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この作品は18禁ソフト「To Heart」(c)Leafの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
芹香シナリオ、葵シナリオに関するネタバレを含みますのでご注意ください。
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 寒い朝起きるのは嫌だけど、寝ていられるなら冬がいい。暖かいベッドの中で綾香は非常に幸せだ。
 来栖川家のご令嬢の、中学生最後の冬。本来なら受験勉強に没頭する時期に我ながら呑気なものだけど。
「‥‥‥‥‥」
 うっすらと開けた目に金色のトロフィーが映る。中学空手で全国優勝。先週まではあれを手に入れるため、日曜も渋々定時に起きて練習していたのだ。大会の終わった今少しくらい寝坊してもバチは当たるまい…というのが今現在の言い分である。
「んー…極楽極楽」
 怠惰を絵に描いたような顔で寝返りを打ち、何かの影を感じて再度薄目を開けた瞬間――館の中に叫び声が響きわたった。

 来栖川綾香、中学3年の冬の日の記憶。









二つの福音









「何事でございますかお嬢様ーーーッ!!」
 轟音とともに飛び込んでくるセバスチャン。忠実な執事の彼が見たのは、真っ青な顔で壁に張りついている綾香と、ぼーっと突っ立っている芹香の2人だった。
「こっ…これは一体ッ!?」
「め、め、目の前に姉さんの青白い顔がぁぁぁあっ!」
「…成程」
 などと納得するのも失礼だが、想像してみれば綾香の反応もよく分かる。申し訳なさそうにしゅんとする姉に、さすがに醜態と思ったか照れくさそうに、かつ未練がましく妹はベッドへ戻った。
「はー、心臓止まるかと思った…。何してんのよ、姉さん」
「‥‥‥‥」
「は? 気持ちよさそうに寝てたので起きるの待ってました? あーそう…」
 ぶすっとした綾香に芹香は少しおろおろしながら、小さな声で、いい天気だから一緒に買い物に行こうかと思って…と言った。
「今何時だと思ってんのよ」
「とっくに10時半でございます、綾香様」
「ぐあっ。い、いつの間に…」
 顔半分だけ毛布から出して時計を見る。セバスチャンの言うとおり10時半すぎ。8時くらいかと思ってたのに…。
「まだ寝てたいわよー」
「嘆かわしやっ…! これが来栖川家のご息女の姿かと思うとじいは悲しいですぞっ!」
「まったく、どういう育ち方したのかしらっ。 …ん、何? 姉さん」
 綾香のパジャマの裾を引っ張った芹香は、それはそれは暗い顔で、起きるまで待ってますから好きなだけ休んでください…と言った。さすがの綾香も抵抗の余地なし。
「わーかったわよ起きます起きますっ! 起きりゃーいいんでしょっ」
「‥‥‥‥」
「え? 重ね重ねごめんなさい? 最初から起きる気だったってばっ。セバス、着替えるから出てって」
「ははっ、失礼しました」
 扉を開けながら、眼鏡越しの視線を姉妹に送る。確かに眠かろうが何だろうが最後には起きてただろう。芹香が外出するときは必ず綾香が隣にいたから。
 なんだかんだで、最後には姉に甘いのだ。この妹は。

「お待たせー、姉さん」
 先ほどのぐうたらな姿はどこへやら、切り替えの早い綾香は、薄手のコートを颯爽と翻して現れる。対する芹香は厚手のコートに、毛糸の帽子に、マフラーに、手袋と、完全防寒装備だが、黒系統でまとめられて何やら神秘的だ。
「綾香様、ご朝食はどうなされるので」
「ヤックででも適当に食べるわ」
「ああー嘆かわしや! そんな事をなさるお嬢様など聞いたことがありませぬわ!」
「次世代お嬢様と呼んでちょーだいな」
 肩をすくめて答えながら、ふと声を落とす。
「丁度いいわ。今日姉さんに話す」
「…左様でございますな」
 2人にしか分からぬ会話を素早く交わすと、玄関でぼーっと待ってる姉のところへ歩いていった。
 …あまり楽しい一日にはならないかもしれない。


