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この作品は「To Heart」(c)Leafの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
保科智子シナリオに関するネタバレを含みます。
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 修学旅行も近づいた4月。
 その日のホームルームは自由行動の班分け。メンバーが決まり切ってるわたしたちにはやることなくて、3人で適当にお喋りしてた。北海道楽しみだねぇ、って。
「それじゃそろそろメンバー表を集めますのでー」
 時間が来たので、旅行委員の雅史ちゃんが教壇に上って声をあげる。
 用紙に書かれた名前は浩之ちゃん、雅史ちゃん、わたし、クラスが別でもいいそうなのでもちろん志保も。
 みんなもだいたい決まってたらしく、待ちかねたようにざわざわと動き出した。
「じゃ、出してくるね。浩之ちゃん」
「おー」
 机の上であくびしてる幼なじみに、しょうがないなぁって思いながら、わたしは浩之ちゃんの席を離れた。

 そのときに自然と目に入った。
 浩之ちゃんの隣の席だったから。

 クラス中がグループに別れた中で、一人ぽつんと。






幸せのイメージ








 で、わたしはなんとなく声をかけていた。
「保科さん、どの班か決まった?」
 ずっと机を見ていた彼女が、眼鏡ごしの視線をこちらに向ける。
 保科智子さん。
 去年の夏に神戸から転校してきて、わたしとは2年連続のクラスメート。
 頭が良くて委員長だけど、人嫌いでとっつきにくいというのが世間の評価。
 でもその時のわたしは、そんな都合の悪いことはすっかり忘れてて。
「あんたに関係ないやろ」
 だからいきなりそう言われて、とたんにパニックになってしまった。
「え、で、でも」
「‥‥‥‥」
「え、えと、決まってなければわたしたちの班と一緒にって」
「余計なお節介せんといて」
「あ、あの…」
 ぷいっ、と横を向いてしまう保科さん。
 わ、わたし何かまずいこと言ったのかな。
 そうだよね、いきなりこんなこと言われて保科さんも迷惑だったよね、うん。あ、謝らなきゃ。
 そう思ったとき浩之ちゃんが立ち上がった。
「おいおい、いいんちょ。そりゃちょっと冷てーんじゃねーのか」
 わたしの感謝と、保科さんの不審の視線が同時に集中する。
「関係ないから関係ない言うたんや」
「そうは言っても困るのは旅行委員だぜ。なあ雅史?」
「そうだね保科さん、一応3人以上で行動する決まりになってるから」
「‥‥‥‥」
 緊張した空気が流れて、クラスの人たちまで注目し始める。
 わたしがおろおろしてる間に、保科さんがはぁ、と息を吐いた。
「名前」
「え?」
「一応、私の名前も入れといてんか」
 メンバー表を指さしながら、投げやりに言う保科さん。
「う、うんっ! わかった」
 喜びいさんでシャープペンを取るわたしに、カウンターのように冷たい声。
「名前入れとくだけや。当日は離れて歩くさかい安心し」
 ‥‥‥‥。
 無言で保科智子と記入して、とぼとぼと教壇へと持っていく。
「はい、雅史ちゃん…」
「あかりちゃん、気にしない方がいいよ」
「う、うん…」
 小声で雅史ちゃんに慰められ、やはりとぼとぼと席に戻る。ちらりと見た保科さんの顔は、ふんって感じにそっぽを向いていた。
 わたしが声かけなかったらどうするつもりだったんだろう…。
 そんな疑問も空しかった。


「えーーっ!? なんであのガリ勉女が一緒の班なのよー!」
 帰りに寄ったヤクドナルドで、店中に響く志保の声。
 ぱしっ
 間髪入れず浩之ちゃんが頭をはたく。
「いったーっ、何すんのよ馬鹿ヒロっ!」
「アホ、他の客の迷惑だっつーの」
「きーーっ」
「ま、まあまあ…」
 いつもみたいに2人をなだめてから、とりあえず目の前のポテトを一口食べる。
「ねえ志保、これって保科さんと仲良くなるチャンスだと思うんだ」
「あたしは別に仲良くなりたかないわよ」
「志保〜」
「あんたねぇ…。去年何言われたかもう忘れたんじゃないでしょうね」
「う…」
 去年の春の、始まったばかりの高校生活。一人だけ中学からの知り合いがいなかった彼女は、自己紹介で引っ越してきたのだと知った。
 遠くから来たんだし、慣れなくて大変だろうなと思って、わたしは何か助けになろうとした。
 で、その時も同じ結果。
『余計なことせんといて』
 それ聞いた志保が怒って、保科さんとすごいケンカして、そのために今も嫌ってる。
 わたしもわたしで声かけづらくなって、今日まで何もしなかった。
「で…でもね」
 でもそのせいで保科さんが一人で、修学旅行も一緒に回る人がいないのだとしたら。
「どの班にも入れない人がいるなんて、クラス全員に責任があると思うよ」
 せっかく同じクラスになったんだから。
「一人だけ仲間はずれなんて可哀想だよ」
「そうだね、誰かが率先して声をかけなくちゃね」
「ちっちっち、それはとんでもない思い違いね」
 コーラをすすりながら指を振る志保。
「そーいうのは相手を『可哀想』と思うことで見下してるのよ」
「わ、わたしはそんなつもりはっ…」
「バカ、こんな口ばっかり女の言うことなんて真に受けんな」
「何よ、むっかつくわねぇ〜っ」
「2人とも、少し落ち着こうよ」
 わいわい言い始める三人の間で、カラカラとオレンジジュースの氷をかき回した。
 浮かぶのはぽつんと押し黙ってた保科さんの横顔。
「ねえ志保。もしわたしが保科さんと仲良くなったら、志保もそうしてくれるよね」
「う〜〜っ…。まあ、あかりの友達はあたしの友達だけどぉ」
 うんっ、と頷いて、志保が友達であることに感謝する。
 こういう関係がもうひとつ増えるといいな。


