黒船のペリーさんといえば、日本一有名なアメリカ人の一人と言っても言い過ぎじゃあございません。
 この御仁、よくよく考えれば大砲突きつけて不平等条約を結ばせたお人なんですが、日本では特段嫌われてもいないようで。今も横須賀は久里浜のあたりへ行けば、ペリー公園にペリー通り、果てはペリーシチューなんてのもあるようですな。
 何とも大らかなことで、そんな大らかな日本人の、当時の庶民のお話でございます。






黒     船







「浦賀もすっかり夏だねぇ。こんな日は木陰でお茶でも飲むに限る」
「おおいご隠居、てぇへんだ、てぇへんだ」
「おや、平助じゃないか。昼間っから仕事もしないで駆け回っているとは感心しないね」
「それが仕事どころじゃねぇんで。実に天下の一大事。沖の方にく、く、くく」
「まあ落ち着いて、これでもお飲みよ」
「へえ、いただきやす。ゴクゴクゴク…いや、すっかり夏だねぇ。こんな日は木陰で茶でも飲むに限らぁ」
「天下の一大事なんじゃないのかい」
「おっとそうだった。ちょいと浜を歩いてたらね、沖の方から何か来るじゃありませんか。こう目を凝らしてみれば、なんと異国の船がゆるうりと近づいてくる」
「へえ、また来たのかい。今度も漂流者を届けてくれたのかね、有り難いことだ」
「いやそれが今までみたいな帆船じゃない、見たこともねぇ黒船なんで」
「何だって?」
「身の丈の大きいことと言ったら伊豆大島くらい。背中の煙突からもくもくと煙を吐いて、両側には大きな車輪。ずらりと並んだ大砲がこっちを向いている」
「ほほう」
「しかも一隻じゃない、後ろの方に何隻か着いてきてるんで。いやもうあっしも、これほどぶったまげた事はない。一体何しに来たんですかね」
「はぁ…」
「あれご隠居、溜息なんかついて。こりゃ山奥にでも逃げた方が良さそうだ」
「なあ平助。お前さんは、どうしてそうそそっかしいんだろうねぇ」
「へっ?」
「黒くて大きくて、両脇に何かついてるんだろう」
「へえ」
「背中から煙のようなものを出してるんだろう」
「その通りで」
「それはねえ、世間様では『鯨』って言うんだよ」
「ええッ?」
「まったく呆れたもんだ」
「いやいや、待ってくださいよ。いくらあっしでも、船と鯨の区別くらいはつきますって」
「そうは言うが、本物の鯨を見たことはあるのかい」
「そりゃ、ありませんがね」
「それがお前の浅はかさだ。見たこともないのに、どうして鯨じゃないと言い切れるね」
「ううん。じゃあ両脇にある車輪みたいのは何だったんです」
「胸びれに決まってるじゃないか。こうね、泳ぐのにくるくると回すからね、それが車輪に見えたんだろうね」
「じゃあ、背中から黒い煙を出していたのは?」
「お前さんは鯨の潮吹きも知らないのかい。本来なら白いもんだが、慌てていたんで見間違えたんだろう」
「さすがに黒と白は間違えねぇと思うんだがなぁ。大砲が並んでいたり、何隻も連れだっていたのは」
「まず大砲に見えたは鯨の髭だな。あれは細長いのがずらりと並んでいるからね。鯨ともなると髭といっても大層な大きさだから、無知なお前さんに大砲に見えたのも無理はない」
「髭ですかい。かみそりも相当大きいのが要りそうだ」
「そして鯨だって妻子のいるものもあるだろう。広い海だ、出来ることなら一家揃って泳いで行こうと考えるのが情けじゃないか。分かったらお前さんも早く身を固めなさいよ」
「へぇ、すんません。そうは言ってもなかなか相手のあてがなくて、へへへ、ご隠居に世話してもらえねぇかなと…おっと、今はそんな話じゃねぇや。うーん、本当なのかなぁ」
「何てことを言うんだろうね。仕方ない、ひとつ話をしてやろう。盃中の蛇影という言葉を知っているかい」
「えー、あいにくとまだ食ったことはねぇんで」
「食べ物じゃないよ、呆れた奴だ。昔の唐国は河南のあたりに、楽広という人物がいた」
「へぇ、唐の国にもいるんですかい。やっぱり鳴くんですか。かっこう、かっこう」
「かっこうじゃあない、がくこうだ。その人物が杜宣という友人を家に呼んで、酒を振る舞った」
「ねえご隠居。その楽広さん、あっしを友にしてくれませんかね」
「飲むことしか考えてないね全く。しかし杜宣が盃を覗き込むと、中に蛇の姿が見える。すわ蛇を飲んでしまったと、杜宣は病に伏せてしまった」
「うわっ、恐ろしいかっこうだ。ご隠居、さっきの話はなかったことに」
「最後までお聞き。それを聞いた楽広が、こう盃に酒を注いで、杜宣の座った場所へ座ってみる。やや、確かに蛇が見える、と顔を上げると、壁に弓が掛けてあった。蛇に見えたのはこの弓の影で、それを杜宣に告げると、病はたちどころに治ったそうだ」
「何だい、ははは。その杜宣ってなぁとんだ間抜け野郎だ」
「よくもまあ人を笑えるもんだ。お前さんだって同じじゃないか」
「エッ、そうなんですかい」
「そうともさ。たかが鯨を見て異国の船だの大砲だのと、弓の影を見て蛇と勘違いするのと何ら変わらないじゃあないか」
「ああ、なるほどねぇ。言われてみればそんな気がしてきた」
「分かったら、これからはもう少し落ち着いて行動しなさいよ」
「へえ、失礼しやした。それじゃあごめんなすって…」

