Wait for you



「…それでは23日には、レイ様は学校を休んでいただきます。来賓の方々は9時以降いらっしゃいますので、レイ様は1時間で準備をお済ませになって…」
 スケジュール表を読み上げる執事の声を、レイはさしたる感動もないまま聞いていた。冷房の完備された伊集院邸は外の暑さからは隔離されているが、それがレイにとっては無機質的な感覚を覚える。
「レイ様、聞いてらっしゃいますか」
「聞いている。よけいなことを言わず話を続けたまえ」
 執事は表情を変えることなく、抑揚のない声でプランの内容を告げる。
 毎年盛大にとり行われる伊集院レイのバースディパーティ。準備はとどこおりなく進められており、儀式はとどこおりなく執行されるだろう。よくも飽きずに繰り返されるものだ。
「そして、これがレイ様の読み上げる挨拶文でございます」
「ああ」
 文面に目を走らせたレイの唇に冷笑が浮かぶ。忠実なる執事はクリスマスのことを思いだしたのか、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「この上なく素晴らしく陳腐な内容だ。ここまでくると感動を覚えるね」
「…くれぐれも勝手な行動は慎まれますよう。ご両親も心配してらっしゃいます」
「ああ、わかってる。今回はおとなしくしているよ」
 『今回は』という言葉に執事はもう一度眉をひそめるのだが、そのままなにも言わず退出した。
 心配?彼らが心配しているのは伊集院コンツェルンの利潤だろう。
 伊集院レイは邪魔な金髪をかき上げると、声を出さずに笑った。髪を切ろうかとも思うのだが、面倒なのでやめた。

「やぁ、おはよう」
「…おはよう」
 彼も一応礼儀をわきまえているらしく、挨拶には挨拶を返してきた。
「まったく今日も暑くてかなわないね。僕のように高貴な者となると、クーラーのないところではとても生活できないよ」
「はいはい」
 レイのくだらない会話に、彼はいつも苦笑しながらつきあっている。レイとしては怒らせるつもりで嫌味を言っているので、この態度は不本意なことこの上なかった。
「…先に行く」
「おい、何怒ってるんだ?」
「怒ってなどいないさ」
 教室へ入ってみれば、いつものとおりの平和な連中。狭い世界を囲いながら、幸せそうに笑ってる。
「伊集院くん、おはよぉ」
「レイ様、おはようございますぅ」
「ああ、おはよう」
 何人かの女子が近づいてきて、レイの言葉にきゃーっと歓声を上げる。その姿にレイも笑いを返すのだが、その目が冷気の微粒子を含んでいることには、その場の誰も気づかないのだった。
 なにも知らない、幸せな連中。私には関係ないけどね。

「伊集院、次体育館だぜ」
「あ、ああ」
 心の中で笑っていた彼女に、彼の声がかけられる。ふと気づくとクラスの男子は、既に教室を出たあとだった。
「…君は、ずいぶんと僕のことを気にかけているようだね」
 廊下を並んで歩きながら、前を向いたまま尋ねてみる。返答は予想できた。
「そりゃ、おまえって他に友達いないもんな。今だって俺が声かけなけりゃ…お、おい」
 不意に足を早めるレイに、彼はあわててついていった。追いついてレイの顔をのぞき込むのだが、その表情は氷のようで、内面をうかがう術はない。
「なかなか君らのようにほいほいと友人を作れる立場でもないのでね。あまり馴れ馴れしくしないでくれたまえ」
「‥‥‥‥‥‥」
 しばしの沈黙の後、彼は控えめに口を開いた。控えめとはいえ口を開いたことに変わりはなかったのだが。
「確かに伊集院家の跡取りとかで大変だとは思うけど…。いつもそうやってお高く止まってるのも疲れるだろ?たまには羽目はずせよ」
 レイは立ち止まると、くるりと振り返った。その冷笑に彼は思わず鼻白む。
「大変有り難いお言葉、感謝しているよ。さすが庶民は言うことが違う」
「…お前なぁ!」
「どうした?」
 レイの目は明らかに怒ることを期待していた。それに気づいた彼は無理矢理感情を抑えると、レイを残して行ってしまう。
 彼の言いたいことはわかる。彼がどんなどんな気持ちで言っているかも。おそらく彼以上に、それがどんなものだかわかっている。
「偽善者…」
 その名前を苦々しくつぶやくと、人気のなくなった廊下をレイはゆっくりと歩いていくのだった。