「どーした、難しい顔して」
「う、うん」
 眠そうな浩之ちゃんと並んで登校しながら、どうやって仲良くなろうか考えていた。
 なにしろ保科さんの人嫌いは折り紙つき。ただ馴染めてないだけだと思うけど、そう思いたいけど…。
「はっ」
 考えてる間に、前方に見慣れたお下げ髪がっ。
 と、とりあえず挨拶だよね。うん、まずはそれからだよ。
「おはよう、保科さんっ」
「‥‥‥‥」
 ‥‥‥‥‥。
 ちらりと見ただけで行ってしまう保科さん。背後で浩之ちゃんのあくび声が聞こえる。
 ううっ…。く、くじけないもん。
「保科さん、いい天気だねっ」
「‥‥‥‥」
「修学旅行楽しみだねっ」
「何のつもりや」
「え」
「何考えてんのか知らんけど馴れ馴れしゅうせんといて。私、あんたとそこまで仲良うなった覚えあらへん」
「いや、あの…」
「迷惑や」
 ‥‥
 びしばしと突き刺さる言葉。
 痛がってる間に、やはり保科さんはさっさと離れてしまう。
 はあぁ…。
「あかり、遅刻すっぞ」
「う、うん、浩之ちゃん」
 いつの間にか追い越してる浩之ちゃんに、小走りで駆け寄る。
「あんま無理すんじゃねーぞ」
 浩之ちゃんは今日も優しかった。
「うんっ」

 お昼のチャイムが鳴ると同時に、お弁当箱抱えて保科さんに駆け寄るわたし。
 がたん!
「あ…」
 何か言う前に席を立たれてしまい、あわててわたしは追いかける。
 くるり
 うっ…
「いちいちついて来んといて。犬コロかあんたっ!」
「似たよーなもんだけどな」
「ひ、浩之ちゃ〜ん…」
「‥‥‥」
 限りなく冷たい視線を向けて、そのまま教室を出ていってしまう保科さん。
 動きを阻む見えないバリア。
「うぅっ…」
「神岸さんさぁ」
「え?」
 突然声をかけてきたのは岡田さんだった。
「なんであんな奴に構うわけぇ?」
「え? え?」
「そーそー。ほっときゃいーじゃない、あんな奴ぅ」
 松本さんも同調し、後ろで吉井さんが腕組みしてうなずいてる。
 こ、こういう時ってなんて答えたらいいんだろ?
「あ、あはは。だってせっかく同じ班になったんだし」
「そうは言っても、ホントはちょっとムカついてるでしょ?」
「身勝手だしねー。何様だってのあいつ。普通頭来るって」
「あんなのに気ぃ使うことないわよ、神岸さん」
「そんなことないよっ!」
 しん…
 はっ、思わず大声を出してしまったっ。
「あ、あのね。保科さんはクラスメートだし、岡田さんたちだってクラスメートなんだし、やっぱりクラスメートは仲良くしたいなって…」
 言ってる間にわたしへの視線はどんどん白くなっていき、不意にくるりと背を向けられる。
 聞こえよがしなひそひそ話を交わしながら教室を出ていく3人。
「神岸ってさー、いい子ぶってるよねー」
「あたしも前からそう思ってた」
「いい歳して『浩之ちゃ〜ん』だしさ、バカじゃないの?」
 ・・・・・・・。
 声が聞こえなくなると同時に、ため息をついて席につく。
「あかり、食わねーのか?」
「食欲ない…」
「そっか」
 勝手にわたしのお弁当を開いて、おかずをつまみ始める浩之ちゃん。あのねぇ…。
「ま、ぼちぼちやれや」
「ううう…」

 放課後。
 校門のところで待っていると、保科さんがすたすたと歩いてきた。
「あ。い、一緒に帰らない?」
「帰らない」
 ‥‥‥‥。
 仕方ないので勝手に横に並んで、なんやかやと話しかける。
 こっち向いてよ〜。
「そうだ、保科さんぬいぐるみとか好き? わたしいろいろ集めてるんだよ」
 そう言ったとき、初めて反応があった。
「…ガキ」
 ‥‥‥‥‥。
 もう、こうなったらあの手しかないね…。
「そ、それでね。特に多いのがくまの人形でね」
「さよか」
「もー、部屋の中くまで一杯でくまっちゃったよ」
「‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
 あ、あれっ…?
 『クマ』と『困った』をかける高等テクは難解すぎたかな…。
 いや、ひるんではいけないよ。今こそ一発逆転の大技を使うときだよ!
 そう思ったわたしは、おもむろに腕をあげると頭の上で輪を作った。
「なんちゃってー」







「ああっ!? どうしたの保科さん!」
 保科さんは無言でその場に崩れ落ちていた。
「あかん…しばらく立ち直れへん…」
「おもしろ過ぎて?」
「つまらんっちゅーねんアホー!」
 ええっ!
 そんな、わたしのギャグセンスが理解されないなんて…。
「とっておきのあかりギャグだったんだけどなぁ…」
「何やねんあかりギャグって…」
「保科さん、少しユーモアが足りないんじゃない?」
 ブ チ ィ
「なに図に乗って寝言ほざいとんねんこのアマ!!」
「ごめんなさいごめんなさい!!」
「頭ん中にコンクリ詰めて大阪湾に沈めたろかコラァ!!!」
「わたしが悪かったですううぅぅううっっ!!!」
 ぜーはーぜーはー
「もうッ…二度と話しかけんといてッ!!」
「ほ、保科さ…」
 もう一度ギロリと睨まれ、わたしが首をすくめている間に保科さんはさっさと行ってしまった。
 お、怒らせちゃったぁ…。とほほ…。


