この作品は「ONE〜輝く季節へ〜」(c)Tacticsの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
川名みさき、上月澪シナリオに関するネタバレを含みます。














 
 
 
 
 
 
 

「はじめまして、借金のかたに売り飛ばされてきました。よろしくね」
「お昼代返せないから働かせてくれって、あんたが泣いて頼んだんでしょっ!」
「わあっ、ばらすなんて鬼だよ〜」
 どっと笑い声。少しだけ安堵。
 冬休み直前の文化部棟。雪見に連れられて来た演劇部室は、真冬でもどこか暖かかった。
「みさきは目が見えないけど、耳は確かだからね。じゃあとりあえず音楽係ね」
「うん、わかったよ」
 目が見えない、との雪見の言葉に、一瞬だけ場が静まる。
 とはいえ、さすがにそれ位は仕方ない。みさきは笑顔を作って、先ほど声がした方へ話しかける。
「よろしくね」
「え、えーと、よろしくお願いします」
「うん、名前を教えてくれないかな」
「あ、はいっ。私は…」
 そうやっていつものように、会話の輪を広げていた時だった。
 くいくい
 無言で制服の裾が引かれる。心当たりは一人だけ。
 彼女がこの部にいることは、知り合いの少年から既に聞いていた。
 小さな手を探し当て、握手する。
「澪ちゃん、これからよろしくね」
 返事の代わりに、彼女は一生懸命に手を握り返してきた。








重ねた手と手の中に










 すぐ冬休みになったので、実際の活動は年が明けてからだった。
「ほら、あまり時間はないわよ! さっさと練習を始めるわよ」
「雪ちゃん、張り切ってるねえ」
 演劇部は三月に公演があるので、三年生が引退するのはその後である……といっても現実問題として受験があるので、毎日来ているのは推薦入学が決まっている雪見と、進路のことは考えないようにしているみさきだけだった。
 従って周りは一、二年生ばかり。みさきにとっては新鮮な環境である。
 仕事がラジカセのボタン押しだけでは心苦しく、頑張って耳で台詞を覚えるようにした。そうして誰かが道具作りで手一杯の時は、声だけの代役に入る。
「みさき先輩の声って感情がこもってますねっ」
「あはは、そうかな。照れるよ〜」
 そうやって、一週間ほど経つと何とか部の中に溶け込めるようになった。
 しかし問題が一つ。
「上月さん?」
「うん…」
 練習が終わり、短い下校路の途中、親友とそんな話をする。
「やっぱりコミュニケーションが難しいよ」
 誰かに通訳してもらうなり、手のひらに字を書いてもらうなり方法はあるものの、なにぶんどちらも時間がかかる。大勢の中で、かつ公演前で忙しい時期では、交わせる情報量はどうしても少ない。
 今日も練習前の短い時間、皆で雑談していた時だった。
「っていうことがあったんだよ〜。えーと、澪ちゃんどこ?」
『……』
「こっちにいまーす」
「あ、うん。澪ちゃんもそう思うよね?」
『……』
 スケッチブックにペンを走らせる音。数秒とはいえ、その間は会話が止まる。
『……』
「『思うの』だそうです」
「そ、そう」
 その後、二年生の一人に密かに耳打ちされた。
「私達も最初は毎回上月さんに話を振ったりしてたんですけど、結局『気を遣わなくていいの』って言われちゃったんです」
「う…そうなんだ」
「でもいつもにこにこしてるし、本人は聞いてるだけで十分楽しいみたいですよ」
「澪ちゃんは強いんだねえ」
 感心するが、結局それは人づてである。どんな笑顔なのか、どんな感情を持っているのか、みさきにはさっぱり分からない。
 そんなわけで、上月澪という女の子がどういう子なのか、未だに実感が掴めなかった。
「うーん、そうなの。あなた達なら何とかなると思ってたんだけどね」
「私もそんな気がしてたんだけどね。そう甘くなかったよ」
 家に着いてしまい、塀に寄り掛かって話を続ける。
「一応、方法はあるんだよ」
「何よ、あるの?」
「指点字っていってね。指をこう叩いて、点字がわりにして話すんだよ」
 左手指の付け根を右手の指で叩いてみせる。方法だけなら他にもあるが、速さや正確さではこれが一番と言っていい。とはいえ習熟すればの話だが。
「教えてあげなさいよ」
「でも相当練習しないといけないからね。ただでさえ劇で忙しいのに、私一人のためにそんなことさせられないよ」
「馬鹿ねぇ」
 と、雪見の声が呆れモードに変わる。
「上月さんがそんなの苦にするわけないじゃない。喜んで教わろうとするわよ」
「そうかなぁ」
「そうよ。やっぱりリアルタイムで話せるのは大きいと思うわよ」
 そういうものなのだろうか。口がきけるみさきには、澪の気持ちは分からない。『普通に』なんて他人には言ってきたけど、いざ自分がとなると難しい。
 それでも雪見がそう言うのだし、話してみることにした。