「ウーン、さすがご隠居は物知りだ。俺も見習わないといけぇねや」
「おっ、平助じゃねぇか」
「何だ、亀吉か。漁師が海にも出ねぇでどうしたい」
「そりゃお前、あの黒船だ。あんなのが近づいてきたもんだから、仰天して逃げてきちまった」
「くくく、こいつも黒船だと思ってるよ。仕様のねぇ奴だ」
「うん、何かおかしいかい」
「えへんえへん。なあ亀吉や、お前はどうしてそうそそっかしいんだろうねぇ」
「おいおい、平助にそそっかしい呼ばわりされたよ。世も末だなぁ」
「あれはな、海中の遺影なんだ」
「うん? あれのどこが遺影なんだ」
「違ったかな。まあ何だ、お前さん、本物の鯨を見たことがあるのかい」
「そりゃこちとら漁師だ。沖へ出れば見かけることもあらぁ」
「そうだろう、ないだろう。…あるのかよ、気の利かねぇ野郎だ」
「そう言われてもな」
「なあ、俺とお前の仲じゃねぇか。ここは一つ、ないことにしてくれや。そうでねぇと俺の話が進まねぇ…ウッウッウッ」
「泣くこたぁねぇだろう。わかったよ、鯨を見たことはねぇよ」
「そこがお前の浅はかさ」
「ぶん殴るぞ、この野郎」
「そしてそれが、懐中の月餅なんだ」
「何なんだいそりゃあ」
「おうよ、唐の国にかっこうがいたんだ。そして懐ん中の月餅を見ていたら、何と蛇に見えたってぇ話だ」
「悪いが、何が言いてぇのかさっぱりわからねぇ」
「ウン、言ってる俺もよくわからない」
「それじゃ話にならねぇじゃねぇか。それより別に撃っても来ねぇようだし、ちょいと舟で近づいてみようと思うんだが、お前も来るかい」
「ああ、行こう行こう。大工の俺にゃあ、鯨を間近で見られるなんてそうそうねぇや」
「まだ言ってるよ。仕様のねぇ奴だ」