 案の定、次の日から何話しかけても無視されるようになってしまった。
「どうしよ〜、浩之ちゃ〜ん…」
「オメーがつまんねーギャグ言うからだろ」
「(面白いもん…)」
 そんなわたしなんて存在しないかのように、いつもと変わらぬ保科さん。
「自習はプリントです。チャイムが鳴ったら後から集めて私まで持ってきてください」
 関西弁のイントネーションで言いながら、てきぱきとプリントを配る。
 こういうとこ、やっぱり偉いと思う…。
「ねえ、保科さん」
「‥‥‥」
「ううっ…」
 相手にしてもらえないわたしは、すごすごと座席に戻ってプリントに取りかかり始めた。
 わたしがもう少し頭良ければ、保科さんと話も合うのかなぁ…。
 そんなことを考えながらプリントを埋めていると、8割方終わったところでそろそろと教室の扉が開き、誰かがしゃがんだまま入ってくる。
 クラス中が寝てるかお喋りしてる中で、ぴょこんと目の前で頭を出した。
「やっほー、あっかりー」
「志保っ!? 授業どうしたの?」
「自主休講よん」
 サボっちゃだめだよ〜。
「ま、いーじゃないのそんなことは。それより修学旅行のことだけどさあ」
「う…うん」
 勝手に喋り始める志保に、わたしも内心でため息ついただけでついつい話を合わせてしまう。浩之ちゃんと雅史ちゃんも寄ってきて、いつもみたいに4人で盛り上がり始めた。
 そうだ、修学旅行の話なんだから保科さんも呼ばなきゃ…と思って顔を上げたとき。
「‥‥‥‥」
 そこに待っていたのは極低温の怒りに満ちた瞳だった。
 しまったあっ、そういえば自習中だったんだっ!
「あ、あのごめんね保科さん。うるさかった?」
「あーら、さすがに委員長さんはマジメねぇー」
 フォローを志保がぶちこわす。
「し、志保っ」
「でもぉ、あたし達と同じ班になったんならもーちょっと協調性ってモンを持ってほしいわよねぇ〜」
 人差し指をあごに当てて偉そうに語る志保。あああああ…
 保科さんが小馬鹿にしたように鼻で笑う。まずいよ、まずすぎるよ〜。
「アホ言わんといてや」
「へ」
「あんたらに協調してたらこっちのレベルが下がるやないの。そこまで墜ちたくないわ」
「な…な…なんですってぇ〜〜〜〜!!」
「浩之ちゃんっ!」
「おうっ」
「ち、ちょっと何すんのよ馬鹿ヒロモガガ」
 浩之ちゃんと雅史ちゃんが絶妙のコンビネーションで志保を押さえつけてる間に、謝ろうと駆け寄るわたし。
「あの、あのね保科さん」
 ガタン!
 保科さんは椅子を蹴って立ち上がると、静まりかえる教室を闊歩して扉に手をかけ、出ていきざまにピシャン!と閉める。わたしも慌てて追いかける。
 彼女が遠ざかった頃を見計らって、クラス中が爆発したように喋り出す。
「あーいう女なのよねぇ。あーヤダヤダ」
「こっぇ〜、保科の奴」
「ヤクザの娘だって噂、案外ホントだったりしてぇ〜」
 煽ってるのはやっぱり岡田さんたち…。ぎゅっと唇を噛みながら、聞かないようにして扉を開けた。
 廊下に踏み出すわたしの背中に、追い打ちをかける志保の声。
「なによ、あたしよりアイツの方が大事なわけ!?…あかりのバカっ!!」
 ‥‥‥‥。
 なんでこうなっちゃうんだろう?

「保科さんっ…」
 無視して早足で歩いていく。
「ど、どこ行くの?」
「‥‥‥」
「…えと」
「図書室」
 じろりと睨みながら、そう答える。
「教室やとうるさくて勉強できへんやん」
「ご、ごめんなさい…」
「別にええで。仲良しグループ同士、好きなだけ騒ぎ」
 そういう言い方しなくても…。
「あのね、修学旅行一緒なんだし」
「しつこいやっちゃな!」
 廊下なので小声だったけど、わたしの耳には強く響いた。
「何? 一人ぼっちで可哀想とか思ったん?」
「そ、そんなんじゃないよっ」
「あんたは自分の友達と仲良うしてればええんや。おすそ分けしようなんて何様のつもりやねん、ったく」
 それ以上の会話に耐えられず、ごにょごにょと言い訳して帰投。
 戻ると既に志保の姿はなかった。


 あっという間に暗礁に乗り上げちゃったよ〜…。
「あかり、次教室移動だぜ」
「う、うん」
 喋りながら歩く浩之ちゃんと雅史ちゃんの後ろを、ついていくだけのわたし。
 志保にもあれ以来なんとなく避けられてる。
 なにやってるんだろうなぁ…。
「あ…。資料集忘れた」
 教室に置いてきちゃった…。
「ったく、しょーがねー奴だな」
「ご、ごめんね。先行ってて」
「あかりちゃん、大丈夫?」
「う…うん」
 周りに心配かけてる。
(だめだなあ、しっかりしないと…)
 何度も思ってることをまた繰り返して、早足で教室へと戻る。どうしたらみんな仲良くなれるんだろう。
 わたしなんかが、そんなこと考えるのが間違いなんだろうか。

 教室の扉は少しだけ開いていた。
 早く取ってこようと手をかけたところへ、隙間から誰かの制服が見える。
 あれ、次が教室移動って知らないのかな?
 扉を開いて声をかけようとする…

「―――!」


 ほんの一瞬だった。
 机の音を立てて立ち上がり、表情を隠すように、すぐさま顔をそむけた彼女。
 でも、その直前にはっきりと見えた。
 眼鏡越しの、なにかを押し殺した赤い瞳。
 泣いてた…?

