それは限りなく透き通った広い広い野原なので


いつかはきらきらと音をたて、空気に散ってしまうのです





〜〜〜     美樹原SS:水晶のノート     〜〜〜


1ページ・「ムクを探して」





 愛さんのお気に入りの場所に、小さな森があります。
 森といっても今は空き家となった古びたお屋敷の一部なのですが、長年手入れもされず木がうっそうと茂っているため、愛さんは森と呼んでいるのでした。
「それじゃムク、散歩に行こうね」
「ワン」
 その日愛さんはなにかいいことでもあったのか、妙にうきうきして森の方へ遠出に出かけました。反対にムクはなんだか仏頂面です。
 てくてくと長い道を歩き、壊れた門をくぐると、そこはもう道路の向こうとは別世界です。愛さんはぺこりと樹々にお辞儀をすると、昔誰かが作ったらしい小さな道へと分け入っていくのでした。

 森の中はしぃんとして、ときおり鳥の鳴き声が聞こえます。愛さんはそっと目を閉じて、風の音に耳をすませてみました。
「(いつか、あの人と一緒に来てみたいな…)」
 愛さんがぼんやりとそんなことを考えていたからでしょうか。急にムクはぷいと横を向くと、すたすたと歩き出してしまったのです。
「ム、ムク。どうしたの?」
 愛さんはびっくりしてあとを追いますが、今度はムクはたったっと小走りになります。あわてて愛さんも走り出しますが、ムクはとうとう全力で駆け出してしまいました。
「ム、ムク。待ってぇ」
 ばすん。
 勢いあまったのかどうなのか、ムクはそのまま茂みに飛び込みます。緑に覆い隠されたその向こう側からは、ざざざざっと草をかき分ける音が聞こえてきました。
「ムクー、出てらっしゃい」
 愛さんは茂みに向かって呼びかけるのですが、あたりは静まったまま答えもありません。愛さんは仕方なく、草をかきわけて中へ入っていくのでした。

 そこは小さな樹々たちが―それでも愛さんよりは大きいのですが―、いっぱいに腕を広げて通せんぼをしています。愛さんは前に進めず草の中で立ち往生していましたが、下の方にかがんで通れるくらいの枝のトンネルを見つけました。
「ムクぅー」
 トンネルの中は先へ行くほど薄暗くなっていて、呼び声も吸い込まれるように消えてしまいます。愛さんは仕方なく覚悟を決めると、ごそごそと中へ入っていきました。
(ざわざわざわ)
 あたりはしぃんとしているのに、なぜだか枝たちのざわめく声が聞こえます。まるで小さくなって進む愛さんを見て、ひそひそと話をしているようです。
(ざわざわざわ)
 愛さんはなんだか心配になってきましたが、同時になにやら楽しくもなってきました。スカートが汚れるのもかまわず、髪が引っかかるのも気にしないで、愛さんは少しずつ前に進みます。途中一本の小枝が、足の下でぱきんと音をたてました。

「ようこそ!」

 愛さんは驚いてきょろきょろとあたりを見回すのですが、そこは相変わらずの薄暗い木のトンネルが続くばかり。しかしその高くもなく低くもない不思議な声は、次々と木霊(こだま)のように響いてくるのです。

「ようこそ、始まりの森へ!」

「いらっしゃい、始まりの森へ!」

「出会いが貴重なものならば」

「今こそわれらは歓迎しましょう!」

「ようこそ!ようこそ!」

 愛さんは訳のわからぬまま、あわてて前へと進みます。向こうの方に小さな明かりが見えますが、それより早く音が響いてきます。

(パチパチパチパチパチパチ)

「あの、誰ですか?」
 しぃん
 ひらりと葉っぱが落ちてきて、愛さんに目隠しをします。小さく悲鳴を上げてあわててそれを取り払うと、そこはもうトンネルではなかったのでした。
「え?」
 きょろきょろとあたりを見回しても、やはりそこはトンネルではありません。愛さんがもといた小さな森でもなく、古い大きな樹が、うっすらとしたもやの中に並び立っていました。そして愛さんの足元では、ピンクと白の大きな花をつけた見たこともない草たちが、愛さんを取り囲んでいっしょうけんめい葉を打ち鳴らしているのです。