 来栖川邸の玄関を一歩出ればもうすっかり冬だ。吐く息も白い。
「ホラ、さっさと行きましょ」
「(…こくん)」
 綾香が手を引く。そうすることで芹香は門をくぐることができる。初めて会ったときからいつもそうだった。
「で、何買うの?」
「‥‥‥‥」
「は? 幸福の水晶柱? 姉さんも好きねぇ…」
 現実的な綾香の性格はオカルト趣味の対極に位置する。といって姉の趣味が嫌なわけではなく、格闘技の対極に位置する芹香がそれでも綾香の活躍を喜んでいるように、綾香の方も姉の趣味はまあ姉さんらしいと思っていた。
 商店街へと歩いていく2人の前に、街の佇まいはいつもと変わらず。ただどうしてもこの姉妹は人目を引く。特に常人と少し異なる雰囲気を持った芹香は、ぴんと張った寒さの下では何か神聖なものを感じさせ、それが綾香にはちょっと誇らしい。
「とりあえず朝ご飯済ませちゃっていい?」
 こくん。
「じゃ、ヤック入りましょ。姉さん初めて? え? 前に私に連れてきてもらった? そだっけ」
 実のところ何処へ行ったか把握してない程度に、綾香は姉を連れ回している。そうでもしないとこの人は永久に家と学校を往復するだけなのだ。
「姉さんホントに食べないの? ま、そりゃそうよね11時前だし。ポテトくらいなら入るかな。え? じゃあひとつ頂きます? うん、食べて食べて」
 2人で小さなテーブルを挟んで。チーズバーガーを頬張りながら、こんな雰囲気が何か幸せだった。芹香もきっと。
「あのさ…。姉さん、最近学校はどう?」
 途端に姉の表情が暗くなる。
 もともと小学校、中学校とひとりの友達もできなかった芹香だ。心配した両親は普通の共学校へ進学させたが、本人の性格は変わってないのだから状況も変わるわけがない。やはり学校では一人で…いつもぽつんと、一人きりで、そんな光景は綾香にも浮かんでしまう。
 それでもポテトをかじり終わった芹香は少し微笑んで。
『もうすぐ綾香が入学してきてくれるから安心です…』と、言った。
「あー、うん」
 アイスティーに刺さったストローをくわえる。そんな返事しかできない。いつか言わないといけないことだけど…。買い物が終わってからにしよう。せっかくの休みなんだし。
「ごちそうさま。んじゃ、用事済ませましょ」
 こくん、と芹香は頷くと、手早くトレーを片づける妹を見つめていた。

「いいの見つかった?」
 こくん。
「そ。良かったじゃない」
 こくん…。
 オカルトグッズの店なんてものは綾香には縁がないが、行ったら行ったでそれなりに怪しくて面白い。目をきらきらと輝かせる芹香の方が面白いが。
「さーて、これからどうしようかしらね」
 別に用は済んだのだからまっすぐ帰っても良いのだが、綾香には大事な用が残っている。芹香の方もすぐに帰ろうなんて気はさらさらなく、しずしずと妹の隣を歩いていた。彼女にとっては唯一の外を歩ける時間だ。早く帰りたいわけがない。
「姉さん、寒くない?」
「(こくん)」
「ならいいけど」
 歩くうちに商店街の真ん中の小さな広場に来る。ベンチが並べられ、若者たちのたまり場となっている所だ。近くには映画館、ゲームセンター、カラオケと揃っているのだが、さて芹香と一緒にとなるとどこへ行ったものか。
「かーのじょ」
 でもってお約束通り5、6人の、高校生とおぼしき男子たちがヘラヘラ笑いながら声をかけてきた。はぁぁぁ…と内心でため息。
「可愛いねー、姉妹?」
「ごめん、忙しいの。行きましょ姉さん」
「ちょっとちょっと、つれないっスよ、俺たちとどこか行かない?」
 男の1人が前に回り込む。
「あのさー。私たち見て声かけたくなるのは分かるけど、あんた達じゃお話にもならないわよ。もう少し進化してから出直して。んじゃ」
「んなっ…!」
 さっそく切れる。馬鹿らしくて目を向ける気にもなれない。芹香も芹香で思わぬ事態に脅えてる…なんてことは全然なく、ただいつものようにぼーっと突っ立っていた。
「運動にもならないけどね」
 飛びかかってくる相手を軽く足払いをかけてすっ転ばし、すぐさま後ろの敵に拳打を入れる。1人、2人、3人…。次々と地面に叩き伏せながら、しかし最後の男が芹香の方に手を伸ばしたとき、今度は綾香の目の色が変わった。
「うごっ!?」
 瞬時に間合いを詰めた綾香の掌底が敵を5mほど吹っ飛ばす。
「人の姉に薄汚い手で触るんじゃないわよ…」
「ば、化け物女っ!」
「吠えてろ負け犬」
 ナンパ男たちは一目散に逃げ出し、いつの間にか集まっていたギャラリーから拍手が起こる。綾香は苦虫を噛みつぶしたような顔で、芹香の手を取って足早にその場を離脱した。
「暖かくなると馬鹿が増えるって言うけど、寒くても変わんないわよねー」
 姉さん、大丈夫だった?…と尋ねようと振り返って、潤んだ瞳に硬直する。
「え? 綾香はやっぱり素敵です? ああそりゃどうも…」
 まずい。
 この危険な姉もまずいし、実は内心嬉しい自分も同罪だ。早いとこなんとかしないと…。
 家の近くに公園があったはずだ。姉の手を引きながら、妹は来た道を戻っていった。