「おっ、奉行所の舟は帰ったみてぇだな。今のうちに近づこう」
「それにしてもどいつもこいつもぞろそろと、浜が野次馬で埋まってやがるな。なんてえ暇な奴らだ」
「お前もだ。何言ってるんでぇ」
「野次馬が近づいてくるぞ。何、俺たちも乗せろだ? 駄目だ駄目だ、こんなボロ舟、三人以上乗ったら沈んじまわぁ」
「誰の舟だと思ってやがる。ほれ、行くぞ。お前も漕げ」
「おうよ、えっほ、えっほ。さすが鯨だ。近くで見るとでかいもんだ」
「どこの鯨が背中から煙を吐くんだ」
「ウン、見事に白い潮を吹いてるなぁ」
「あれが白に見えるのかよ。烏の羽根みたいに真っ黒じゃねぇか」
「そりゃあれだ、夏とはいえ四六時中海に漬かってるんだからな。きっと風邪を引いちまったんだ」
「それに見ろ、人が大勢乗ってらぁ。どう見ても異国の連中だろう」
「ああ、確かにな」
「ようやく分かったかい」
「こっちの侍は馬に乗るのが精々なのに、あっちは鯨に乗ってるんだものな。さすが異国はやる事が大きい」
「もう勝手にしやがれ。おっ、こっちに気付いたみてぇだ」
『ハロー、ハロー』
「平助、何て言ってるか分かるかい」
「おう、海を越えてきたにしては根性のねぇ奴だ。この程度の波で波浪、波浪と言ってやがらぁ」
「違うんじゃねぇかな。それより、乗せてもらえるよう頼んでみるか」
「やってみよう。おーい、乗せてくれ、乗せてくれぇ」
『ノー、ノー』
「何だって? おい、乗せてほしけりゃ能を舞えだとさ。亀吉、お前できるか」
「無茶言うない。そんなの見たこともねぇや」
「仕方ねぇ、一つ俺がやってやるか。あーあー、えー、ちょいなちょいな」
「どこが能だ。おっといけねぇ、奉行所の舟が来やがった」
「浦賀奉行である。そこの者共、離れよ、離れぬか」
「何でぇ、偉そうに。やれるもんなら沈めてみろってんだ」
「だから誰の舟だと思ってやがる。おい、今日のところは退散だ」
「仕方ねぇな。けどその前にもう少し近づいてくれ。この手で鯨を撫でてやりたい」
「犬っころじゃねぇんだぞ。まあいい、好きにしろ」
「へぇ、これが鯨の肌ねぇ。鉄みたいに固ぇじゃねぇか。さすが鯨なだけの事はあるねぇ」
「ええい、早く離れよと言っておる」
「ちぇっ、分かったよ。役人共め、鯨の肉を独り占めする気だ。俺にも食わせろってんだ」
「鍛冶屋に行って好きなだけ食ってこい」


「ご隠居、昨日はどうも」
「う、うむ。平助かい」
「あれから色んな奴と話したんですがね。どいつもこいつも黒船だって言って聞かないんで。頭の悪い連中だと笑ってやりました、ははは」
「ま、まあお茶でもどうだい」
「こりゃどうも、ご馳走になります。ゴクゴクゴク…はあ、ご隠居は立派な方だねぇ。こんな学のあるお人を大家に持てて、あっしは幸せ者だねぇ」
「まあその…なんだ、羊羹もおあがり」
「えっ、いいんですかい。それじゃ遠慮なく…うまい! いや、ご隠居は仏様だね。ありがたやありがたや」
「あー、それでだね。昨日の黒船なんだがね」
「ははは、黒船じゃなくて鯨でしょう。ご隠居まで他の奴らに合わせる事ぁねぇや」
「それが、本当に黒船だったんだ」
「へえ?」
「いや、何とも済まない。蒸気船っていうんだってねぇ。あたしも初めて知ったよ」
「………。エエッ! そ、そりゃあねぇや。みんなに鯨だって言っちまった」
「だからこうして、お詫びに高い羊羹をご馳走してるじゃないか。悪かったよ、勘弁しておくれ」
「とほほ。何てこったい、本当に蛇入りの酒だった」
「いや全く、長く生きていると思わぬ事があるもんだねぇ。大将はペルリ提督なる人物で、今頃江戸では大騒ぎだそうだ」
「はあ、もうどうでもいいや。羊羹でも食うしかねぇ」
「おいおい、全部食べることはないだろう。そりゃこちらも悪かったが、少しはあたしの分も残してくれてもいいじゃないか」
「いいや、ペルリ提督のせいで酷い目に遭ったんだ。"ぺろりといただく"事にします」
 お後がよろしいようで。








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