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1978年 3月結成

都内墓所の居酒屋にて、気の合う仲間で「野球でもやろうよ」と言ってそれに賛同したメンバーで結成。

仲間といっても野球経験者はおらず、年齢も決して若い連中ではなかったので、非常に弱かったと聞いている。

尚、その時チーム名「ラムズ」と命名されたようだが、今となってはその由来は不明である。

一説には、酒のラム酒だとか、羊年の連中で結成したからだとか、etc・・・

ただ、NFLのRAMSからとったのだけは無さそうだ。

初代監督は、浅野さんでした。

 

 

1983年 3月柴田選手入団(第1期黄金時代)

現役大学生柴田選手が入団。RAMS初の硬式野球経験者として、その活躍を期待される。

後の2代目監督として就任する。

 

 

1988年 8月日産グリーンカップで活躍

当時草野球の総本山的大会「日産グリーンカップ」で埼玉県大会準々決勝まで進出する躍進を遂げる。

当時のメンバー曰く、とにかくくじ運に恵まれたとか・・・

 

 

1989年 3月柴田監督誕生(2代目)

初代監督浅野氏の一言で、柴田氏の監督就任が決まる。20代の監督の誕生でした。

改革すべき点が多々あったようで、その第一弾にユニホームのリニューアルに着手します。

 

 

1990年 4月ユニホームリニューアル

監督柴田氏自らデザインしたユニホームは、ピンストライプに左胸にRAMSのロゴが施されたユニホーム。

現在ではスタンダードとなったタイプではあるが、当時は各メーカーのカタログに載っていなかった

オリジナル制の極めて高いデザインであった。

そして、このデザインは21世紀の今日も着用されている。

 

1991年 大物選手続々入団?(第2期黄金時代)

この年、鈴木・新倉ら現在の首脳陣が入団。小粒だったチームイメージをこの2人で大きく変えることになる。

尚、1993年には、「女を紹介するから」というスカウト戦術で、斉藤選手が入団する。(スカウトマン・鈴木)

 

1994年 RAMS解散危機!

この年これまで使用していた大宮健保Gが事情により使用できなくなり、活動回数が激減(年間試合9)。

結果、予想通りチーム解散の危機にさらされる・・・数名の退団者が出た・・・

 

1995年 新生RAMS誕生!越谷市連盟加入・大物選手入団

前年と同じ轍を踏まないようにする為に、首脳陣を再整備した。

監督・・・柴田 キャプテン・・・箱山 副キャプテン・・・小野寺

経理・・・松岡 広報・・・鈴木 

又、これまでどの連盟にも所属していなかったが、越谷市住民が多いことから

越谷市軟式野球連盟に登録を果たす。

 

3部からのスタートで、春は、何と不戦敗(人数不足)

今では考えられない失態をしております。

続く秋は、どうにか準優勝し、翌年の2部昇格を手中にした。

 

この年はルーキーの当たり年ともなる。

監督柴田氏自ら口説き落とした選手3名が入団。

その後の常勝RAMSの基礎を作った選手たちである。

(長沼・田波・彦坂)*彦坂は現在も在籍

 

1996年 春季越谷大会2部優勝(第3期黄金時代)

1995年の勢いをそのままに、春の越谷大会(2部)を圧倒的な力で優勝する。

おそらく、このころがRAMSが一番強かったシーズンかもしれない。

彦坂・長沼・田波の3本柱がフル回転。

 

1997年 サンスポ初出場・越谷市1部昇格・HIDE WORLD開始・謎のテスト生

日産グリーンカップが消滅し、首都圏の野球チームはサンスポ出場を目指すようになる。

この年RAMSは初出場を果たす。(2回戦敗退)

 

越谷市1部に昇格。優勝こそ出来なかったが、手応えは十分であった。

 

又、この年「HIDE WORLD」を立ち上げる。

そのHPで入団募集を募ったところ(現在も継続して募集中)、数名の入団者が申し込み。

こちらから返信したところ、返事のあったのは1名のみ・・・

その男こそ「杉様」こと杉本敏明選手であった。(この年から3年間テスト生として在籍)

その後、毎年2名ほどの入団者を迎え、現在の人数に至る。

 

1999年 秋季越谷大会1部優勝・柴田監督勇退

昇格して4年。何度となく優勝するチャンスがありながら物に出来ないでいたが、

この年の秋の大会で、ミラクル的な勝利を積み重ね見事優勝を飾る。

大会MVPは彦坂選手。彼は、3部(敢闘賞)2部(MVP)1部(MVP)と、

越谷大会の名物選手として有名になる。

 

その年の納会にて、正式に柴田監督の辞任を発表。

次期監督に、鈴木氏を指名。

 

又、RAMSの中心選手田波・渡辺洋が転勤で退団。

代わって、98年大内・99年小金井が入団し、その穴を埋める以上の活躍を見せる。

 

2000年 多難な船出・・・新監督鈴木(第4期黄金時代?)