 蒸し暑い1日が終わり、外井の運転する車に乗り込んだ。後ろから女子の黄色い声が飛んでくる。
「今日も女の子達が騒いでおりますな」
「ああ、当人たちはあれで幸せなのだろうね」
 くっくっと楽しそうに身をかがめるレイに、外井はバックミラー越しに複雑な視線を向ける。
「どうした?外井。別に私設部といっても私が頼んだわけじゃない、彼女たちが作りたいと言うから勝手にやらせてるだけさ」
「はぁ…」
 外井にとってレイは敬愛すべき主人なのだが、こういう言葉を聞くとむしろ痛々しさを禁じ得ない。レイの生い立ちを知っているだけに尚更である。
「…レイ様、木下さんを悲しませるようなことはおやめなさいませ」
「お前にだって嫌いな奴はいるだろう?」
 それは事実なので、外井としては反論できなかった。
「茜やおまえがどう思おうが、嫌いなものは嫌いだよ。あいつらも、伊集院家も、あいつも…」
 自分も、とは彼女は口には出さなかった。言うほどのことでもなかったのかもしれない。
「(学校で何かあったのだろうか)」
 外井はそういぶかしむのだが、それがあの少年のせいだとは、外井はおろかレイ自身も気づいてはいなかった。


 夏休みが始まった。

 伊集院家は世界に名だたる大富豪であり、その事業は実に多岐に渡る。一人娘である伊集院レイには順当に行けば次期当主となるはずであり、手を変え品を変え彼女に近づこうとする者は、どんなに邪険に扱おうが決して後を絶つことはなかった。
「死肉に群がるハイエナのようだな」
 つまり自分は死肉なのだろう。そのつまらない結論にレイは鼻を鳴らすと、日曜日だというのに自室のソファーで本を読んでいた。彼女には娯楽がなかったから。
「レイ様、よろしいでしょうか」
「ああ、入っていいよ」
 顔も上げずにそう言うと、紅茶の香りと共に茜の足音が聞こえる。紅茶をテーブルに置いて隣に座る彼女に、レイは優しく笑いかけた。
「もうすぐレイ様のお誕生パーティーですね」
「ああ…そういえば茜は初めてだったっけ。くだらない宴会だよ」
 紅茶をすするレイの顔は氷の彫像のように綺麗で、同性の茜も思わず見とれてしまう。
「でも、大勢の方がお祝いにいらっしゃるんでしょう?」
「ビジネスに来るんだ。暑いのにご苦労なことだな。あんな連中に祝われても不愉快なだけだが」
 吐き捨てるように言うと、そのまま紅茶を飲み干した。茜がなにか言おうと口を開きかける。
 リリーーン
 レイの動きが一瞬止まった。わざとらしく舌打ちすると、おもむろに電話を取る。
「伊集院だが」
『もしもし』
「また君か。いい加減にしてくれないか、僕は庶民と違って忙しいのだよ」
『そう言いながらいつも部屋にいるじゃないか…。何やってたんだ?』
「君には関係ないだろう!」
 苛立たしげに声を上げたレイだが、茜の視線に気づいてあわてて声を落とした。
「で、何の用かね」
『いや用はないんだけど、なんとなくさ。最近暑くてどこにも行く気起きないし、そういえばおまえは夏休みどこか行くのか?』
「ああ、カナダの別荘にでも行こうかとは思っている。もっともパーティが終わってからだが…って、なんで僕が君と話をしなくてはならんのだ」
『いいだろ別に。おい…』
 ガチャン
 放り投げるように電話を切ると、レイは茜に視線を送る。
「まったく…あいつは何を考えているのだろう」
「き、きっとレイ様が心配なんですよ」
 空になったカップに紅茶をそそぎながら、茜はおずおずとそう言った。
「私の?何が?」
「だから、レイ様が寂しいんじゃないかって…」
 不意にレイの目が薄氷の彩りを帯び、茜は思わず立ちすくむ。
「二度とそんなことを口にするな」
「す、すみませんっ!」
「いや…」
 今までも『伊集院家の跡取り』である彼女に同情する者も幾人かはいた。それに対するレイの返答は冷笑だったが。別に自分は不幸ではないし、勝手に哀れがってる連中こそよほど哀れというものだろう。自分は茜まで嫌いになりたくはなかった。
「茜は綺麗なんだから…私のことを理解る必要はないよ」
 まだしゅんとしてる茜の頭をなでながら、レイは淡々と言い聞かせる。身よりのない彼女をレイの元へ預けたのはきらめき高校の理事長でもある祖父だったが、その目的は1割程度しか達成されていないようだった。
「いずれおまえも伊集院邸を出ていくのだから」
「そんな…私、ずっとレイ様のおそばに仕えます」
「駄目だ」
 優しく、だがきっぱりと言うレイに、茜はなにも言えなかった。
 自分や外井のことを大事にしてくれているけど、それでも一線より中には決して入れようとしない。時折見せる冷たい視線は、いったい誰に向けられているのか…。
「そんな顔をするな。私は楽しいんだから」
 そう言うレイの顔が本当に楽しそうなのが、茜には何か怖かった。