「え、えっと…」

 無言。
(どうしたの?)
(何かあったの?)
(わたしでよければ力になるよ)
 そんなありきたりの言葉も出てこない。
 目を逸らしたまま、わたしの方を見もしない彼女には、振り払われるって分かってたから。
「…とっとと、出ていってくれへん?」
「‥‥‥‥」
 資料集を持って、回れ右して出ていった方が良かったのかもしれない。
 でもわたしは近づいてた。
 切り出す言葉が見つからずに、たぶん曖昧な愛想笑いを浮かべて…
 コツン
 その足に何かが当たる。
「あ…。ノート落ちてるよ」
 保科さんが立ったときに落ちたのだろう。ようやくきっかけが掴めて、少し安堵してそれを拾う。

 開かれたページが見えた。
 石像のように、硬直するわたしの体。

「っ! 返しっ!」
 初めてこちらを向いた保科さんが、ひったくるようにして取り上げる。
 けど白い紙上に踊る文字は、はっきりとわたしの目に焼き付いていた。
「ひど…」
 思わずそんな声が漏れる。

『生意気女』
『神戸に帰れ!』
『ムカツク』
『死ね』

 文字の形をした悪意。
 蛍光色の色彩が、毒々しく映る。

「誰っ…。誰がこんなことっ…」
「‥‥‥‥」
 泣きそうなわたしを、保科さんが睨み付けていた。
「わ、わたしじゃないよっ!」
「アホ、誰もあんたなんて思ってへんわ」
 はん、といった感じで鼻を鳴らす。
「あの3人に決まっとるやろ。ホンマ、低レベルな奴らや」
「あ…」
 岡田さん、松本さん、吉井さん。
 すぐに名前が浮かんでしまうのが我ながら嫌だった。
 でも筆跡が3人分。特にあの、一瞬見えた丸っこい文字は、松本さんの筆跡だ。週番の日誌で見たから分かる。
「あ、あの…」
「なに深刻そうな顔しとんの。何でもない言うてるやろ」
「わ、わたしから3人に注意するよ。わたしじゃダメだったら浩之ちゃんに頼んで…」
「アホかっ!」
 怒鳴りつけられ、身をすくめる。
 わたしが悪いことしたような気分だった。
 同じクラスメートがこんなことしてるんだから…
「誰かに喋ってみぃ、絶対に許さへんからなっ!」
「で、でも…」
 うんわかった見なかったことにするね、なんて言えるわけもなく、といって力になれることも思い浮かばず、口ごもるだけのわたしを、保科さんは苛立たしげに一瞥した。
「迷惑や」
「保科さん…」
「履き違えた親切の押し売りされるほうが、よっぽど迷惑や!」

 荒々しく音を立て、廊下へと出ていく彼女。

 誰もいない教室で、一人ぽつんと立ち尽くしていた。


 どうしよう…。

 あれから数日。
 保科さんは何事もなかったかのように、無表情で毎日を過ごしてる。
 それを横目で見ながら、ひそひそと何か話してる岡田さんたち。
 わたしは何もできず胃を痛くするだけ。
 その日も進展なく終わり、まっすぐ帰る気にならなくて、公園に寄り道して一人でブランコを揺らしてた。
「(よけいなこと知っちゃったなぁ…)」
 ついそう考えてしまう自分の頭を、ぽかぽかと殴りつける。
 そうじゃないでしょ。
 保科さんのために、何ができるか考えるべきでしょ。

『死ね』
 目に焼き付いたあの文字が、頭の中でぐるぐる回る。
 信じられないよ。
 どうしてあんなことできるの!?
 自分がそういうことされたらって、少しも思わないんだろうか?
 …って、怒っても…
 それが『履き違えた親切の押し売り』なのかもしれないなぁ…

「どうしたの、あかりちゃん」
「わあっ」
 ブランコから落ちかける。
「ま、雅史ちゃん…」
「ご、ごめん。驚かせちゃった?」
「う、ううん。ちょっと考え事してただけ」
 えへへ、と笑うわたしの隣の、空いたブランコに雅史ちゃんが座る。
「…保科さんのこと?」
「あ…」
 うん、実は…って相談できたらどんなに楽だったろう。
『誰かに喋ってみぃ、絶対に許さへんからなっ!』
「…ごめん、何でもないんだ」
「そう…」
 キィ…
 夕焼けの中で、きしんだブランコが音を立てる。
 人当たりのいい雅史ちゃんなら、上手に彼女と付き合えるんだろうか。
「ダメだなわたし、何もできないよ…」
「あかりちゃん…」
「スポーツも勉強も今ひとつ。
 何かに打ち込んでるわけでもないし、取り柄があるわけでもない。
 …何の力もないんだって、思い知らされた」
 いつも浩之ちゃんや、雅史ちゃんや、志保の後ろにくっついてればよかった。
 そんなわたしが、何をする気だったんだろ。
 ‥‥‥‥
 しばらく沈黙が流れて、夕日を見ていた雅史ちゃんがふと漏らす。
「あかりちゃんは、一番大事なもの持ってると思うけどな」
「なにを?」
 きっとお世辞だろうな。そんなひねくれたことまで考えるようになってしまったわたしに、雅史ちゃんがにこりと笑いかける。
「人徳」
 一瞬きょとんとして。
 単語の意味を理解したとたん、顔が赤くなる。
「ない! ないよそんなの、全然ないっ」
「あるよ」
 あ、あるとすれば雅史ちゃんだよ〜。
 なのに当人は、真面目な顔で話を続ける。
「正直言って、僕は別に保科さんのために何かしたいとは思わない。
 彼女のことは嫌いじゃないけど、好きでもないし。
 でも、あかりちゃんの力にならなりたいと思うよ。
 それだけあかりちゃんが、周りを大事にしてるから」
「か…買いかぶりだよ」
「でも志保なんて、あかりちゃんに惚れ込んだから、今僕たちとも一緒にいるんじゃない?」
 買いかぶりすぎだ〜。
 …でも
 そう言ってくれるなら、そういう行動をしたい。
 ぴょんっ、とブランコから飛び降りる。
「ありがと、雅史ちゃん」
「うん…。僕で力になれることがあったら言ってね」
「うんっ」
 少しだけ、道が開けたような気がした。


 決めた。
 あの3人にちゃんと言おう。
 それで保科さんに嫌われても、いじめがなくなるならその方がいい。
 いや、そう決めてから既に3日経ってるんだけど。
 いざ切り出すとなると難しいなあ…。
 キーンコーン
 昼休みになり、保科さんは屋上へと出ていった。岡田さんたちもちょうど3人で固まってる。言うなら今だよね…。
 うん、『義を見てせざるは勇なきなり』って昔の人も言ってるよ。勇気出せ、あかり!
「あ、あのっ、ちょっといいかなっ」
 ついに切り出したわたし。うさんくさそうにこちらを見る岡田さんたち。
「何?」
「あ…えっと…」
 他の人に聞こえないように、少し声のトーンを落とす。
「保科さんのノートのことなんだけど…」
 3人の目つきが変わった。