「姉さん、なんか飲む?」
「‥‥‥‥」
「緑茶ね? んじゃ、座って待ってて」
 近くの自販機で暖かいお茶と、自分用にコーヒーを買う。憎らしいくらいいい天気だ。突き抜ける青空が余計に体温を奪っていくようで――気が重い。
「はい、熱いから気をつけてよ」
『ありがとう…』
 小さな声。
 姉はいつも素直だ。並んで座って、2人とも缶を開ける。片手でコーヒーを傾けながら、横目でちらりと芹香を見る。
 …にこっ。
 綾香にしか分からない表情。でもそのほんの少しの笑顔で、この人がどんなに幸せを感じているか綾香にだけは伝わる。綾香だけには。
 でも、言わなくちゃいけない。言え。自分はこんな事で躊躇はしない。
 コトン、と缶をベンチに置いて、綾香は口を開いた。
「あのね姉さん」
 不意に重くなった声に芹香はきょとんとするが、それも見ずに続ける。
「私ね」
 いつまでも一緒にいられるわけじゃないから…
「寺女に行くわ。――姉さんと同じ高校には、行かない」


 怖い。
 恐る恐る、横目に姉の姿を映す。きゅっと缶を握ったまま、信じられないような顔で地面を見続ける芹香。涙が落ちそうになるのを見て、慌てて綾香も視線をそらせた。
「だ、だって姉さんの高校遠いじゃない。え? セバスチャンに送ってもらえばいい? ジョーダンじゃないわよ今どき車で送り迎えなんてみっともない!」
 彼が聞いたら泣き出しそうなことを早口でまくし立て…息を整える。勿論こんな事が理由じゃない。言わなきゃいけない。姉のためだ。
「ちゃんと友達作らなきゃ駄目だよ…」
 姉は無言だった。反応を見ないまま続ける。
「いつまでも私の影に隠れててどーすんのよ。妹としか話できないまんまじゃどうしようもないでしょ? 高校生活なんて一度しかないのよ」
 気付かないままでいたくても…。聡い綾香には、どうしたって分かってしまう。
「私だって――いつまでも姉さんと一緒にいられるわけじゃないんだから」

 静かだった。
 分かってくれたのだろうか? 少し気合いをためると、えいっと横を向く。視線は空振りして宙を舞った。
 お茶の空き缶だけがベンチに腰かけていた。



「どこ行っちゃったのよあの人はっ!」
 家に戻っても芹香の姿はない。綾香の脳裏に――『妹に見放されてはもう生きていけません。先立つ不孝を…』とか言いながら崖の上に立つ姉という縁起でもない光景が浮かぶ。そこまで行かなくとも、嫌な予感は次々とわき起こる。だって一人でどこかへ行ってしまったのだ、あの姉が!
「申し訳ありませぬッ! このセバスチャンが余計なことを申したばっかりに…ッ!」
「別にあんたのせいじゃないわよ…」
 元々綾香としては進路の事なんて大して考えてなかった。ただ寺女の方が近いから朝寝てられるなー程度のことだった。でもセバスチャンが重々しく
『ご姉妹の仲がよろしいのは大変結構なのですが…。いささか心配でございます。芹香様は相も変わらず綾香様にしか懐かれぬご様子。このままでは学友の方々と話しもされぬままご卒業されるのではと思うと…。いや、年寄りの杞憂でございますれば良いのですが』
 と言ったのを聞いて、数日考えた後、結局別の学校を選んだのである。同じ所へ行けばどうしても自分は世話を焼いてしまうから。でも…早かったのだろうか。もう少し一緒にいてあげた方が良かったのだろうか。
「とにかく! 私はもう少し探してくるから、父さんと母さんにはうまく言っといて」
「は、ははっ! やつがれもすぐに参ります!」
 邪魔なコートを放り出して綾香は再度駆け出していく。探すと言っても、滅多に出歩かない芹香の行く場所に心当たりなどない。あるとすれば綾香が連れていった場所くらいだ。
 走りながら、記憶の中の映像が再現される。
 芹香はいつも楽しそうだった。綾香のことを本当に頼っていた、あの最初の日から…