 彼ならばどうなのだろう。なぜレイは、いつも部屋にいるのだろう?


『よぉ、伊集院』
「やぁ、庶民」
 他の人が聞いたら吹き出しそうな挨拶と共に、今日も彼は電話をかけてくる。
 クラスに1人はいる『友達屋』。1人でいる人間をみると親切ぶって世話を焼いて、『友達作った方が楽しいよ』などと自分の価値観を押しつけるこの手の連中には、自分としては吐き気を覚える。
『そういえばもうすぐお前の誕生日だったな。誕生会とかやるのか?』
「ああ、無論だ。君たちにはとても立ち入れない豪勢なパーティだがねぇ」
『そうか…』
 落胆したような声が聞こえた。
「まさか、君も祝う気だったのかね?」
『そりゃ、一応誕生日だろ』
「ふん…」
 数瞬の沈黙の後、公は話題を変えて世間話を始めた。レイとは縁のない世界の話だった。
「そんなことより、黄金の漬け物石の話をしてやろう」
『お、黄金の漬け物石?』
 思いつく限りで最もくだらない話を嫌がらせに長々と聞かせてやると、気が済んで電話を切った。時計を見ると、ずいぶん長いこと話していたようだった。


 今日も外は暑いようだ。部屋には珍しく母親が来ていた。
「それではレイ、誕生日には伊集院家の顔としてしっかりやってちょうだいね。あなたは私たちの誇りなんですもの」
「もちろんです、お母様。ここまで育てていただいた恩は一生かかっても返せるものではありませんから」
 こうして2人並ぶといずれ劣らず美しく、いかにも親子と実感できる。
「本当にあなたはよくできた子ね、レイ。いつも私たちの期待に応えてくれて…」
「ありがとう、お母さん」
「私たちは誰よりもあなたを愛しているのよ」
 嬉しそうににっこり笑うレイが、裏で何を考えているかなど誰も見抜けなかったろう。母親を部屋から送り出すと、レイはしばらくくすくすと笑い続けた。茜が不安そうな表情でそれを見守る。
「昔彼女が私に言ったことがあるんだ。『自分の子を愛さない親はいない』ってね」
「は、はい…」
「言ってる本人が反例というのは笑える話だな」
 安物三文ドラマならそれは誤解として扱われるのだろうが、明敏な、しかも17年間を過ごしてきたレイには、誤解などしようもなかった。まして清廉潔白な財閥などあり得ない。
 期待させるのは、裏切るため。
「この家はどこか歪んでるんだよ、茜。早く出ていくことを考えた方がいい。茜までおかしくなってくるからね」
 レイの目は楽しそうに笑っていた。茜はレイが大好きなのに…
「それならレイ様、私と一緒に出ていきましょう」
 それは予想された言葉だったので、レイは笑いをおさめて静かに答える。
「行かないよ」
「なんでですか!?レイ様だって普通の女の子なのに」
「私が?」
 レイの顔に再び笑みが浮かぶと同時に、電話が鳴った。いつものように不愉快そうな顔で、彼女は電話を取る。
「なんだ、また君か?だいたい…」
 長くなりそうだったので茜は紅茶を置くと、そろそろと部屋を退出した。