 …あれ?
 な、なんでわたし、校舎裏に連れてこられてるのかな〜…?
「で、保科のノートがなんだって?」
「え、えと…」
 岡田さん怖いよ〜。
「も、もしかして保科さんのノートに落書きしてないかって…」
「‥‥‥」
「あ、ご、ごめん、違うよね! そんなことするわけないよねっ」
 別にイヤミのつもりじゃなかったんだけど、目の前の人たちはそう取ったらしい。
「したわよ」
「え…」
「ち、ちょっと岡田!」
 吉井さんが止める間もなく、岡田さんは開き直った。
「そーよ、あの生意気女にあたしたちが天罰下してやったのよ! それがどうしたっての?」
「なっ…」
 言いたいことは山ほどある。
 でも言葉が出てこない。3対1だし…
「あ、あのね。クラスメートなんだから仲良く…」
「それは前に聞いたわよ」
「え、えと」
「ちょっとぉ〜、結局あんたって何なわけぇ?」
 わたしが弱気なのを見て、急に松本さんが高飛車になる。
「いい子ぶっちゃってぇ、あんたに関係ないじゃん」
「そーよそーよ」
「で、でも、あれはひどいと思う…」
「それがいい子ぶってるってのよっ!」
 どんっ!
「あっ…」
 思い切り肩を突かれ、よろめく体を必死で押し支える。
 怖い…
「ちょっ、マズいって岡田!」
 吉井さんが制止する。もしかして味方っ?
 と、期待したけどそれ以上は何もしてくれなかった。
「だいたい保科が悪いんじゃない。性格最悪だし」
「そうよぉ、人を馬鹿にしてさぁ」
「そ、それはそっちが突っかかるから…」
「なによ、あたしたちが悪いって言うの?」
 ‥‥‥‥。
 そぉだよ…。
「元々あーいう奴なのよね。陰険で自己中だし」
「周りのことなんて全然考えてないんじゃない。身勝手なのよね」
「な…!」
 瞬間、フラッシュバックする、委員長としての保科さんの姿。
 ひとりきりの教室で、誰にも見せずに泣いてた光景。
 押しつけられた仕事なのに、黙々とクラスのために働いて。
 その仕打ちがこれ…?
「その言葉、そっくりそのまま返すよ…」
「なんですって!?」
「あなたたちに比べたら保科さんの方が百倍真面目でしょ!?
 人付き合いが悪いのはしょうがないじゃない、個人の勝手なんだから!
 それをあんな陰険なことして…
 信じられない。よくあんなことできるね、人として最低だよっ!」

 言った後で、ああ切れるっていうのはこういう気分なのかぁ、と変に感心した。
 みるみるうちに2人の顔が赤くなっていく。
「な、なによぉ。えらそーに!」
「生意気よっ、神岸のくせに!」
 無茶苦茶なことを言って、岡田さんが手を振り上げた。
 叩かれる…!
 そう思った瞬間、何も考えられなくなって、わたしはぎゅっと目をつぶった。

 ‥‥‥‥‥

「‥‥‥?」

 何も起きない。


「…てめーら、やっていい事と悪い事の区別もつかねーのか?」

 聞き慣れた声。
 おそるおそる目を開ける。
 見慣れた姿。こういうときはいつも来てくれる…
「浩之ちゃん――!」

 振り上げられた岡田さんの腕をしっかりと掴み、息を切らせた姿でニッと笑う。わたしを探して走り回ってくれたんだろう。
「ったく。無理すんなって言ったろ、あかり」
「な、なによ藤田、あんたには関係な…」
「ああ!?」
「ちょっ、痛っ、痛いってばぁ!」
 腕をねじ上げられ、涙を浮かべる岡田さん。あとの2人も震え上がってる。
 本気で怒ってる浩之ちゃん、初めて見た…
 はっ
「ひ、浩之ちゃん、暴力はだめっ!」
 せっかく助けてくれたのに悪いと思いつつ、浩之ちゃんの腕を押さえる。
 不満げに手を離す浩之ちゃん。うう、ごめんね。
 あらためて3人の方へ向き直る。
 我ながら現金だけど、浩之ちゃんさえそばにいてくれれば勇気百倍だった。
「ね。もうやめてね。
 他人を不幸にして、楽しい?
 あんなの、どう考えたって悪いことでしょ?」
「く…」
「わかった、神岸さん」
「吉井っ?」
 それまでどっちつかずだった吉井さんが、すっと前に出た。
「保科には謝っとくから。いいでしょ? 岡田、松本」
「で、でもぉ〜」
「それとも何? まだやる?」
 あたしゃもう嫌だよ、と吉井さんの態度が言っていた。
 あとの2人もちらりと浩之ちゃんを見て、渋々と承知する。
「じゃ、そういうことだから。悪かったわね、神岸さん」
「あ、うん…」
「それじゃっ」
 背中を押す吉井さんと、押される2人。
 そそくさと、逃げるように去っていった。
 はぁぁぁぁ…
 全身から一気に力が抜ける。
「おいおい、大丈夫かよ」
「寿命が10年は縮まったよ〜」
「…ま、お前にしちゃよくやったじゃねーか」
 ぽんぽん、と浩之ちゃんが頭を叩いてくれる。
 ふう、なんとかなったよ…と思ったけど、それで終わりじゃなかった。
「それと、そこの陰から見てるヤツ!」