*            *           *



 ――姉に対しては負い目があった。

 自由の国アメリカで、小さい綾香は文字通り自由を満喫していた。両親は仕事が忙しくてあまり構われなかったが、周りにはいろんな人がいたし、十分楽しい毎日だった。大抵のことは自分で出来るようにもなった。
 そんな綾香が9歳の時。
 日本へ来て初めて出会ったのは、ウサギのぬいぐるみを大事そうに抱いた、表情のない、心の見えない女の子。姉だと理解するまで少しかかった。
『あんまりでしょう父さん、いくらなんでもこんな閉じこめるような真似…』
『何を言うか、来栖川家の一人娘として余計な毒に染まらぬようにと…』
『だからってこれはやり過ぎ…』
 そんな大人たちの喧嘩を遠くに聞きながら、姉と2人取り残される。広い広い部屋で、他から隔離されたようにぽつんと立っている女の子…
「よ、よろしくね。お姉ちゃん」
「‥‥‥‥」
「妹のあやか。わかる?」
「‥‥‥‥」
「…もしもーし」
「‥‥‥‥」
 ひょっとして頭の方に何か問題があるんじゃなかろーかと…心配になった綾香は誰か呼んでこようと部屋を出ていきかける、その服の裾を誰かが掴む。
 俯いた芹香。
 片手でぬいぐるみを抱えたまま、俯いて、もう片方の手で綾香の服をきゅっと握っていた…。そんな姉の姿を見て、綾香は急に胸が痛くなった。何かしてあげたかった。
「…どこか遊びに行こうか?」
「‥‥‥‥」
 …こくん。
 それが最初の会話。
 抜け出して、適当に歩き回って突き当たったのがあの公園。他に誰もいなかったから2人で好きなだけ遊んだ。シーソーに乗ったり、滑り台を降りたり…。でも芹香は、綾香に教わるまでひとつも遊び方を知らなかったのだ。
「お姉ちゃん、公園で遊んだことないの?」
 こくん。
「…面白い?」
 こくこく…。
「そっか」
 微妙な表情の動き。目の優しさ。それが初めて見る芹香の『笑顔』で…。それに気付いた綾香は嬉しくて、心配したセバスチャンが探しに来るまでずっと遊んでいた。
『あやか』
 消えそうな声で妹の名を呼びながら、その服を引っ張る。
「ん、なに? お姉ちゃん」
「‥‥‥‥」
「とっても楽しかったです? よかった。仲良くしようね」
「‥‥‥‥」
「明日も遊んでくれますかって? あたりまえでしょ。姉妹なんだから、これからずっと一緒よ」
 明日も。明後日も、その次も。姉妹が姉妹であることは変わらないから。
 少しずつ気付く。独りぼっちだったんだ。自分が好き勝手に育っている間に、この人は親も、姉妹も、友達も、何もないまま独りで家に閉じこめられていた。
 綾香が幸せだった9年間、芹香は寂しさを抱えたまま過ごしてた。だから――
(だから、姉さんには負い目がある)
 口には出さなかったけど…綾香はずっとそう思っていた。芹香がちゃんと幸せになるまで、自分は幸せになんてなれない。9年間も一緒にいられなかったから、寂しい思いも、悲しい思いも二度とさせない。
 そう思っていたんだ。


