ほーだい日記

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福山雅治と中川昭一

福山雅治さんが何かのインタビューに答えて

<僕が育った長崎では、8月9日には登校して黙祷した。

その後、原爆をテーマに作文を書く、というのが夏休みの決まりだった。

長崎に生まれたものとして、いろいろな機会に、原爆のことを話していきた

い。>

彼のような人気者が、自分の身の回りの起きた世界でただ二つの出来事を言い

続けているのは、本当に意義があると思う。

自民党政調会長の中川昭一議員が、核保有論議をすべき、と言い始めた。

麻生太郎外務大臣もこれに賛同。

自民党内のリベラル派と言われる久間章生防衛庁長官等がこれに反対し、党内

で意見が割れてるように見える。

中川議員は、議論もいけないのかと言っている。

議論もいけないのか?

と一般論的言葉で言われれば、議論をすることを悪いとは言えない。

しかし、議論をすること、ということで本音を誤魔化そうとしてるようにボク

には思える。

ここのところはこの話しさえ立ち消えになっているが

ちょっと話しをして引っ込め、そのうちみんなを慣れさせる、という感じを受

けるのだ。

中川昭一議員の目指す意義ある使命というのは一体何なんだろう?

10月のある金曜日、東京のFM局Jーwaveで一つのCDが紹介された。

音楽をメインにオンエアーしてる放送局でありながら、このCDは歌でない。

8時間40分あまの語りなのだ。

紹介した人は、高瀬毅さん。

この人も長崎出身。

被爆者248人の証言を集めてCDを制作したのは伊東明彦さん。

元NBC(長崎放送)の記者だった。

この中から2つ紹介します。

8月10日 長崎

しばらく行きますと神学校がございまして、
「ペシャン」とせんべいを叩き潰したように大地に
ひらみついておりました。
そのそばにはですね、8人も寄らねば抱えられないような
大木が倒れておりましたので、それを越えるわけにもいかないで、
透かし見ますと、人ひとり通れそうにもございます。
私は背中から子供を下ろして、胸に抱きながらそこの間を這って通りました。
そして、半ば通りかけたときに、
そばの方から『水、水…』という声が聞こえるのです。
私は「はっ」と思ってそっちを見ますと、黒いものが蠢いております。
また、反対の方でも『水、水…』『助けて、助けて』。
それはもう無意識に言っているような声が聞こえる。
この大木に叩き倒された人たちの悲鳴でございましたろうか。
私はどうすることもできないで、胸の子供をしっかり抱きながら、
その間をにじり出まして「ほっ」としたとき、ジーッジーッっと、他に音もない、
その、夜のしじまを破って、地虫が鳴いていたこと、
これはもう私の忘れることのできない音でございました。

8月10日

夏のことですし、朝、夜が明けるかあけないか、
ですから4時か5時には山を降りたんだろうと思います。
目指す岡町のところまで来た訳ですが、
電車は吹き飛ばされているは、むごたらしい残骸を晒しておりました。
それから、やはり家の外に倒れている方が沢山居られたような気がします。
で、めざす私の家にやっとたどり着きました。
と申しますのは、目印がないもんですから、と同時に道がないもんですから、
本当に十数年間、そこで生活しておったんですけど、ちょっと戸惑うというか、
家を探すような格好だったんです。誰もいませんでした。
もちろん亡くなられた方がいっぱいそこに倒れているのですが、
生きている人がひとりもいないんです。
そして、この、私のこの両手で白骨になっておられる方々の頭蓋骨をですね、
両手で持ち上げましてね。お袋は金歯が多かったんですねー、
ですから、金歯を目印でやったらいいんじゃないかと思いましてね、
この両手を、今でも見つめる時があるんですけどね、
この両手で何十となく、遺骨というか頭蓋骨をですね、抱き上げるというか、
そして歯を見る。そして、これじゃないなと思っては元へそっと戻す。

被爆者284人の証言を集めたCD作品

「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」

以下のページで聞くことが出来ます。

http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html

中川昭一議員には核爆弾の結果のイメージがないのではないか。

これに賛成してる人も同じじゃないか。

日本は唯一核被爆国だ、と言うが

聞き慣れてしまって、どんなに悲惨な状態だったかというイメージが薄くなっ

ている。

長崎で育って、すっかり戦後になってたはずなのに

子供の頃の爆心地には、建物の瓦礫がたくさん残っていた。

これは夢のような風景で、天使のレリーフとか、建物の装飾の一部とか

破壊された破片の山の中に僕が立っていた記憶がある。

浦上天守堂という大きな教会が壊れた跡、と知ったのは大分後になってからだ

った。

8月9日当時のこの周辺では、まだ死んでない人たちの苦しい気配にあふれて

いた、と想像する。

少なくとも、かの地で育ったものとして、福山雅治さんや、高瀬毅さん、伊東

明彦さんのように、しつこく言い続けることを忘れてはいけない。

そう思った2006年の年の暮れ。

2006.12.18

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