 いきなり叫ぶ浩之ちゃんに仰天してる間に、校舎の壁の間から、おずおずと人影が出てくる。
「保科さんっ?」
「その…屋上から見えたもんやから…」
 ばつの悪そうに下を向く。び、びっくりしたよ…。怒ってはなさそうで良かった。
 でも浩之ちゃんの方が怒ってた。
「ほ〜お。で、あかりが一人でやり合ってるのを、そこから高みの見物だったってわけかい」
「ひ、浩之ちゃんっ!」
 さらに視線を逸らす保科さん。
「そ、その子が勝手にやっただけやないの。私が頼んだんと…ちゃう」
「お〜ま〜え〜な〜!」
「や、やめてよ浩之ちゃん」
 恩着せがましいとか…言われそうで嫌だった。
「保科さんの言うとおりなんだから。ごめんね、勝手なことして…」
 謝ったのに。
 急にその目つきが険しくなる。
「ホンマ、むかつく奴やわ…」
「え…」
「あんたのそのいい子面が、むかつくっちゅーとるんや!」
「てめぇっ!」
 切れかける浩之ちゃんを押さえてる間に、保科さんは背を向けて駆けていった。
 ‥‥‥‥。
「…ま、あいつも本気で言ったんじゃねえって」
「うん…」
 そうなのかな、でも…。
 もう、どうすれば機嫌損ねなくて済むのかわかんないよ…。


 でも、大丈夫だった。
 わたしがとぼとぼ帰ろうとすると、校門で保科さんが待っていた。
「あ…」
「…さっきは済まんかったわ」
 気まずそうに、か細い声で謝る保科さん。
「助けてもろたくせにあの言い草はあんまりやった。ごめん」
「い、いいよそんなっ。わたしが勝手にやったのは事実だし…」
 一瞬、複雑な顔をする彼女。
 ううっ、こういうこと言うのがいけないのかな…。
「あ…。歩きながら話さない?」
「そやな」
 ようやく、2人一緒に並んで帰る。
 なにか話題話題…。
「さっき、あの3人が謝りに来てん」
「そ、そうなんだ」
「あんたのお陰やな。おおきに」
「ううん…」
 よかった。とりあえず一安心。
 でも保科さんのお礼はなんとなく
 なんとなくだけど、言わなくちゃいけないから言ってるような気がした。
「あーあ、あんたに借りができてもうたわ」
「別にそんなっ」
「なんかで返さなあかんな。今度の中間テストの時にでも、出されそうなとこ教えよか」
「い、いいってば。それより…」
 ふっと息が止まる。
 そうだ、言わなきゃ。
 まだちゃんと言ってなかったんだから…。
「…わたしは、保科さんと友達になりたい」

 ぴくん
 眼鏡越しの視線が、少し下がる。

「ダメ…かな」
 そんなことを言いながら、図々しいわたしは、心の中で期待していたのだ。
 ダメじゃないよね、と。
 さっきの、あの程度のことで。


 口から流れ出る、わたしとは違うイントネーション。

「ごめん」

 …しばらくして、ぎごちなく笑うわたし。

「そ、そっか」
 落胆。
「そ、そだよね。わたしなんかじゃダメだよね」
「そういうんとちゃう」
 気まずくて、相手の顔が見られない。
 お互いに。
「…私、卒業したら神戸に帰るねん」
「神戸に?」
「向こうの友達とそう約束した。引っ越すときに。
 一緒の大学行こうなって。
 それだけが今の私の目標なんや」

 坂の下に広がる街並みを
 保科さんの目は、まるで映してはいなかった。
「あんたはええやつや思う。私なんかに友達や言うてくれるなんて勿体ないくらいや。せやけど…」
 見ていたのは遥か西。

「せやけど、私の友達はあいつらだけやねん。
 何処へ行っても、何があっても。
 転校したから…遠くに離れたから、とっとと別の友達作ろうなんて。
 そんなこと…したない」

 わたしたちのことなんて、最初から見てなかった。
 見たくなかったんだ…。

「神戸の友達への…義理ってこと?」
 押さえても、非難の音が混じってしまう。
「…そうかも、しれへんな」
 変だよ。
 そんなの変だよ。そう言うのは簡単だった、でも。
 でもわたしに何が言えるの?
 自分の生まれ育った場所で、昔からの友達に囲まれてるわたしに…。
「あんた、ホンマにええやつや」
 そう言う保科さんの微笑みは、遠くて、寂しくて。
「周りから好かれとるやないの。せやから、その人たちを大事にし。
 私みたいな身勝手な女にこれ以上構うことない」
「だ、だけど…!」
「堪忍な」

 深く下げた頭から、おさげ髪がこぼれ落ちる。

 そうまでされたら
 わたしは何も、言えなかった…




「…ま、しょーがないじゃない」
 あれからしばらくして、しょげかえってるわたしを見かねて、志保の方が折れてくれた。
「…うん…」
 連れてこられたヤックで、久しぶりに向かい合って座る。
「…ごめんね、志保にもいろいろ迷惑かけちゃって」
「バ、バッカねー。あ…あたしがちょっと拗ねてただけよ」
 しぃん…
 雰囲気を打ち消すように、志保が明るい声を張り上げる。
「しっかし保科も律儀よねえ。引っ越したんだから、引っ越し先で楽しくやりゃいいじゃない」
「保科さん、真面目だから…」
 それは不器用と言うんだろうか、強い想いと言うんだろうか。
 ハンバーガーの包み紙を折り畳みながら、ふとあることに思い至る。
「志保は?」
「へ?」
「あ…。ほ、ほら、いつもうちのクラスに遊びに来てるから…自分のクラスはいいのかなって」
 今まで考えたこともなかったけど。
 修学旅行の班も、志保のクラスにしてみれば、志保だけ別クラスの班に入ったことになる。
 もちろんわたしには嬉しいことでも、壁の向こうの教室には、別の社会があるはずなのに…。
「や、やあねー。あたしはアイツとは違うわよ」
 笑いながらそう答える。
「あたしのクラスじゃそりゃもうアイドル状態なんだから。オールマイフレンヅって感じ?
 そーゆー忙しい中で遊びに行ってやってるのも、あかりが寂しがってると思えばこそよ」
「そ、そうだよね。いつもありがと」
 あはははは…。
 微妙に乾いた笑い声が唱和する。
「でも…」
 ぱりっ
 焦げたポテトをかじって、言葉は続いた。
「…少しは、保科の気持ちも分かるけどね。
 あたしの親友はあかりだけだから。
 クラスが変わろうが転校しようが、あたしはあんたが一番大事だと思う…」