*            *           *


「あれ、綾香さん…」
 駆け回って空手道場の前を通りがかったとき、うまいタイミングで同門生2人にばったり出会う。
「葵、好恵、丁度良かったわ!」
「トレーニング中ですか? さすがは綾香さんですね!」
「フン、結局中学では勝てなかったけど高校空手で勝負よ」
「それどころじゃないっ! 緊急事態よ緊急事態っ!」
 思わず顔を見合わせる葵と好恵。綾香が焦るなんて珍しい。
「ど、どうしたんですか!?」
「ね、姉さんがね…」
「事故にでも遭ったの!?」
「いや、単に行方不明なだけなんだけど…。あの人のことだからふらふらと道路にでも飛び出さないかと心配で心配で…」
 手短に事情を説明して、2人にも一緒に探してもらうことになった。こんな時綾香には頼れる相手がいる。でも芹香には、自分しかいないのに。何やってるんだろう、自分だけなのに…
「いた?」
「いないわ。葵の方は?」
「い、いえっ。影も形も…」
 体力には自信のある3人が文字通り街中を走り回ったが、本当に魔法で消えたかのように足取りひとつ掴めなかった。
 そしていつしか日も傾き、空は夕焼けに染まる。



「…悪かったわね、2人とも」
 公園に戻って、体力を使い果たしたままベンチに座る。
「うちの方で警察に連絡したって。あとはそっちに任せましょ」
「そ、そうですか…」
 3人ともさすがに息が上がっていたが、特に綾香はぜいぜいと肩で息をしていた。好恵や葵の知ってる綾香はいつも余裕があって、スキップで人生渡ってるような人だったから、こんな不安そうな綾香を見るのは初めてだった。
「よっぽど大事みたいね」
「ん?」
 無理に笑顔を作りながら顔を上げる。
「ま、ね。ちょっと今回、私にも責任あるし」
「そんな! 綾香さんはお姉さんの為を思って別の高校行くんでしょう?」
「――そうだけどね」

 …本当は行きたくない。

 憮然として遠くを見る。本当はずっと、芹香のそばで、自分だけが芹香を守りたかった。
 いっそ妹でなくてどこかの男の子にでも生まれていれば――

 がさっ

「?」
 近くで茂みが音を立てる。3人は思わず顔を見合わせたが…。しばらくして綾香が近づいた。少しだけ見えているスカートに今まで気付かなかったのを呪いながら。
「ね〜〜〜さぁ〜〜〜〜ん」
 がさがさっ
 頭に葉っぱをつけたまま、おずおずと芹香が立ち上がる。額を押さえる綾香が何か言う前にぺこぺこ…と申し訳なさそうに頭を下げ始める。
「一体どこ行ってたのよっ!! は? どうしていいか分からなくてあっちへふらふらこっちへふらふら? 気がついたら公園に出たけど綾香たちが来たので隠れてました? へえーそう…」
 がっくりと力が抜ける。芹香の肩につかまってかろうじて身を支え、長い髪が視界に落ちた。
「どうして心配ばっかかけるのよ…」
『…ごめんなさい』
 か細い声。今は自分にしか聞こえない。
「これじゃ私、姉さんのそばを離れられないわよ…」
『‥‥‥』
 細い腕。華奢な体、脆くて、内気で、寂しがりで。
 離したくない。一番大事な人なのに――
「姉さんが望むなら‥‥‥同じ高校に行く」

 はっとして好恵が声を上げかける。綾香も分かってた。本当は自分が、ただ姉のそばにいたい。独りでなくて、2人一緒にいたい…。
 でも少しの沈黙の後、芹香は妹の顔を上げさせて、
『…ひとりで大丈夫です』
 と、静かな声で言った。
 その目は少し赤かったけど、いつもの微笑だった。
「‥‥‥‥」
 夕焼けの中で、そのまま立ちつくす綾香。芹香は後ろの2人に深々と頭を下げ、葵も慌てて返礼し、好恵は軽く会釈した。公園の出口まで歩いていって、忘れ物でもしたのかたたた…と戻ってくる。
「な、なに? 姉さん」
 思わず振り返った綾香に、芹香は手を取ると、きゅっ…と小さな包みを握らせる。今日買った、幸福のお守りの水晶柱…。
「え…。え?」
『空手で優勝した、お祝いです…』
「え、その、それじゃ、もしかして今日の買い物って私の為に…!?」
 こくん…。
 小さな贈り物を抱きしめる。幸福のお守り、なのに、なのに自分は。
 言葉もないまま俯く綾香。そんな彼女の負い目を消すように、芹香の手が優しく置かれる。
 なでなで…
「ち、ちょっと姉さん…」
 なでなで…
「ほ、ほら、2人が見てるしっ!」
 真っ赤になりながら、そんな顔を見せないように下を向く。芹香はそっと手を離すと…
 今度こそ本当に、一人で家へと帰っていった。