§


 雪見の予言通り、澪は興奮気味に、掴んだみさきの手を振った。
「いいんだね?」
 ぶんぶん、と上下に振られる手。それなら、と隣の席に座り、それぞれ前に出した両手を重ねる。
「『あ』からね。左手の人差し指を叩いてね」
 先日誰かさんに『言ってみろ』と言われても果たせなかった言葉が、指の感触を通じて発せられる。
『あ』
「はい、よくできました」
『あ あ あああ』
 その日から、休み時間になると澪はみさきの教室へ来て、懸命に練習するようになった。
 自宅練習用にみさきが一覧表を調達してきて渡すと、次の日に雪見が聞いてくる。
「上月さん目が赤いけど、何かあったの?」
(まさか寝ないで練習してるんじゃ…)
 執念すら感じる熱心さに、少し軽く考えていたかと反省する。そこまで話す手段が欲しかったのだろうか。
 とはいえ今さら後には引けない。澪に泊まりに来てもらって、みさきの方も必死に読みとりの特訓をした。
『こ』『ん』『に』『ち』『わ』
「うん、こんにちは」
『わ』『た』『し』『わ』『こ』『う』『゛つ』『き』『み』『お』『゛て』『す』
「私は、川名みさきだよ」
『よ』『ろ』『し』『く』『お』『ね』『゛か』『い』『し』『ま』『す』
「よろしくね、澪ちゃん」
 これだけの会話に当初は数分。それでも二人で力を合わせて、少しずつ時間を縮めていった。
『み』『さ』『き』『せ』『ん』『゜は』『い』
「うん?」
『つ』『き』『あ』『わ』『せ』『て』『し』『ま』『っ』『て』『゛こ』『め』『ん』『な』『さ』『い』
「そんなことないよ」
 私こそ、目が見えないせいでごめんね。
 そう言おうとしたが、後ろ向きな気がして言い直す。
「早くお話しできるようになれるといいね」
 はい! という返事は今までよりも速かった。
 そんなことを続けて日々は過ぎ…
「すごい、澪ちゃん」
 話す速度には遠いものの、手のひら書きよりは速く、五十音を伝えられるようになった。みさきも驚く上達ぶりだ。
 しかも本人ときたら、次はアルファベットと数字だと息巻いている。
「本当に頑張り屋だね〜」
『てれてれなの』
「上月さん、その調子で演技の方も頑張らなきゃ駄目よ」
『おに{゛ふ}{yと}うなの』
「うん、ほんとだね」
「ちょっと、二人で何を話してるのよっ」


 それからというもの、澪はみさきにべったりだった。
 何しろ、澪が普通に”話せる”のは、校内でみさき一人だけなのだ。
 休み時間はもちろん、授業中までみさきの教室に潜り込んで、先生に怒られていた。
『あのねみさきせんぱいきいてほしいの。もうすぐにねんせいなのってともだちにつたえたら、あんたはしょうがくせいにしかみえないっていわれたのふんがいなの。どうやったらせんぱいみたいにぐらまーになれるのかおしえてほしいの。かくすとためにならないの』
「み、澪ちゃん落ち着こうよ」
『ちょっとながいはなしがしてみたかったの』
「もう、澪ちゃんってば〜」
 確かにスケッチブックではスペースも限られるし、相手の待ち時間を考えると長い文章は書けない。
 長さだけではない。叩く強さや感触で、何となく澪の気持ちが伝わってくる。そうして少しずつ彼女の”姿”が見えてくるのが、みさきにはこの上なく嬉しかった。
『あのね』
 少しだけ、澪の指が止まる。
「どうしたの?」
『…聞いたらいけないのかもしれないけど』
「平気だよ、気にしなくていいよ」
 どこまで踏み込んでいいかの境界は、やはり誰でも難しい。けどそう答えた以上は、何を聞かれても気にしないつもりだ。
『みさき先輩の目が見えないのは、生まれつきなの?』
「ううん、小学生の時からだよ」
『…そうだったの』
 澪は生まれつきなのだと、何だか申し訳なさそうに告げられてしまった。
「まあ、途中からだと色々大変だけど、でも年数的には生まれつきの人の方が長いわけだからね。どっちもどっちだよ」
『それもそうかもしれないの』
 視覚なら、先天的に全盲の人と以前に話したことがある。曰く『自分には見えるというのがどういうことか実感できないので、見えるようになりたいとも思わない』と。
 でも澪の場合は、多分そうではないだろう。耳は普通に聞こえる以上、話せるということを、話せないということを実感していそうだ――想像でしかないけど。
「澪ちゃんは――」
 さすがに躊躇する。『死にたいと思ったことある?』とは、かなり境界を越えていると思う。
「辛いと思ったことはある?」
『…ないの』
 ない、という答えを期待していたから、その前の間は気にも留めなかった。
『だって、このスケッチブックがあるの』
「そういえば、いつも持ってるんだってね」
『そうなの! 子供の頃に親切な人にもらったの。そのときの約束が…あれ?』
 困ったように指がうろうろする。
『誰にもらったのか、忘れてしまったの』
「うーん、子供の頃じゃしょうがないよ」
 同時に二人とも、出会ったきっかけの少年のことは忘れていた。
 思い出すのは一年後だったが、それは別の話になる。