 …嬉しい。
 嬉しいよ、でも…
「ってなに恥ずかしいこと言わせてんのよこの子は!」
「ああっ、ひどいよ志保〜」
 伸びた志保の手に髪の毛をくしゃくしゃにされて、ごまかすように笑う。
 たぶんわたしも同じなんだろう。
 もし引っ越して、転校することになっても。
 そこでできる友達より、志保たちの方が大事なんだろう。
 だったら、保科さんの方が誠実なのかもしれない。


 それ以来
 彼女は、前にも増して一人になった。
 岡田さんたちとやり合うこともなくなり、誰とも話さず。
 出来る限り周囲と関わらないようにしてる。

 もうわたしに出来ることはなかった。
 前みたいに一方的に拒絶されてたならともかく
 ちゃんと理由を説明して、はっきり断った人に
 まだ何かしようとするのは、それは単なる押しつけだ。

 しょうがないよ…。
 いじめを止めさせただけでも、わたしとしては上出来だよ。
 しょうがないよね…。


 …修学旅行まで、あと僅か。



「うわ、土砂降りになってるよ〜」

 多めに作った肉じゃがを、浩之ちゃんにおすそ分けした帰り。
 すっかり暗くなった外で、小降りだった雨が、いつの間にか大降りになっていた。傘はともかく靴の方がまずい。これ、旅行に履いていくつもりなのに〜。
「ううっ」
 水たまりを避けながら家へと急ぐ。当日は晴れるといいなぁ…。
 …あれ?
 家の前の道路に人影。夜の闇と雨足で、よくは見えない。
 よくは見えないけど、な、なんかわたしの部屋を見上げてるような…
 ざあざあと降りしきる雨。傘も差してないみたい。さすがに不気味で、そこへ出ていく勇気はなかった。
 困ってる数秒の間に、不意に人影が動き出す。こちらに背を向けて、よろよろと何処かへ歩いていく。
 その人には悪いけど安堵の溜息をついて、わたしは家に入ろうとした。
 街灯の輪の中に入り、人影が照らし出される。
 うちの学校の制服。
 おさげ髪…

「保科さんっ!?」

 びくっ!
 跳ねるような反応。あわてて駆け寄る。
「ど、どうしたの!? びしょ濡れだよ、何かあったの?」
「神岸さん…」
 差し出した傘の下の彼女は、一目で普通じゃないと分かった。
 死んだ魚のような暗い瞳。
「いや…何でもあらへん」
「何でもないってことないでしょっ」
 顔を上げ、自嘲気味に笑う。
「ごめん…。そら気になるわな、何しとんねん、私…」
 いつもの保科さんなら、絶対にしない。
「騒がしてすまんかったわ。ほな…」
「ち、ちょっ」
 行ってしまおうとする彼女の腕を反射的に掴む。
 行かせちゃいけない。
「上がっていってよ。お風呂沸いてるし、着替えくらいあるし」
「あ、あかんやろ、そんなん…。
 この前あんな大見得切って、関わるな言うといて
 今さらどの面下げてあんたに頼れるねん…」
「でも、頼りに来たんでしょっ」
「‥‥‥‥」
 来たくて来たんじゃないんだ。
 ここしか来られなかったんだ…
「困ったときはお互い様だよ。
 今近くにいるのは神戸の友達じゃなくて、わたしなんだから…」

 表情が硬くなる。
 言ってしまってから、当てつけに聞こえたのかもしれないと思った。
 数瞬の後、かすれた声。

「…ごめん…お邪魔するわ」


「お茶漬けでいいかしらね」
「うん、ありがと」
 お風呂へ案内して着替え用意してる間に、お母さんがお茶漬けを作ってくれていた。
 あの分じゃあまり食欲なさそうだから、これでいいよね。
「入るよー」
 ノックして、わたしの部屋に入る。
 わたしの服を着て、カーペットの上にぺたんと座ってる保科さん。う、胸がきつそう…。
 でも本人はそんなこと気にもならないように、相変わらず死んだ目をしていた。
「はい。うちのお母さん料理研究家だから、たぶんおいしいと思うよ」
「‥‥‥‥」
「って、お茶漬けじゃあんまり関係ないか。あははー」
 しーん
 き、気まずい。
 やっぱり食事する気分じゃないらしく、二、三口食べた時点で箸を置いた。
「…なんも聞かへんのやな」
 ぽつりと、呟くように。
 喋るのも苦痛なほど、ボロボロに見える。
「保科さんが話したくなったら、話してくれればいいよ」
 ついそう言ったものの、事情聞かなきゃ慰めようもないよね…
 そんな考えが読まれてしまったのか、彼女は小さく口を開く。

「私だけやってん…」
「…え?」
「友達やと思ってたん、私だけやってん…!」

 それから聞いたのは、心臓の痛くなるような話だった。
 保科さんと、2人の幼馴染み。
 すごく仲が良くて、同じ大学に行こうねって約束してたのに。
 遠く離れてる間に、その2人は付き合ってた。
 そんなの全然知らなかったのに…

「好き合うんは本人の気持ちやから別にええねん。
 せやけど、黙ってることないやんか!
 私はその程度の存在やったん!? ただのお邪魔虫やったんか!?
 私は…」
「保科さん…」
「私がいなくてせいせいしたって、あいつら思っとったんか…?」

 …過敏な反応だと思う。
 でも人ごとじゃないかもしれない。
 そう、例えばわたしが遠くに行っている間に、志保と浩之ちゃんが…
「(―――っ!)」
 頭を振って嫌な考えを追い払う。
 なんてとんでもないこと考えるんだろう。
「そ、そんなこと思ってるはずないよ。なにか深い事情があって…」
「つまらん気休め言わんといて!」
 自覚してるだけに返せない。
「もうええねん、私がアホやったんや!
 遠くに行った奴のことなんか、すぐに忘れられるんは当たり前やんか。
 勝手に信じて、期待した私が間違いやったんや…」

 悲鳴のように、叫んで、堪えきれなくなった雫が何滴か落ちていく。
 間違い?