「綾香さん…」
 動かない綾香に葵が声をかける。はっと顔を上げると、急いでいつもの綾香に戻った。
「――羨ましいです」
 少し切なそうな目で葵は言う。
「え、な、何が?」
「あ、私一人っ子なんです。姉妹とかいないから…。お2人とも本当に、お互いのこと大好きなんだなって」
「そうね…」
 包みを開く。夕闇の中、透明な紫に光る水晶。
「でも葵だって私たちの妹みたいなものよ。ねえ好恵?」
「え!? ま、まあね」
 そんな言葉に、えへへ…と葵は嬉しそうに笑った。
 長い一日が終わり、帰途につく。いつかは芹香にも好きな人ができて、その人のことが一番大事になって…。でも姉妹なのは変わらない。それでいいではないか。
 純真で、素直で、綺麗で、可愛くて、優しくて――。
 そんなあの人の、妹になれたんだから。



*            *           *



「…あれから1年半かぁ…」
「左様でございますなぁ…」
 暖かい日差しの中で、送り迎えのベンツに頬杖をつく。下校中の生徒がじろじろと見ていくが知ったことじゃなかった。
 あの後綾香は寺女に入り、あの時よりずっと強くなった。多分完璧にも近くなったと思う。そして芹香は――
「あー、来た来た」
 見た目は変わらない、ぼーっとして不器用な姉。
 でも隣に、今は別の相手がいる。
「よっ、綾香。どうしたんだ?」
「たまには様子見にねー。うまく行ってるみたいね、よしよし」
 ぽっ、と芹香の頬が赤く染まる。綾香の知らなかった顔。喜ばなくちゃいけない。
「おめーも暇人だな…」
「ま、それだけ浩之には期待してんのよ。姉さん純情なんだから浮気なんかしないでよ」
「するかっ」
 この2人ならきっと大丈夫。どちらにせよ、もう自分が心配する事じゃない。
「それじゃお2人さん」
 お幸せに、と言う前にすすす…と芹香が近づいた。
「ん、何? 姉さん」
 口に手を当てると妹の耳に寄せて
『次は綾香の番ですね』、と。
「なななっ、何言ってんのよっ」
『綾香が幸せでないと、私も幸せにはなれないです…』
「…まあ前向きに検討してみるわ」
 にこ…と僅かな笑顔。彼のところへ戻ると、並んで歩いていく。綾香は見送るだけ。ううん、見送るのも性に合わなくて、運転席へいたずらっぽい笑顔を向ける。
「寂しい?」
「いや、複雑な心境で御座いまするが…」
 渋い顔の執事も、ガラス越しに見える芹香に表情を緩める。
「芹香様が幸せならそれでよろしいですとも」
「…ま、どうせ家に帰れば顔合わせるんだしね」
 何もかも少しずつ変わっていく。変えようとする。いつも一緒にいられなくても――
「綾香っ!」
 怒声に振り向けば見知った顔。この学校の制服の2人がちょうど校門から現れる。
「よ、好恵さん! みんな見てますからっ!」
「放しなさい葵! ここで会ったが百年目、今日こそはエクストリームなんてものがいかに単なるお遊びかを理解させてやるわ!」
「元気ねー、あんた達」
 笑顔が戻る。軽く後ろに回り込んで、2人の肩を抱く。
「ま、せっかく来たんだからヤックでも寄ってきましょ」
「あ、それいいですねっ! ねえ好恵さんっ!?」
「ぶ、武道家がそんな堕落した物など…」
「武道家なら挑戦あるのみよ!」
 無理矢理引きずりながら、遠くに姉の姿を見る。どんな2人だったとしても、いつかはそれぞれの道と、それぞれの世界が出来て。でも好きなのは変わらない。
(姉さん――)
 誰にも聞こえないはずの呼び声に…芹香は振り向いた。遠く、遠くにいても、あの人の声は聞こえる。
『――ありがとう』
 …と。

 だから今はここから祈ろう。あの人に幸せと――

 優しい笑顔が、いつまでも守られますように。




<END>





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