 そうして二月に入り、三年生は自宅学習期間になった。
 級友達が消えた教室で、みさきはただ澪が訪れるのを待つ。
『そういえば、みさき先輩は卒業したらどうするの?』
「え゛」
 四月から無職です、などとは口が裂けても言えない。
「ほ、ほら、私はのんびり屋だからね。自分の本当にやりたいことを見つけるべきだと思うんだよ。それがみさきポリシーなんだよ」
『よくわからないけどかっこいいの! そんけーするの!』
「そ…そう?」
『みさき先輩はすごいの』
 口ごもるみさきに、追い打ちのように澪はそんなことを言ってきた。
「ど、どうしたの急に?」
『きっと目が見えないのは、口がきけないよりずっと大変なの』
 ぴくんと、みさきの手が固くなる。
『なのにみさき先輩は明るくて、ぜんぜん弱音を言ったりしないの』
「……」
『とても強いひとなの』
「み…澪ちゃんこそ頑張ってると思うよ」
 居たたまれず、無理矢理に話を逸らす。
「指点字もそうだし、演劇部も一生懸命だもんね」
 重ねて痛み。劇については澪が何をやっているか、全く知覚できないのに。
 素直な後輩はそうとも知らず、一生懸命に指を叩く。
『いっぱい伝えたいことあるの』
 他の人よりも気持ちを表現することが下手だから。
 だから、舞台に立って大勢の人に何かを伝えたい。
 そんなまっすぐな言葉に、みさきはつい聞いてしまう。
「美術部や文芸部にはしなかったんだね」
 一瞬指の動きが止まり、すぐに動く。
『負けたくないの』
「うん」
 伝えるだけなら他にも方法はあるのに、敢えて声が必要な部に入ったということ。
 ハンデなんて関係ないと証明しようということ。それは――
(それは、無謀だ)
 一瞬頭を横切った思考を、急いで追い払う。この子はみさきとは違うのだ。
「立派だと思うよ」
 みさきの生返事に、嬉しそうな感触が体に抱きついてきた。

 その日の部活を終えて、手を繋ぎながら校門まで来る。
『ばいばいなの』
「また明日ね」
 軽快な足音が去っていく、その方向は暗闇。
 向こう側には色々なものがあるのだろうけど――。
 しばらく立ち尽くすだけで、みさきの足は決してそちらへ動こうとはしない。
(『とても強いひとなの』)
 手に残る澪の言葉の残響が聞こえる。
 頭まで自己嫌悪に漬かりながら、みさきはまっすぐ自分の家に入った。


§


 破局は、いとも呆気なくやって来た。

「そういえば、そろそろ上月さんの衣装を買ってこないとね」
 公演まで一ヶ月となり、気合いも高まってきた中に雪見の声。
 服の目星はついているらしく、商店街にある店の名が挙がった。
「それじゃ上月さんと、心配だからあと一人――」
 その途端、みさきの腕に、慣れ親しんだ感触が抱きついてくる。
 頭からさあっと血の気が引いた。
 雪見の声も狼狽する。
「え、み、みさきと?」
「いいんじゃないですか、みさき先輩なら安心だし」
「澪って本当にみさき先輩が好きなんだねー」
 後輩達はそんな風に、微笑ましそうなことを言ってくる。固まっているみさきの指に感触。
『もちろんなの。だって強いし優しいし美人だし、とっても尊敬してるの』
「い、いやあのね澪ちゃん」
『わたしもみさき先輩みたいになりたいの』
「澪、なんて言ってるんですか?」
「え? ええと、お世辞だよお世辞」
『お世辞じゃないの! 本気でそう思ってるの』
(わああああ)
「ど、どうする? みさき…」
 困ったような雪見に、笑顔で答える以外の何ができたろう。
「や、やだなぁ雪ちゃん。私にもお遣いくらいできるよ」
「そ、そう。それじゃお願いするわ…」
 そうして寒風吹く中、みさきは外へ放り出された。
 隣では何も知らない後輩が、楽しそうなリズムで指を叩く。
『いっしょにお出かけなの。嬉しいの』
「そ、そうだね…」
 大丈夫、何とかなるかもしれない。
 必死で自分に言い聞かせる。この子と一緒なら、もしかしたら勇気を貰えるような気が…
「あっ…!」
 気がするだけではどうにもならなかった。
 校門を横切る直前、みさきはその場に座り込んだ。重ねていた手は遠ざかり、みっともなく地面に落ちる。
「澪ちゃん…」
 彼女は今、どんな顔をしているのだろう。
 転んじゃったよ、とか、体の調子が、とか、誤魔化しようはあった。
 でも、もう限界だ。これ以上騙せない。
 堰を切ったように、みさきの口は喋り続けた。
「私はね、私は…」

