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 すぐに医師と看護婦が飛び込んできた。
 栞の状態を確認し、香里に何か話しているようだ。耳には何も届かない。呆然としたまま壁まで後退し、ずるずると座り込んだ。
 何も……できなかった。
 死んでいく妹に、何も。
 ――栞はもう、どこにもいない。何も、取り戻せない。
 香里は座り込んだまま、ただ虚ろな目で床を見つめていた。


「…………?」
 妙な違和感を覚えて顔を上げる。
 確かに奇妙な光景だった。死後の処置をしていた医師たちが、壊れたビデオのように灰色になって停止している。
 それだけではない。世界すべてが停止した灰色の中で――
 横たわる妹と、その向こう側に立つ誰かだけが色を持っていた。

「……栞ちゃんの、お姉さん……?」
 じっと栞の顔を見ていた少女は、顔を上げ、小さな声で尋ねた。
 そうだ、見覚えがある。ダッフルコートと、カチューシャの少女。
「……そうよ」
 栞の友達。自分よりもよほど、栞の幸せに貢献した子だ。

「あなたには……悪いことをしたわね」
 呟くように言った。栞は病気のことを教えなかった。相手を傷つけないために。
 でも知ってしまった今となっては、少女はしばらく沈鬱な気分だろう。
 けれども勝手なことを言わせてもらえば、栞がそれを知ることがないのがせめてもの救いだ。少女には申し訳ないけど、生きてるんだからそれくらいは許容してもらえないだろうか。
「……でも、何でここに?」
「ボクも……ここに入院してるんだ。同じ階だったから」
「そう。それなら、気づいても仕方ないわね……」
 暗い声で会話を交わしてから、再び俯く。冷静に考えれば、おかしな話であることに気づいたろう。今の状況の奇妙さも。
 けれど、香里の思考能力はほとんど停止していた。
 自動機械のように、ただぼそぼそと言葉を吐き出すだけだった。
「あなたには、お礼を言わないといけないわ。あなたと一緒にいた栞は、本当に楽しそうだった」
「ボ、ボクは何も……。こんなこと、知らなかったし……」
「普通に接するだけで良かったのよ。あたしには……できなかった。あたしなんかより、あなたの方がずっと、ずっと栞に……」
「そ……そんなことないよっ」
 否定してくれる少女の言葉にも、何も動かない。
「栞ちゃん、言ってたよ。優しくて頭もよくて、自慢のお姉さんだって」
「……」
「だから……っ、大好きなお姉さんがいてくれて、きっと栞ちゃんは最後まで幸せで……」
「でも、栞は死んじゃったわ!」
 とうとう耐えきれず、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「十六年しか生きられずに、死んじゃったのよ! 結局はそれが事実じゃない。何が幸せなのよ。もっと生きたがってたのに、どうしてよ、どうして栞が……」
 力なく床を殴る。妹は何も悪いことなんかしていなかった。いつも周りの言いつけを守り、我が侭も言わず、辛いときも笑顔でいた。
 その結果がこれか。
 こんな酷いことが、現実なのか。
「そう……だよね」
 かすかに震える声で、少女は同意する。
「おかしいよね、こんなの」
 本当、不条理すぎる。
「きっと……悪い夢なんじゃないかな」
 ――顔を上げた。
 香里の暗い目に映る少女は、今にも泣き出しそうな顔で、何とかして笑おうとしていた。
「そうだよ。だって、この前まで一緒に遊んでたんだよ。
 栞ちゃんはいい子だった。死んじゃう理由なんて何もないよ。
 これは悪い夢なんだよ」
「そうね……」
 虚ろな声。
「本当、そうだったらいいわね……」
 それが、灰色の病室に反射した。

 何を引き起こすかなんて、分かるはずもなかった。


 突然、視界が白く染まる。
「――!?」
 反射的に腕で顔を覆う。少女の背後から光が射していた。
 その光の中へと、栞も、少女の姿も溶け込んで。
 自分の意識も消えていく中で、遠くに誰かの声を聞く。

「また会うって約束したんだから。
 こんな悪い夢は、早く覚めなくちゃいけない。

   栞ちゃんが死ぬなんてことが

         現実であるはず

                  ない――」







 それは覚えのある光。部屋に差し込む朝日に、眠りから引き上げられる時の景色だ。
「……お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 体を揺すられている。不覚だ。姉が早起きして、妹の体を揺するのが常だったのに。
 寝ぼけ眼で上げた顔を、心配そうに覗き込むもう一つの顔。
「どうしたの? うなされてたけど……」
 その声を、忘れるわけがない。
「……ひどい夢を見たのよ」
 ベッドの脇に突っ伏したまま寝てしまったらしい。既に身を起こしている相手に、手で朝日を防ぎながら、ようやくそれだけ言った。
「ふうん。どんな夢?」
「栞が死んじゃう夢」
「わっ。そんな夢見るお姉ちゃん、嫌いですっ」
 本当、縁起でもない。あんな夢を見るなんて。馬鹿みたい。心配性にも、程が……
「栞っ――!」
 弾かれたように、ベッドの上の妹に抱きついた。
「栞なの。本当なのね? もう大丈夫なのね!?」
「うん……心配かけてごめんね、お姉ちゃん」
「ばかっ! 本当よ、あんたって子は、いつもいつも……」
 体を離して、じっと顔を見てから、もう一度思い切り抱きしめる。
「もう、離してあげないからね。どこにも行かせないんだから!」
「うん……」
 温かい。生きてる。心臓の鼓動が聞こえる。
 当たり前だ、そんなの。だって一緒に、学校へ行くんだから!
「うん、お姉ちゃん……!」