「ようこそ、ようこそ!」

「ようこそ、ようこそ!」

「始まりの森は、初めの森」

「さてさてあなたは何を探しますか?」

「あの、あの…」
 どんなに目をこすっても、耳をすませても、話しているのはその草たちです。愛さんがかがみ込んでじっと見つめると、一瞬恥ずかしそうに目をそらすのですが、すぐにまた葉を打ち鳴らし始めるのです。
「ようこそ、ようこそ!」
「ようこそ、ようこそ!」
「はい、そこまでそこまで」
 草たちがいっせいに動きを止めます。愛さんが振り向くと、そこには大きな木の葉の服を着た女の子が、緑色の髪の上に緑色の三角帽子を乗せて、まるで森にとけ込むように立っていました。お話に出てくるピーター・パンのようなその子には、愛さんは確かに見覚えがあったのですが、なぜだかどうしても思い出せないのでした。
「ごめん、びっくりしたかい?歓迎草は歓迎するのが大好きで、久しぶりの客にすっかり有頂天なんだ」
「あ、あの…」
(パチパチパチパチパチパチ)
 ぽかんと口を開けている愛さんに、女の子はくるりと一回転して笑顔で腕を広げます。
「始まりの森へようこそ!あたしはここの番人さ。君、名前は?」
「あ、あの…美樹原…愛です」
「それじゃ愛は、いったい何を探してるんだい。木いっぱいの栃の実かな?なくしてしまった靴の片方かな?なんにせよここから始めるのが一番さ。だってここは始まりの森だからね」
「え、えと…。ムク探してます…」
「ムク」
 腕を組んで考え込んでしまう番人さんに、あわてて愛さんはつけ加えました。
「あの、私の犬なんです。ヨークシャーテリアで、頭にリボンがついてます…」
「ふぅん、あたしは見なかったなぁ。ちょっと待っててくれよ」
 番人さんは機会があれば拍手しようとしている歓迎草のところにかがみ込むと、よく通る声で尋ねました。
「草たち、草たち。この子の犬を見なかったかい?」
 とたんに森の地面がいっせいに揺れます。愛さんはこんな山の中なのに大津波が来たのかしらと思いましたが、それは草がみんなで首を振っていたのでした。
「鳥たち、鳥たち。この子の犬を見なかったかい?」
 愛さんははっと空を見上げます。ばさばさばさととてつもない音があたりを覆ったのですが、やはり知っている者はいないようです。
「それじゃ樹々、お前たちなら知ってるだろう?何年もこの森を見ているんだから」
 なかなかそうもいかないようであたりはしぃんとしてしまったのですが、ふと遠くの方から低いくぐもった声が聞こえてきました。
「それならさっき駆けていったのがそうかもなぁ。東の方へ出ていったさ」
 その声は重い鐘のようにしばらく響いていましたが、どうやらムクはもう森にはいないようです。どうしていいのかわからずしょんぼりしてしまう愛さんに、番人さんは勇気づけるように背中を叩きました。
「まあ、そう気を落とすなよ。森の外へ行ったなら、森の外を探せばいいさ」
 そう言って番人さんは愛さんの手を引いてずんずんと歩き出します。愛さんは転びそうになりながらあわててついていきました。後ろで歓迎草たちが揃ってお辞儀をして見送りました。
 森の中はとても空気が澄んでいて、ムクのことさえなければ愛さんも楽しい気分でいられたかもしれません。おまけにそこの植物たちは、見覚えはあるものの決して図鑑には載っていないものばかりでした。
「あの、ここってどこなんでしょう?」
「え?始まりの森だよ。最初に言わなかったっけ」
「あの…。いえ、いいです…」
「なんだよ、気になるなぁ」
「ご、ごめんなさい…」
 番人さんは少し眉をしかめましたが、なにも言わずに前へ歩いていきました。

 2人が着いたのは小さな小屋でした。一見すると普通の木の小屋ですが、よく見ると天井に葉が茂っています。
「ただいま。あいつは中にいるかい?」
 返答はなく、かわりに扉が開きます。番人さんに促されて中に入る愛さんに、上からぽとりと赤い実が落ちてきて、愛さんの小さな手にきれいに収まりました。どうやらお客さんへの贈り物のようでした。
 小屋の中はあまり外と変わりがなく、テーブルのまわりに草花が揺れています。隅の方ではくすんだ帽子掛けが、山高帽子をかぶって佇んでいました。
「(あの帽子、この人には似合わなそうだけど…)」
 愛さんはそう思ったのですが、番人さんが指を口に当てて静かにするように言ったので、誰のものか聞くことはできませんでした。丸太の椅子はなぜかクッションのようにふかふかです。
「とりあえず一休みしようぜ。はい、これ」
 ひそひそ声でそう言って、番人さんは大きな木のコップを渡します。愛さんはその空っぽの中身をどうしたものかと見つめていたのですが、テーブルの下から水仙に似た花がにゅうと首を出しました。
「きゃぁっ!?」
 どしん
 愛さんは椅子ごと後ろへ倒れると、花の露がコップに注がれるのを目を丸くして見ていました。あわてて番人さんが駆け寄ります。
「お、おい。大丈夫か?」
「は、はいっ。ご、ごめんなさい、大きな音だしちゃって…」
「いえいえ、お気になさらずに」
 そう言ったその声は、しかし番人さんのものではありませんでした。といって男の人の声でも女の人の声でもなく、若い人の声でも年取った人の声でもありません。小学校のとき叩いた木琴のようなその音色に、愛さんはきょろきょろとあたりを見回します。
「なんだ、考え事はもういいのかい」
「はてさて、私の考え事は果たして考えるに値するのか否か?それを考えるだけで、私は夜も眠れないのですよ」
 部屋の隅にある帽子掛けが、ひとりでにからからと車輪を回して動き出します。
「そうか、頑張ってくれよ」
 番人さんは苦笑してそう言うと、ほっぺたをつねっている愛さんを前に押し出しました。
「この子の犬が森の外で迷子になってるらしいんだ。あたしは祭りの日まで森の外へ出られないし、助けてやってくれないか?」
「ふぅむ、よろしいですとも。どこへ行くのも同じ事ですな」
「あの…、あの…」
 横棒だと思っていたのは実は腕だったようで、ぐにゃりと曲がると山高帽子を手にとって、帽子掛けさんはうやうやしくお辞儀をします。
「初めまして、帽子掛けという者です」
「み、美樹原愛です…」
 あわてて愛さんもぺこりとお辞儀をしました。



<そして、物語は続くのです>



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