サンスポ・マリン杯・春季越谷大会いづれも初戦敗退、草魂CUPはよもやの3回戦敗退。

結果が出ずに焦りがあったが、その夏以降ようやく鈴木イズムが浸透してきて、

秋季越谷大会ブロックにて優勝を飾る。

これまでのような、派手な勝ち方は出来ないが、個々の力を最大限に発揮し、

戦うチームカラーはこれからも続ける。

 

2001年 鬼門の準決勝 草魂カップ1部第3位

就任2年目の鈴木監督のスタートは、順調そのものであった。

サンスポこそ2回戦でサドンデスで敗退したものの、

2000年の越谷選手権では、見事3位の成績を収める。

また、夏以降の大会でもマリンカップ4回戦進出、

草魂カップ第3位・秋季越谷大会第3位と、好成績を収める。

しかし、準決勝の壁を破れないRAMSを象徴する年でもあった。

 

2002年 試練の時

3年目の鈴木政権にとって、もっとも苦しいシーズンとなった。

越谷大会春・秋1回戦敗退。

サンスポ・草魂カップも1回戦敗退。

どうしても越えられない壁に、ナイン全員がもがき苦しんだ。

結果が出ないチームの中、エース彦坂の自覚と

若手の小金井に力がついてきたことが唯一の

来年以降の希望として繋がった感がある。

 

2003年 再出発

衝撃の越谷2部降格は、選手の気持ちを逆に一つにする

要因となった。

まず、15年着続けた縦じまユニホームをオープン戦用とし、

グレーの公式戦ユニホームを新調した。

生まれ変わったRAMSは、再び戦う羊と化した。

初参加のアークカップでは、予想以上のベスト8に進出。

ストロングカップでも無敗で終える。

草魂カップでも2年ぶりにベスト4に進出し、

その勢いそのままに秋季越谷大会では見事優勝し、

翌年の1部復帰を確実のものとした。

また、春には東京ドーム・秋には甲子園で試合を実施し、

活動の幅の広さも見せ始めてきた。

 

2004年 スタジアムの華

越谷1部復帰となったこの年、新たにスタジアム企画を

全面に出して活動をした。

神宮球場2試合・東京ドーム2試合・西武ドーム・横浜スタジアム

そして、甲子園球場。

試合に勝つことと同時に、野球の楽しさを再認識した年となった。

この年、インターネット入団第1号杉本選手が

転勤となった。

 

2005年 種まきの時

3月これまでRAMSの精神的支柱であった浅見助監督が広島へ転勤。

そしてショート・ピッチャーとして2000年からRAMSの中心的な役割を

担ってきた伊地知選手が福岡へ転勤。

加えて、彦坂投手の復帰が見込めないばかりか、

主砲大内選手が故障により1年間試合に出ることが出来ない状況であった。

そこで、チームの方針を180度切替、若手中心のオーダーで組む転換策を取る。

勝率こそ500程度であったが、失敗の中から若手の成長を感じ取ることの出来た

貴重な年でもあった。

尚、この年草魂カップ2部(土曜日の部)で128チームの頂点に6月立っている。

 

2006年 新しい芽が!

これまで固定していたレギュラーメンバーに、若手が割って入ってきた年。

4番長坂やセカンド清水、投手・野手で大車輪の活躍結城など

20代のプレーヤーの活躍が、目を引いた。

また、新加入浜本・荻原といった名門高校出身者の加入で

メンバーの層が厚くなった年でもあった。

 

2007年 新世代到来

ルーキー桂太の加入で打線に大きく厚みを増し

3年目長坂も主軸としての自覚が出てきて

大きくチームが変化してきた年だった。

越谷大会はいずれも準々決勝敗退するが、

確かな手ごたえのある年といえたでしょう。

ナゴヤドームでのj紅白戦実施。

 

2008年 あと一息!!

秋季越谷大会10年ぶりの決勝戦進出。

善戦空しく敗退したが、

実力が本物に変化してきたことを実感できた年であった。

秋季草魂カップ優勝

GBN予選リーグトップ通過

するなど、オープン大会での成績も

好調であった。

また札幌ドームでのオープン戦

千葉マリンスタジアムでの活動も実施。

 

2009年 代表として

この年より越谷市の代表として

各方面の大会に出場。

羽生観光協会争奪

東部選手権

草加・八潮市との親善試合。

一段階上のクラスでの試合をこなすことによって

さらなるレベルアップが図られた。

ルーキー田代が入団した年でもある。

越谷大会は春・秋ともに準決勝敗退。

ついに九州福岡にも上陸。

ヤフードームでの紅白戦実施。

 

以上が、これまでのRAMSの歴史です。(創設3 2年目)

昨今の不況もどこ吹く風!

RAMSは年間約60試合を精力的に

行っています。

北は北海道での札幌ドーム遠征

南は福岡でのヤフードーム遠征。

プロスタでの活動も35回を数え、

球場も10球場制覇しました。

真剣モードの公式戦と

娯楽モードのスタジアムツアーと

うまく織り交ぜながら

1年1年思い出を積み重ねていっています。

 

年長プレーヤーもついに今年50歳です。

最年少でも25歳。

円熟した野球を今年も展開していきます!!

 

「参加者=ベストメンバー」               

 2010.1.4  Hideyuki.S

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