 その日外を見回っていた外井雪之丞は、屋敷のまわりをうろうろする1人の少年を見つけた。
「レイ様のお友達でいらっしゃいますか?」
「あ、は、はい。俺は一応そのつもりなんだけど…」
「少々お待ちください」
 レイの部屋の電話が鳴り、そそくさと彼女は受話器を取った。外井の声に一瞬落胆するが、事情を聞いてさらに複雑な表情をする。
「…この暑いのに、何を考えているのだ」
「そういうお前こそその厚着はなんだよ…」
「紫外線は体に悪いのでね」
 もし自分が女だと言ったら彼はどんな態度をとるだろうか。それはそれで見物のような気がしたが、いつまでもこんな男に振り回されるのはもう御免だった。
「で、何の用だ?」
「少し散歩でもしないか?いつも家の中じゃ息も詰まるだろ」
「…わかった。少しだけならな」
 外井は黙って門を開けると主を送り出した。
「今日も暑いよなー」
「ああ…」
 雪のように白いレイの肌に、日差しが容赦なく照りつける。にじんでくる汗が気持ち悪い。
「いいかげん、僕に関わるのはやめてくれないか」
 数歩前を歩いていた彼の足が止まった。こちらに背を向けたままわざとらしく明るい声を出す。
「おまえ、楽しいか?」
「ああ」
「そんなわけないだろ?いつも1人でなにが楽しいんだよ」
 振り向いた彼はつとめて感情を抑えようとしている。賢明な判断だ。どちらにしろ同じことだったが。
「君とは住む世界が違う」
「伊集院家の跡取りだからか?そんなに家が大事なのか」
「大事?」

 急に…周囲の気温が下がったような気がした。今まで見たことのない種類の笑いが、レイの口に貼りついている。
「住む世界が違うって言ってるだろう?伊集院コンツェルンが裏でどれだけ悪どいことをしているか、君は全然知らないんだな」
 絶句する彼がレイには可笑しかった。堰を切ったように、冷たい声が流れ続ける。
「最初は家のために頑張ってたさ!ただの馬鹿だったよ、自分の両親のせいでどれだけ多くの人が泣いてるかも知らずに。いろんな人が自分を大事にしてくれてると思ってた。打算と計算の産物だなんてちっとも気づかなかった!!」
 いっそレイが明敏でなければ、彼女は幸せでいられたのかもしれない。少しずつ見えてくる真実が、少女の心を徐々に歪ませる。
「だったらそんな家出ちまえよ!」
「駄目だな、あんなもの放置しておかない。いずれ僕は伊集院家を継ぐ。手に入れて、跡形もなく消し去ってやる」
 くだらない連中、くだらない毎日。なにもかも嫌いだ。その中で自分が一番くだらないなら、伊集院家ともども破滅の淵へ落ちればいい。
「やめろよ、伊集院…」
 彼は額を押さえていた。理解不能だろう、住む世界が違うから。
「…それでは、失礼するよ」
 それ以上言うべき言葉も見つからず、レイはその場を立ち去った。彼は追っては来なかった。
 家に戻ったレイは、誰とも口をきかなかった。


「レイ様、どうかなさいましたか?」
「あ、いや」
 優しくて、純真な茜。彼女には幸せになってほしいけど、自分が幸せになりたいとは思わない。
「…電話、今日は遅いですね」
「ああ、もうかかってこないよ」
 ほとんど感情の消えたレイの言葉に、茜は思わずはっとした。
「な、なんでですか?」
「もともとかけてくる理由なんてないだろう…もうどうでもいいことだが」
 そうじゃない、あれが最後の1本の糸だった。
 なぜと聞かれても答えられないけれど、茜はそう思っていたのに。
「なら、レイ様から電話をかけられたら…」
「なんでそんな必要があるんだ?」
「わ、私がかけます!」
「余計なことをするな!」
 2人が受話器を取り合おうとした瞬間…電話のベルが鳴った。

 リリリーーーン リリリーーーン
 リリリーーーン リリリーーーン

 レイは受話器を取ろうとしない。手を伸ばそうとする茜を、視線で制する。

 リリリーーーン リリリーーーン
 リリリーーーン リリリーーーン

 永遠に鳴り続くと思われたベルは、レイの手によってその音を消された。
「なんの用だ」
『‥‥‥‥‥‥‥』
 言う言葉も見つからぬままかけてきたらしい。レイは小さくため息をつく。
「まだわからないか?」
『わからないよ…だからおまえが間違ってるなんて言えない。でも本当にそれでいいのか?』
「なにを熱くなってるんだ」
 レイの口から冷たい声が流れる。
 17年間少しずつ蓄積してきた、凍てついた憎悪。
『もうやめろよ。周りを憎むだけならなんのために生まれてきたんだよ…幸せを自分から投げ捨てるなんて、そんなの悲しすぎるよ』
「おまえが悲しいだけだろう…」
 苛立ったように机を叩く。なぜ自分はこの前、あんな事を言ってしまったのだろうか?
 なにもわかってない。こいつはなにもわかってないんだ。
「もう用はないな!」
『待て!』
 電話口の向こうで、息を整える声が聞こえる。
『友達になろう』
 茜は思わず息をのんだ。レイの中で、なにかが弾けたように見えた。
「友達…」
『今までみたいに電話で話すだけでもいい。友達になろう、伊集院』
 茜の口から無言の悲鳴がもれる。

