なるものを考えさせる端緒となった. その意味で,いわゆる印画紙に焼き付ける銀塩写真にこだわらない表現形式の多様さは,表現の現在性たるものを具現化していたといえよう. ヴィデオによる形式があり,また映像を焼き付けられた板で作製された小屋による作品があり,その形式の多様さは「写真」という語義が示す内包を徐々に融解させていることを如実に示しているといえるだろう. しかしながら,そうした作品の難しさは新奇さによって,またその意図を熟考させるにいたるのが難しいことであるようにも思われる. もちろん,作者・表現者が 「なにを,どのように,どこまで」 その意図を伝えようとするのかという問題とも関連するのであるが, 鑑賞者にとっての新奇さはただ単に 「目新しいこと」 で終わってしまう可能性がないわけではないだろう. 写真に,アートに,作品に,あまり触れる機会のない人たちに対してなにをどう伝えられるのか, 表現がコミュニケーションのひとつのメディアであり,それを伝える 「他者」 が存在する限り,絶えることのない命題であるとは思われるが, そうした命題に対しての作者なりの回答というものは, 今回の作品からあまり感じられることはなかった. もちろん,そこまで求めるのは酷な話では在ると思うのだけれど. 一方で,写真として従来の形式による表現形態も数多く存在し, そうした作品はこちら側にも安心して見ることができたように思う. 写真表現,創作活動というひとつのキャリアに対するスキル獲得を通じて, 己の表現を伝える術を体得しているものが多く見られたように思える. 今回の出品者の中ではこうした形式を採択した者に年長者が比較的多かったことも関連しているのであろうが, 表現の発信者としてのステイタスを獲得しており,作品を介したコミュニケーションに際して受信者としても安心して鑑賞できることが可能であった. その両者をたとえると,他国語で会話しなければならない相手と, 母国語でコミュニケートできる安堵との違いといえるかもしれない. もちろん, そうした表現形式においてのみ, 単純に圧迫-安堵という図式にあてはめることができるものではないし, 今回の出品者のもつ作品を鑑賞するに際し,手がかりはそれだけではない. ただ一般的に,表現者が陥りがちな, 表現メディアに依存することでその表現内容の妥当性を欠く可能性はここで指摘しておいて良いことではないかと思うのである. 表現者は自己の内的世界を具現化するためにあらゆるメディアに携わるのであり, 具現化された作品はあくまでも他者の鑑賞のもとに作品としてのレゾンデートルを獲得する. この認識論上の事実を踏まえた上で, 表現者がどのように表現するのかということについて,再考の機会を与えられた写真展であった. 最後に,てめえらのことを棚にあげて書きたい放題書いてしまったが, ここに書いたことは無論,今回の写真展に限ったことではない. しかし,自分のその末端に関わったことで, 自分なりに再度考え直してみようと思ったことは確かである. また,それぞれの表現活動の中で,めぐり会えたらいいっスね. |
<かるでぺ>編集長 中津川和幸 http://member.nifty.ne.jp/kamiyan/culdev/culdev.htm |