 外の世界が怖いこと。
 この学校の中でなら、闇のスクリーンに景色を映し出せること。
 みさきが強く見えるのは、そういうからくりがあるのだということを。

「…がっかり…したよね」
 笑おうとするが、顔が上手く動かない。
 足音が一歩近づく。
 みさきは両手を差し出さなかった。
 何かを言われるのが怖い。手を差し出さず…
 そうして澪の言葉を奪った。
 長い長い静寂の後、寂しそうな駆け足が遠ざかっていった。

「みさき!」
 遅いので心配になったのだろう、親友の声が走ってくる。
 校門の脇にうずくまったまま、みさきは弱々しく言った。
「……メッキが、剥がれちゃったよ……」


§


 隣に座った雪見に、ぽつぽつと今起きたことを話す。
「澪ちゃん、軽蔑したかな…」
「するわけないの分かってるんだから、そういうことを言うのはやめなさい」
「うん…」
 膝に顔を埋める。軽蔑されてもされなくても、澪に合わす顔がないのは同じことだ。
「もう手伝いに行くの、やめるよ」
「みさき…」
「…雪ちゃんにも、謝らないと」
 隣で小さく、息をのむ音が聞こえる。
「借金のことなんて口実だって、たぶん気付いてたよね」
「…まあね」
「私の三年間は、何もなかったから」
 みさきの黒いスクリーンに、学校という箱庭で過ごした時間が映る。
 楽しかったけれど、それだけだった。
「何かに打ち込んだりとか仲間とか、私には縁のないものだったから。最後にその空気だけでも吸ってみたかった。でもそうやって美味しいところだけ味わおうなんて、三年間頑張ってきた雪ちゃん達に失礼だったよね。本当に、ごめん…」
「…何でそんなことを気にするのよ」
 人手が足りないのは確かだったんだから、との言葉が今は辛い。
「怒ってよ、雪ちゃん」
「……」
「なんて情けないんだって、言ってよ…」
「…無理よ」
 きっと今までも自問してきたのだろう。苦しそうに、それでもきっぱりと雪見は言う。
「わたしはみさきじゃないし、目も見えるし、みさきの気持ちは分からない」
「雪ちゃん…」
「どの程度自分に優しくして、どの程度厳しくするかは、自分が決めるしかないわ」
 怒るよりも厳しい言葉の後、立ち上がる気配がする。
「上月さんを探してくるわね。迷子になってるかもしれないから」
「……」
 みさきは頷くだけで、何も言わなかった。
 一人取り残され、校門の脇にずっと座っていた。


§


 もう学校へ行く意味もなく、次の日からみさきは自室にこもりきりだった。
(…これで良かったのかもしれない)
 机に突っ伏したまま、そんなことを考える。
 だってあのまま公演まで一緒にいたら、きっと劇の感想を求められたろうから。
 その時に嘘をつくか、『何も見えないし聞こえなかったよ』と正直に言うか、その選択から逃れられた。
 みさきがいかに駄目だろうが、あの子はそんなことには関係なく、まっすぐ前を向いて進んでいく。
 だったら、ここで離れられて良かったのかもしれない…。
「みさき、雪見ちゃんが来たわよ」
 母親の声に、後ろ向きの思考が中断される。追い返すわけにもいかず、部屋に上がってもらう。
「上月さん、どん底まで落ち込んでるわ」
 案の定、耳の痛い話だった。
「みさき先輩を傷つけてしまった、って。もう合わせる顔がないって」
「ち、違っ…! 違うよ、澪ちゃんは全然悪くないって言ってあげてよ」
「自分で言いなさい」
「…ちょっと胃の調子が悪いんだよ」
 ベッドへ行って頭から毛布をかぶるみさきに、雪見の溜息が突き刺さる。
「元々、近ごろ様子がおかしかったのよ」
「澪ちゃんが?」
「そう。スケッチブックをあまり使わなくて、時々不思議そうにめくってた。上手く言えないけど、何か支えを失くしてしまったような感じ」
「それ…先月の終わりくらいからかな」
「うん。でもみさきの側では前以上に明るかったから、大丈夫だと思ったんだけど」
 その新たな支えは実際は藁以下だった、ということなのだろう。
「すぐ元気になるよ。澪ちゃんなんだから…」
 根拠なく言って、ベッドの奥に潜り込んだ。