 幸せな時間なら、瞬くうちに過ぎていく。
 栞の容態は見る間に回復し、医師は「信じられん! 奇跡だ!」を連発した。それでも大事を取って療養していたが、二月の終わりには退院できた。
 そして三月が来て、急に寒さが和らいだ頃。

「お姉ちゃん、行こっ」
 玄関前で、腕にぶら下がるようにして、制服姿の妹が抱きついてきた。
「やっぱり、四月からの方がいいんじゃないの? 今授業に出ても何だか分からないでしょ」
「いいのっ。何年も待ったのに、これ以上なんて待てないよ」
「ま、そりゃそうだけど」
 それにしても大きなバッグを抱えていたので、中身を尋ねたら「お弁当」という答えが返ってきた。何だか昼休みが怖くなってきたが、深く考えないことにしてゆっくりと通学路を歩く。
 校舎に到着してから栞と別れ、教室へ入って席につく。
「おはよう、名雪」
「おはよー」
 今日も眠そうな名雪。ぱらぱらと登校してくるクラスメートたち。いつもと変わらない光景だけど、気分が軽いと輝いて見える。
 一応授業を聞きながら、さて、どうやって妹をデビューさせようかなんて、贅沢な悩みを考えていた。

          (――おかしい)

 待望の昼休みになり、一年の教室へ迎えに行った。中を覗くと、他の生徒に囲まれ楽しそうに話している栞がいて、ほっと一安心する。周囲はまだ腫れ物を触るような扱いっぽいけど、栞の性格ならすぐに溶け込めるだろう。
 こちらに気づいて、ぱたぱたと妹がやってきた。
「もてもてじゃない。あたしが独占しちゃ悪いかしら?」
「うー。そんな意地悪言うお姉ちゃん、嫌いですっ」
 じゃれ合いながら、昇降口を通って中庭に出る。朝から陽に照らされていたそこは、十分に暖まって、すっかり春の空気が覆う。
 シートを敷いて、お弁当を広げる。予想はしていたけど、いざ並べられるととんでもない量だった。
「誰がこんなに食べるのよ……」
「あ、あはは……。ちょっと作りすぎたけど、大丈夫。お姉ちゃんは育ち盛りだもん」
「あなたと一歳しか違わないわよ。育ち盛りの妹さん」
「こほこほ。ああっ、私の体さえ丈夫だったらっ」
「とっくに完治してるでしょっ!」
 言ってから、二人同時に笑い出す。
 たぶん食べきれないけど、そんなの問題じゃない。余ったら夕ご飯にすればいいし、それでも余れば朝ご飯にすればいい。二人で食べられるなら、何だっておいしい。
 そして箸を持って、柔らかい陽光の下、楽しいランチが始まる。

         (――おかしい、おかしい)

「お姉ちゃん?」
 急に頭上を手で払った姉に、栞が不思議そうな顔を向ける。
「あ……虫よ、虫」
「そっか、もう春だもんね」
 嘘だった。香里が払ったのは、奇妙な違和感。まとわりついて離れない。
 何がおかしいのだろう。
 もう病気の心配もない。ずっと待ち望んでいた、幸せな世界がここにあるのに。
「ねえ、お姉ちゃん」
 栞は笑う。不安も枷もないままに。

「ずっと一緒にいようね。何の心配もないから。

 二人で仲良く、ずっとずっと一緒に――」



 反射的に両手を浮かせて、妹の手を握っていた。
「お、お姉ちゃん?」
「栞――どこにも行かないわよね。ずっと側にいてくれるわよね」
「う、うん。どうしたのお姉ちゃん」
「ずっと、一緒よね……」
 そんな言葉も、砂の城のように消えていく。
 でも、知っていた。
 手が覚えていた。やせ細った妹の手。
 あの時、二度と動かなくなってしまった誰かの身体を――。


「――もういいわ。ありがとう」
 手を離し、ゆっくりと立ち上がる。
 心の準備ができた。自分が、未だにこんな光景を望んでいたのだと。
 それを、知ることができた。
「お姉ちゃん」
 栞は姉に手を伸ばす。何もない笑顔のまま。
「感謝するわ。立ち上がるきっかけをくれて」
「お姉ちゃん」
「この目で見て、無意味だってことを実感しなかったら、いつまでもこんな夢を切望したかもしれない。感謝するわ。だからもう」
「お姉ちゃん、どうして」

「もう――こんな夢を見せないでよ!!」


 輪郭が崩れていく。栞の幻影は笑ったまま、音も立てずに溶けていった。
 暖かい中庭も、たくさんのお弁当も、学校も、春の日差しも、幸せで穏やかな時間も、全て輪郭を塵にして。
 残ったのは、遠く遠く広がる、ただの白い世界だった。

 ゆっくりと振り返る。
 そこにいるのは一人の少女。白い地面に手をついて、呆然と座り込んで。
「……そういえば、まだ名前を聞いていなかったわね」
 香里の問いに、すぐには少女は答えなかった。
 しばらく待って、香里が口を開きかけたときに、ようやく小さな声が聞こえた。


「……月宮、あゆ――」








<続く>




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