「どの程度わかって言ってる?」
『‥‥‥‥‥‥‥』
 私はお前たちみたいに綺麗じゃない。

「周りにいくらでもいるくせに。
 どうしてそんなことが言える?ただのお前の自己満足だ」
 手に入らないわけじゃない。
 自分から背を向けたのだから、今さらそんな資格はない。

『そう言うならお前だって俺の気持ちわかってないだろ!?
 だからこれからわかろうって…』
「大きなお世話だ、別に知りたくない。
 言わなかったか?住んでる世界が違うって。
 なにも知らないくせに、下手に優しくなんてするな。
 心の底で同情してないって言い切れるか!?全部お前の自己満足だ」
『伊集院…』

「お前なんか嫌いだ。みんな、みんな嫌いだ!
 二度と電話なんてかけてくるな!!!」



 底の見えることもない、深い深い闇。
 もし優しさなんて存在するなら、ただそれを知らないというだけ。


 長い時間が過ぎた。誰も、口を開こうとはしなかった。

 チン・・・
 最後の電話は、静かに音を立てて切れた。



「レイ様、お茶が入りました」
「ああ」
 レイはソファーに座って本を読んでいた。電話はもう鳴ることはない。振り払われた手は、二度と差し伸べられることはない。
「レイ様…」
「別に…やることもないし…」
 虚ろな表情で、聞かれもしないのにそう答える。
 レイは自分に幸せになってほしいと言ってくれたのに。
「(…私がレイ様に幸せになってほしいと思うのは、いけないことなのでしょうか?)」
 その問いに答えるものはなかった。

 あれ以来レイは部屋にこもりっきりだった。電話を待ってるのかと聞かれれば本人は否定しただろうが、誰がどんな手を使っても決して電話のそばを離れようとしない。
「(…やっぱり、あの人のところへ行こう)」
 茜はそう思いはするのだが、どうやって探せばいいのかわからない。門のところで困っていると、不意に低い声がかけられた。
「木下さん、お乗りなさい」
 見れば外井が車を回してきている。手にはレイの組のクラス名簿があった。
 茜は迷うことなく車に乗り込んだ。

「あの人が…レイ様をこちらにつなぎ止める最後の糸だったんです」
 人の生き方には光と闇があって、どちらが正しいとは言えないのかもしれない。でも他の誰でもないレイにだけは、本当に心から笑ってほしいと思うのである。
「説得は木下さんにお任せしますよ」
「わ、私にですか」
「口惜しいながら、こういうことは女の子の説得の方が良く効くのです」
「は、はいっ」
 初めてレイに出会ったとき、楽しそうな人だと思ってた。事実彼女はいつも笑ってた。その笑いが自分自身を切り刻むためだと、どうして今まで気づかなかったのだろう。
「ここですね…」
 車から降りた茜は、迷わずにインターホンを押す。出てきた彼に自己紹介すると、外井を残して近くの公園まで歩いていった。彼もレイと同じくらい落ち込んでいるように見えた。
「あいつの言うとおりだったかもしれない。俺、なにも知らないくせに、あいつを救おうだなんていい気になってた」
 ブランコをこぎながらぽつぽつと話す。茜にとっては直接会うのは初めてだったが、どこにでもいる平凡な少年のように思えた。
「でも、レイ様本当は電話を楽しみにしてたと思うんです。お休みでもどこにも行かずに、ずっとお部屋で待ってましたし…」
「…だから余計に気に障ったんだよ…」
 たった1本の電話の相手は、自分みたいな人間だった。いつもなにか寂しそうな伊集院に、同情してなかったと言い切れない。
「…友達になってくださるんじゃなかったんですか?」
「俺には無理だよ…」
「そんな…!」
 相手の人生を背負えないなら、優しさなんて相手を傷つけるだけ。レイ自身にそう思い知らされて、今の自分になにができるだろう。
 相手の表情に、茜は自分の勇気がしぼんでいくのを感じた。
「も、もうすぐレイ様の誕生日なんです。レイ様は全然嬉しそうじゃないけど…」
「‥‥‥‥‥」
「だ、だから…お願いします!」
 自分の弱さを呪いながら、茜は公園を走り去った。後ろでブランコのきしむ音が聞こえる。
 車のところで待っていた外井は、なにも言わずに茜を伊集院邸へ連れ帰った。