 数日後に雪見が訪ねてきたときも、みさきは毛布の中でカレー味のポテチを食べていた。
「引きこもったっていいじゃない。だめにんげんだもの」
「何を訳のわからないこと言ってるのよっ!」
 怒鳴り声の後で、疲れたような声が続く。
「…上月さんが、部をやめたいって言ってきたわ」
「……」
 しばらく、言っていることが理解できなかった。
 頭に入ると同時に、毛布をはね上げ飛び起きる。
「な、な、なんでっ…!」
「自分がいると周りに迷惑だから、って」
「冗談だよね?」
「もちろん今やめたら公演に穴が空くから、四月からとは言ってたけど……決意は固いみたい」
「おかしいよ、そんなのっ!」
 思わず出す声も大きくなる。信じられない。だってあんなに強かったのに。言葉なんか喋れなくても、精一杯気持ちを伝えていたのに、どうして――
「そうね。いつもにこにこして」
「そうだよっ! 見えなかったけどっ」
「どんな時でも明るくて」
「だよねっ…!」
「…まるで、誰かみたい」
「――――」
 絶句するみさきに、紙が擦れるような音が聞こえてくる。
「みさきに手紙を預かってきたわ。読んでいい?」
「…お願い」
 俯いて、小さく答える。
「『川名みさき様』」
 雪見の声で読まれるそれは、ある意味澪の声なのだろうけど、そう納得するのに労力を要した。
『ごめんなさい』
 特に、そんな言葉で始まっていたとあっては。

『ごめんなさい。勝手な理想を押しつけていました。
 同じようにハンデを持って、しかも負けていない人がいるんだって、一方的に憧れて浮かれていました。
 みさき先輩の気持ちを、考えようともしませんでした』

 段々と、自分の間違いが押し寄せてくる。
 それはみさきの方ではなかったか。
 誰よりもまず、自分が気付かなくてはいけなかったのに。
 皆がお喋りしている中で、一人会話に加われず、ただ笑顔でいるしかない毎日が、辛くないなんてどうして思ったんだろう――?

『演劇部のことは部長さんから聞いたと思いますけど、でも、決してみさき先輩のせいではないです。
 本当は、ずっと前から考えていました。
 喋れなくても劇はできるって、そう思って入部したけど、やっぱり思うだけじゃどうにもできないこともあって。
 自分だけならともかく、周りにも迷惑をかけて。
 やっぱり無理だったんじゃないかって、わたしなんかが何かを伝えようなんて無謀だったんじゃないかって、本当は時々考えていました』

 くしゃ、と紙が歪む音が聞こえる。雪見にとっても、これは辛い内容のはずだ。

『だからみさき先輩のせいではないです。
 無理をしないで、もっと楽になっていいと思います。
 それだけの理由があるんだから、色んなことを諦めてしまっても――
 それは、仕方のないことです』

 その後には、こんな手紙を読ませてしまった雪見への謝罪が綴られていた。
 けれど、それは耳には入らない。
 ただ、最後の言葉が頭に反復する。

『それは、仕方のないことです』

「違うっ――!」
 思わず、拳でベッドを叩いていた。
「み、みさき?」
「違うよ…」
 仕方のないことが、存在しないなんて言わない。どうしようもないことが沢山あるのは、みさきだって良く知ってる。
 でも、今回のこれは違う。
 頑張れば乗り越えられるはずのものだった。あの子はそうやって頑張ってきたはずだった。
(――けど)
 けど、どの面を下げて、みさきにそんなことが言えるだろう?
 仕方ないことだと、無理なんだと、彼女に見せてしまったのは自分自身だ。
 挑戦してきた分、澪の方が負荷は高かったはずだ。それでも頑張って頑張って、一生懸命続けてきたのに――その張りつめた糸を、みさきが切ってしまった。
「どうしよう、雪ちゃん…」
 部屋の中を漂う声。弱々しいものにしかならない。
「とりあえず、私はもう一度説得してみるわ」
「私はどうしたらいい?」
「そんなことは自分で考えなさい」
 正論だ。けれどもう本当に、どうしたらいいのか分からなかった。
 さすがに見かねたのか、最後のところで甘い雪見が、こほんと咳払いする。
「わたしはみさきじゃないし、目のことは何も言えないし、具体的なことじゃないけど…」
「い、いいよ、それでもっ」
 思わず腰を浮かせる。ヒントだけでも欲しい。
「三年生でしょ。一年生の前で、取るべき態度ってものがあるでしょ」
「………」
 少しの沈黙の後、とすん、と浮いた腰が落ちる。
「三年生かぁ…」
 それは、三年間積み重ねてきた雪見だから言える言葉だった。
 みさきにはそれは無い。
「そんなこと、すっかり忘れてたよ」
 それでも、今からでも、塵の一片でも積まなければならなかった。


§


 次の日曜日。
 朝八時半に家を出た。右手には白杖。
 頼りになる親友は既に来ていて、みさきに声をかけてくれる。
「いいのね?」
「うん、お願いするよ」

 数日前、澪宛てに手紙を出していた。
『澪ちゃんへ
 今度の日曜日、市民公園でデートしましょう』

 待ち合わせは午前十時。澪は来てくれるだろうか。
 いや、来る。あの子は絶対に来る。
 だから必ず行かなければならない。この上澪に待ちぼうけを食らわせたりしたら、もう切腹でもするしかない。
「雪ちゃん、いつもごめんね」
「それは今更だけど、いきなり無理しすぎなんじゃないの」
「丁度いいんだよ、無理しすぎくらいで」
 一瞬だけ校門が脳裏に映るが、すぐに背を向ける。
 学校の外で話さなければならない。
 箱庭で勇を誇ったところで、何の意味もないのだ。