 友達を信じることが 期待することが?
 そうかもしれない。そういうこともあるかもしれない。
 でもそれは――

「だめだよ」

 わたしはそう言っていた。

「そんなこと言っちゃだめだよ!」

 そうじゃないこともあるって知ってる。
 志保や、浩之ちゃんや、雅史ちゃんと過ごしてきて、それを知ってる。
 だからわたしはそう言っていた。

「神岸さん…」
「友達なんでしょ? すごく大事なんでしょ!?
 だったらそんな簡単に捨てちゃだめだよ!」

 保科さんが、どれだけ友達を大切にしてたか。
 身をもって知ってたから――!

「ちゃんと話してみたの?
 誤解かもしれないし、事情があったのかもしれない。
 もしそうだったら、そんなこと言うのって悲しいだけだよ。
 そんな簡単に言わないでよ…」

 こんな終わり方が、あっていいわけないよ…。
 支えを失くした彼女が、弱々しく顔を上げる。

「せやけど、どないしたらええねん。
 話してみて、ホンマやって知らされたら…」

 ぽろぽろと涙が落ちていく。

「お前なんかいらんって。
 お前なんかいなくても、こっちはこっちで楽しくやってるからって。
 そう言われたら、私、どないしたらええねん…」

 最後の方は嗚咽だった。


 怖かったんだね。
 離れていることで弱くなっていく絆が。
 大事な人たちの中で、薄れていく自分が。

 今の時間を凍らせてまで、過去を繋ぎ止めようとして

 この街で、恐怖に耐えながら生きていく日々は
 一体どんな思いだったんだろう。

「大丈夫だよ」

 彼女の手をぎゅっと握る。
 今はそう言うべきだと思った。

「大丈夫。そんな簡単には消えない。
 離れても、続く気持ちはあるよ。
 保科さんがあんなに大事にしてた人たちなんだから、大丈夫だよ…」


 言葉はそこまでだった。
 泣き続ける保科さんの手を、それからずっと握っていた。
 たぶん、届いたと…思う。



 帰ろうとするのを半ば無理矢理引き止めて、今日は泊まっていってもらうことにした。
 ベッド使っていいよ、いやあんたが使い、と押し問答の末、結局一緒に寝ることになる。

「電気、消すね」
「ええよ」
 パチン
 何も見えなくなった部屋で、手探りでベッドに潜り込む。
 しばらく経って慣れた目に、保科さんの顔がぼんやりと浮かび上がった。
「はぁ…」
「何や?」
「え? 眼鏡外した保科さん美人だから、羨ましいなって」
「ア、アホ。何下らんこと言うてんねん」
「ううっ、美人でスタイルのいい人には分かんないよ…」
 少しの間をおいて、小さな声で笑う。
「…ホンマ、変な子やな。あんた」
「そ、そうかな」
「そやで。普通私みたいのに関わろうなんて思わへんやん。
 そんな何の得にもならんこと、普通はせえへんやろ…」
「そうかな…」
 そうなのかな。

「でも、普通だと思うな。
 目の前の人が、不幸せよりは幸せな方がいいって
 そう思うのは普通なんじゃない?」

「そっか…」
「うん」
「私、ひねくれもんやから」
「素直だと思うよ」
「‥‥‥。おやすみ」
「おやすみ…」
 目が覚めたときは。
 新しい時間が始まる。そんな予感とともに、わたしはゆっくりと目を閉じた。



 ――そして

 今、北海道の空の下にいる。

 北の街並みを歩きながら。
 自由行動の班なんて小さな固まりでも
 それは二度とない大事な時間。

「委員長、あれって何の建物だ?」
「何かの記念館だよね? 委員長さん」
「下調べくらい自分でしぃ!
 だいたい何やの佐藤君、その『委員長さん』っちゅーんはっ!」
「え? いやあ、なんとなく…」
 笑い合う。
 やってみれば簡単だったね。
 何処にでもある関係だね。
「う〜っ、5月なのに結構涼しいわね」
「北国に来たくにーって感じだねえ」
「‥‥‥‥」
「ああっ、みんな置いていかないでぇ〜」

 歩きながら、ふと保科さんが小声で話しかける。
「…昨日、神戸に電話してん」
「え…。そ、そうなんだ」
 少し緊張するわたしを、安心させるように微笑んで。
「やっぱ、あいつらアホやったわ。
 私がいない間にあんなことになってもうて、後ろめたくて。
 なんか裏切ったみたいで、言い出せへんかったんやて」
「そう…なんだ」
 良かった。
 遠くでも、変わらなくて。わたしにとっての普通があって。
「っとに、変に気ぃ使うからややこしくなるっちゅーねん」
「保科さんもね」
「‥‥‥。あんた、思ったより強気やなぁ」
「いひゃいひょほひなはん〜」
「こらこらこらーーっ!」
 ほっぺた引っ張られてるところへ、志保が勢いよく割り込んでくる。
「あかりにそーいうことしていいのはあたしだけなのよっ!」
「はーぁ、女の嫉妬はみっともないで」
「き〜っ、なぁんですってぇ〜〜っ!」
「ったく、前よりうるさくなったじゃねーか」
「あははは…」
 そして
 また笑い合う。
 笑い合える人はいるね。
 きっと、何処へ行っても。

「…保科さん?」
 立ち止まって、遠くを見てる彼女。
 わたしの知らない場所を映して…
「いつか、神戸に帰ったとき…」
 そして、こちらを振り返る。
「…土産話のひとつもないんは、つまらんもんな」

 ――笑顔。
「うん…!」

 そのときは、色んな思い出ができてるね。
 友達と一緒に。

「お〜い、置いてくわよ〜っ」
「ま、待ってよ〜」
「こら、待たんかいっ」

 色鮮やかな時間が動き出す。


 そんな新しい――予感。








<END>






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