「本日はお忙しい中伊集院レイの誕生パーティにおいでいただき、誠に感謝の…」
 各界の名士たちがレイに祝いの言葉を述べる。政治家、実業家、親戚達…。誰も彼も、レイの嫌いな連中ばかりである。あの日以来レイの心は空虚なままだったが、むしろその方が良いのかもしれない。
「これはこれは、ずいぶんとお美しく成長されましたな」
「ありがとうございます、叔父様」
「うんうん、卒業したらアメリカへ渡るそうだね。女の子がそんなことをして大丈夫かね」
「ご心配なく。そのために外では男として振る舞っているのですよ」
 卒業後彼女は帝王学を学び、その後伊集院家の後を継ぐことになっている。その時この目の前にいる男は最初の敵となるだろう。彼は自分の子供に伊集院家を継がせるべく、レイを蹴落とすことを企んでいるのだから。
 にこやかに笑いながら、レイの誕生日は過ぎていった。いずれこの場にいる連中はさぞかしレイを憎むことになるだろうが、それこそ彼女の本望である。


「お疲れさまでした、レイ様」
「ああ」
「あの、これ、私と外井さんからプレゼントです」
「私に?どうもありがとう」
 2つのプレゼントを受け取った時のレイの笑顔は以前より遠くて、茜は心の中に寒風が吹くのを感じた。
「ね、ねえレイ様。これから2人でちゃんとしたお祝いをしませんか?」
「ごめん、今日は疲れてるんだ。もう休ませてくれないか」
「そ、そうですか…」
 もうレイに自分の手は届かない。
 彼女はきっと自分の幸せのために心を砕いてくれるだろうけど、自分が彼女にできることは、もうなにも残っていない。
「おやすみ、茜」
「…おやすみなさい…」


 リリリーーーン リリリーーーン

 一瞬だけ、部屋の時間が止まったようだった。
 レイはゆっくりと電話に近づくと、震える手で受話器を取った。
「伊集院だが」
 パーンパパパーーーン!
 レイが受話器を耳に押し当てた瞬間、クラッカーの音が響きわたる。思わず仰天する2人に、向こうから聞き慣れた声が流れてきた。
『び、びっくりした?』
「あたりまえだ馬鹿者!!」
『…誕生日おめでとう』
 レイの右手はまだ震えている。なにも言えずに立ちつくす彼女に、ふいに茜の右手がそえられた。小さく息を吸い込んで、いつもの男の声を出す。
「つくづく懲りない男だね。つきあわされる僕の身にもなってくれたまえ」
『俺、考えたんだけどさ』
 彼の声は強くはなかったが、静かにレイの耳に流れ込んでくる。
『俺はまだなにもわかってないし、大したこともできないかもしれない。でも何かできることをしたい。俺はおまえと友達になりたい』
「やめろと言ってるだろう!」
『やめない!もう俺は引かない、何度でも電話をかけてやる。
 友達になろう、伊集院』

 振り払ったのは自分だった。なのに2度目の手が差し伸べられる。
 もう一度振り払っても?もう一度振り払っても。

「………やめてよ…………」
 レイの声は細すぎて相手に届かなかった。自分は彼が嫌いなのに、信じても裏切られるだけなのに、どうして糸は切れないのだろう。
『伊集院……泣いてるのか?』
「泣いてない」
 その言葉とは裏腹に、机の上に涙が落ちる。ひとつ、またひとつ。
 こんなの気がつきたくなかった。だから嫌だって言ったのに。
「泣いてないよ…」
 だから嫌だった。優しくなんてしてほしくなかった。
 でも、だったらなぜ…今の自分は、幸せそうなのだろう?

「…茜、ごめん。1人にしてくれないか」
「あ、は、はい」
 レイの涙は水晶のように綺麗で、それに見とれていた茜はあわてて視線をそらせた。レイはきっと見られたくなかったから。
 ドアのところで振り返り、流れる金髪を目に焼き付ける。今日が伊集院レイの、本当の誕生日なのだろうから。

「(おやすみなさい)」
 そうささやいてそっと扉を閉めると、茜は外井に話すため、廊下を小走りに走っていくのだった。



 たった1本の電話は、その日最後のプレゼント

 あなたがどんな道を進んでも、きっと幸せであるように…





<END>





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