(えいっ)
 足を蹴り飛ばすようにして、最初の一歩を踏み出した。
 だがまだ序の口。ここは結局近所だし、それなりに記憶は残っている。
 左手で雪見の腕を軽く掴み、一歩一歩進んでいく。
 昔の視覚情報は薄れていき、足取りも徐々に遅くなる。
「少し休む?」
「う、ううん。大丈夫だよ…」
 まだ百メートルも進んでない。こんな調子では、着くのは夜になってしまう。
「雪ちゃん、スピード上げていいよ」
「ばか、無茶はよしなさい」
 大通りに出た。
 脇を車の音が通り過ぎていく。ここは歩道で、柵があるから安全だと分かっていても、爆音に寿命が縮むのは避けられない。
 小学生の頃に見ていた光景は、もう全く思い出せなかった。
 雪見とお喋りをする余裕もない。注意を聞きながら、懸命に杖で道を探る。
「わっ…!」
「みさきっ!?」
 平衡感覚を失い、続いて衝撃。
 杖が飛び、敷石の上を転がる音が聞こえる。
 何かにつまずいたらしいけど、何につまずいたのかも分からなかった。
「だ、大丈夫? どこか打った?」
「平…気…」
 身体の痛みは大したことない。というより、そこまで気が回らない。
 それより今のショックで、完全に居場所を見失ってしまった。
 ここがどのあたりで、どのような場所なのか、ただただ分からないという事実に飲み込まれる。広がるのは暗闇ばかり。
「助けて…」
 両腕で抱いた身体が震え出す。
「みさき…」
「助けて、雪ちゃん…」
 泣きたい。
 やっぱり無理だった。みさきはただの臆病者で、後輩の前に格好良く参上しようなんて無謀の極みだった。
「みさき」
 それでも…
 そんなみさきの姿を、知っていてなお、手を重ねてくれる親友がいた。
「ここにいるわ。何もできないけど、わたしはここにいるから」
「雪ちゃん…」
「行こう、上月さんが待ってる」
 小さな灯がともる。
 卒業間際に出会った、大切な後輩の名前。
「うん…」
 雪見に助けられながら、何とか立ち上がる。
 ああ、この親友はいつまでも傍にいてくれる。
 間もなく彼女は遠くの大学へ行き、距離的には離れてしまうけど、心はずっと近くにいる。
「うん…雪ちゃん」
 でも、あの子にそんな相手はいるのだろうか。
 頑張り屋で、決して弱音を吐かないで、もしかすると、誰にも弱みを見せたことなんてなかったんじゃないだろうか。
 だから、どうしても行かなくちゃいけない。
 役者不足かもしれないけれど、それがみさきにできる精一杯のことだった。


§


「もう少し」
「あとちょっとよ」
 何度そんな言葉を聞いたか知れない。
 それでも、歩いていればいつかは辿りつくものだ。
 実感が湧かなかったので、公園の名前が彫られた台座を触ってみる。『市民公園』の文字が確かに存在していた。
「着いた…」
「桜には、まだ早いみたいね」
 確かに花の匂いはしないが、空気は少し暖かい。春は除々に近くまで来ている。
 だが、そんなことを味わうのはまた今度だ。
「時間はっ!?」
「三十分前よ、大丈夫。上月さんはまだ来てな――あ、いた」
 雪見の声が少し驚きを含んでいたので、近づく前に確認する。
「…どんな様子?」
「スケッチブックは忘れてきたみたい。一人でブランコに座って、俯いて…上月さんじゃないみたい」
 胸が痛くなる。走り寄りたいが、今のみさきにそれは叶わない。
 もどかしく、それでも使える器官があることを思い出し、大きく息を吸いこんだ。
「――澪ちゃん!」

 ブランコの鎖の音。
 そして地面を蹴る駆け足の音。杖は手首にかけ、両手を差し出す。
 指を打つ感触は、随分と久しぶりに感じられた。
『ケガしてるの!』
「え? あはは、ちょっと転んですりむいただけだよ」
『わたしのせいなの…!』
「違うよ、澪ちゃん」
 はっきりと、伝わるように言う。
「澪ちゃんのお陰だよ。澪ちゃんに会いたいって思ったから、何とかここまで来られたんだよ」
 澪の手は止まってしまった。
 何を言えばいいのか分からない、という状況には、声も指も等しく無力だ。
「ベンチまで案内してくれる?」
『…はいなの』
「わたしはジュースでも買ってくるわね」
「うん、お願い」
「そっちこそ頼んだわよ。わたしにとっても、大切な後輩なんだから」
 雪見の足音が遠ざかる。
 二人きりになって、ゆっくりべンチの方へ歩いていった。

「外は気持ちいいね」
 大きく伸び。達成してみると、どうしてこんな事を怖がっていたんだろうと思う。
『…やっぱり、みさき先輩はすごいの』
「すごくないよ」
『だって、ちゃんと克服してしまったの』
「すごくない。雪ちゃんが助けてくれたからだし、それに本当ならこんなこと、ずっと前にできてなきゃいけなかった」
 そこまで言って、澪の指がかすかに震えていることに気付く。
「澪ちゃん?」
『部長さんと一緒に、怒りにきたの…』
「え、なんで?」
『わたしが、弱音を言ったりしたから』
 苦笑する。みさきの方こそ、澪に怒られてもいいくらいだ。
「ねえ。私は澪ちゃんに、頑張れなんて言えない」
『……』
「だって澪ちゃんの方が、私よりずっと頑張ってきたんだから。そんな人に、逃げてばかりだった私は何も言えないよ」
『そんなこと…』
「だから、私は頑張るよ」
 見えないまでも、顔だけは澪に向けて、そう告げた。

「澪ちゃんに追いつけるように。今の私は先輩として、最上級生として、澪ちゃんに何も残せないけど…」
 ぶんぶん、と首を横に振るような風圧を感じ、それでも構わず続ける。
「でも、これから頑張るから。いつか澪ちゃんに、頼れる先輩として見てもらえるように。もしその時が来たら、澪ちゃんも――笑顔でいてくれると嬉しいな」
 澪の指は動かなかった。
 みさきはじっと待った。澪が言葉を伝えるまで、何時間でも待つつもりだった。
 やがてゆっくりと、音のない音が紡ぎ出される。
『ごめんなさい』
「澪ちゃん…」
『言い訳にしようとしてたの。みさき先輩でも駄目なんだから、わたしが駄目でも仕方ないって、そう思おうとしてた』
「…たまには、そういうことを考えてもいいと思うよ」
『でも! でも、みさき先輩は駄目なんかじゃなかったの。わたしも頑張る。みさき先輩に胸を張って報告できるように。諦めないで頑張るから…』
 言葉が、みさきの心に沁み渡っていく。
 懸命に涙をこらえながら、空気を震わせる。
「…私なんかでも、澪ちゃんに何かをあげられたのかな」
『みさき先輩も頑張ってるんだって、そう思えば、どんな辛いことでも乗り越えられるの』
 言葉になるのはそこまで。体に抱きついてくる感触を、強く、強く抱きしめる。
 雪見が様子を見に戻ってくるまで、二人はずっとそうしていた。


§


 公演の日がやって来た。
「わたしにとっては、今日が卒業式みたいなものね」
 ステージの下で、感慨深そうな雪見の言葉。
「雪ちゃん、こんなところで油売ってていいの?」
「まあ、実作業はあの子達に任せないとね。いつまでもしゃしゃり出るわけにもいかないでしょ」
 卒業式は既に数日前に終わっている。
 けれど二人とも、あまり卒業したという実感はない。雪見は先の言葉通り。みさきは――進路も決まらず、両親の優しさに甘えてばかりで、住居も相変わらず高校の前だ。
「私は、これからだよ」
「…ねえ、みさき」
「うん?」
「本当に、わたしがいなくなっても大丈夫?」
 少し深刻な声に、それでも今は、笑いながら答えられる。
「あんまり自信はないけどね。でもたぶん、何とかなるんじゃないかな」
「いい加減ねぇ」
「いつか、雪ちゃんにも会いに行くよ」
「…遠いわよ」
「澪ちゃんと一緒にね」
 想像したのだろう。親友の声は楽しそうなものに変わった。
「あなた達二人なら、何とかなりそうね」

 ぱたぱた、と耳慣れた足音が近づいてくる。
 たぶん今はスケッチブックも持っているのだろうけど、敢えて澪はみさきの手を取り、通訳を頼んできた。
「『準備完了しましたなの』だって」
「分かったわ。それじゃ始めましょうか」
「ん、なに? 澪ちゃん」
 もう一度伝言を頼まれ、言葉を読みとる。
「『部長さん、とってもお世話になりましたなの』、私もお世話になりました」
「ば、馬鹿ね。そんなこと改めて言わなくてもいいわよ」
「わ、雪ちゃん照れてるよ」
『意外と可愛いところもあるの』
「『意外と可愛いところもあるの』」
『そ、そういうことはそのまま伝えちゃダメなの!』
「…上月さん、後で覚えてなさいよ…」
『鬼なの〜!」

 二人と別れ、観客席へ向かう。
 笑っていたみさきの顔は、徐々に強ばっていく。


 舞台は、予想通りだった。
 一番前に座って、せめて気配くらいは察しようとしたけど…。
 できたのはせいぜい、澪の足音かもしれないという音を判別するだけ。具体的な演技は何も伝わらない。きっと一生懸命演じているのに。
(悔しい。悔しい)
(どうしてこの目は見えないんだろう)
 ひとしきり呪ってから、小さく息を吐いて、他の部員達の声に集中する。彼女達も頑張ってきたのだから。

 劇が終わった後、澪のところへ行って正直に伝える。
『仕方がないの』
 きっと寂しそうに笑っているのだろう。胸が痛むけど、それは事実だ。
 見えないのは、喋れないのは仕方のないこと。だから――
「だから澪ちゃん、お願いがあるんだよ」


§


『それでは、始まり始まりなの』
「ぱちぱちぱち」
 両手が塞がっているので、口で拍手する。
 健常者向けの劇は、みさきには伝わらない。
 だから、みさき向けの劇をやってもらえないかと頼んだのだ。
 無茶なお願いだったけど、澪は快諾してくれた。ずっとやりたかった話があるから、と。
『あるところに、お喋りの大好きな女の子がいました』
 脚本・主演は上月澪、観客は一人だけの、指点字を使った朗読劇だ。
『女の子が住んでいるのは、緑のきれいな森の中でした――』

 女の子はお喋りが好きなので、動物達とも話していました。
 鳥や獣や魚達と、大きな声で挨拶を交わします。
『クマさん、こんにちは』
『メダカさん、ごきげんいかが』


(…澪ちゃんの理想なのかな)
 みさきは少しそう思った。劇中に役者個人を見るのは良くないのかもしれないけど、今回は許してもらおう。

 しかし平和な森の生活に、とんでもない出来事が起こりました。
 空から宇宙船が降ってきて、中から宇宙人の女の子が出てきたのです。

(すごい展開だなぁ)
 これを聞いているあなたは、そんな馬鹿なと思うかもしれません。
(思ってない、思ってないよ)
 でも降ってきてしまったものはしょうがないのです。
 さあ大変! お喋りな女の子も、さすがに他の星の言葉はわかりません。
 物知りのフクロウさんも、頭のいいキツネさんも、みんなお手上げの状態でした。
 宇宙から来た子は、寂しくて一人で泣いています。
 そこで森の少女がどうしたかというと…


『ら――』
(!?)
 左人差し指と右中指が長時間押される。

『ららーららーらららー ららーららーらららー』

 ――歌だ。
 指を押す時間、強さ、リズム、全てを使って、一生懸命に歌っていた。
 
(『ずっとやりたかった話があったの』)
 きっとそれは、声を持たない澪にとっては、夢想するだけだったもの。
 それが今、形になっている。
 みさきは思考を差し挟むこともできず、ただ呆然と、流れの中に立っていた。

『らららーらららーらららーららー ららららららーらーらー』

 森のみんなも一緒になって、楽しい歌声が響きます。
 宇宙人の女の子に、初めて笑顔が浮かびました。
 みんな大喜び。二人の女の子を中心に、歌はいつまでも続きます。
 これからも大変かもしれないけれど、きっと大丈夫。だって笑顔があるんだから!
 めでたしめでたし。



『…おしまいなの』
「あ――う、うん」
 良かったよ、なんて言葉じゃまるで足りない。
 何か言わないと、と、気ばかり焦って何も出てこない。普段は無駄口ばかり叩いてるくせに、肝心な時に役に立たない声――
『ないてるの』
「え?」
 少し震える指で、澪が見ている光景が伝わる。
 頬に手を伸ばしてみる。
 物見えぬ両の眼が、今は十分に役目を果たしている。
「澪ちゃん、私…」
 その手を澪が取って、どこかへ導いていく。
 触れる感触はたぶん、澪の頬。流れる熱い何かは…
(…うん)
 澪の涙。千の言葉と同じくらい、その想いを伝えるもの。
「うん」
 溢れる涙を止めもせず、みさきは浮かんだ気持ちを、そのまま口にした。
「――伝わったよ、澪ちゃん」


§


 最後の下校路を、二人で歩く。
 両手を重ねながら、ゆっくりと。
「次に会うときは、せめて進路くらい決めておくからね」
『ダメなの』
「え、だめ?」
『だってわたしと話せるのはみさき先輩だけなんだから。責任を取って毎日会ってもらうの。明日も、明後日も、会いに行くの』
「そっか…うん、そうだね」
 作らなくても、自然に笑顔がこぼれる。
「それじゃあ、一緒に歩いていこうか?」

 校門の外に出て、少しだけ近くを散歩する。
 闇の中には、確かな景色は何も見えない。
 けれど代わりに、不確かだけど、小さな未来が見える。一緒にどこかへ出かけたり、おいしいものを食べたり。
 いつか雪見に会いに行ったり――そんなことを二人で話す。
「その時は、私が澪ちゃんの声になるよ」
『その時は、わたしがみさき先輩の目になるの』

 みさきは彼女の顔を知らない。
 その声を聞くこともない。
 それでも、澪の心の形を知ってる。想いが伝わる。見た目よりもきっと大切なもの。だから少しだけ、少しだけだけど――
 見えないのもいいのかもしれないと、初めて思った。









<END>





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