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第35話 フェアウェル・ライブ


「橘さん、全国大会お疲れさま」
「Westaらしくておもろかったで!」
「おおきに。新部長として今後も頑張るからね」

 自転車置き場で生徒からかけられる声は、どれも優しい。
 お笑いライブでも受け入れてもらえたのは幸いだが、気を使ってくれている気配もある。

(甲子園で初戦敗退した学校って、こんな感じなんやろか)

 前方を晴が歩いていたので、駆け寄って小声で話しかけた。

「贅沢言うてるとは思うけど、地区予選後に比べたら寂しい感じやね」
「その理由は分かってるんやろな。順位が微妙やったって事だけとちゃうで」
「うん……」

 二ヶ月前は立火と桜夜に大勢の出待ちがいて、サインを求める列ができていた。
 今の小都子では、その人気にはまだ及ばない。
 片方だけでもかなわないのに、二人揃っていなくなってしまった……。

「けど、これは立火先輩も乗り越えてきたことや」

 と、小都子は敢然と顔を上げる。

「主力の三年生が五人引退しても、先輩はめげずに巻き返した。
 あの状況に比べたら、頼れる後輩が大勢いる私は恵まれてる方や!」
「そういう事やな。ほら、あの通りや」

 晴があごをしゃくった先では、つかさがファンから握手を求められていた。
 一緒にいる夕理もついでに話しかけられている。
 こちらに気づき、二人の後輩は嬉しそうに手を振った。

「部長、おはようございまーす」
「も、もう、つかさちゃん。その呼び方はちょっと」
「また心機一転張り切っていきましょう」
「そうやね夕理ちゃん。まずは目の前の目標に全力投球や。
 二日しかないんや。今日は昼休みも使って練習するで!」
『はい!』

 見上げた校舎には、『祝・全国大会出場』の垂れ幕が未だに掛かっている。
 この偉業を率いた先輩たちの卒業まであと四日。
 後輩にできる精一杯の表現で、門出を祝福しよう。


 *   *   *


 昼休みに部室へ集まったメンバーは、まずはお弁当タイム。
 晴が食べながら吉報を伝えた。

「大会終了後、うちのサイトにはかなりの反響があった。
 今までの動画を新たに見てくれる人も多いみたいや」

 おお! と皆は喜びに沸く。
 ニッチな路線だったが、そもそも観客の分母が多い全国大会。一部にウケただけでも相当な数のようだ。
 姫水は思い出す。昨年の全国ネットのドラマで、知名度が上がったときの恩恵を。

「見てくれる人が増えるということは、全ての活動でより多くの反響が期待できますね」
「とはいえ求められるものをお出しできなくては一過性で終わる。小都子、三月の活動予定はどうする?」
「ええ? き、急やなあ」

 むせかける新部長を見て、花歩がやんわりと提案する。

「今は卒業式ライブに集中しましょうよ。その後は学年末テストですし、それが終わってからでも……」
「そういう甘い考えやと、せっかく興味を持ったファンも離れるで」
「ううっ」
「そうや! 卒業式ライブを録画して配信しましょう!
 どこも卒業シーズンやから、みんな感動してくれると思います!」

 と、勇魚が珍しく頭を使ったが、夕理は否定的である。

「先輩二人のための私的なライブやし……あんまり宣材にはしたくない」
「そ、そう? そうかも。うち頭悪くてごめん」
「まあまあ。勇魚もちゃんと意見言って偉いと思うで」

 つかさがフォローし、姫水は安心して見守っている。
 そして晴が口を開く前に、小都子が先に戦略を述べた。

「夕理ちゃんの言うことには賛成やけど、せっかくの曲が一日限りなのももったいないかな。
 テスト明けに改めて撮影して、新生Westaの初PVとして公開するのはどうやろ」
「確かに、卒業式と別にするのなら異存はありません」
「練習も十分できそうですしね!」

 夕理と勇魚に賛同してもらい、小都子は安堵しつつ、ちらりと副部長を見る。
 晴も異論はないのか、黙ってうなずいてくれた。
 今までとは少し違う部の進め方に、つかさは面白そうな顔だ。

「これからは知的な部長って感じっすね」
「あはは。私には立火先輩みたいな皆を引っ張るパワーはないけど……。
 代わりに頭の方には、それなりにプライドもあるからね。
 晴ちゃんに頼りきりにはならへんで」
「これは私も知略を尽くさないと、参謀としての存在意義がなくなりそうやな」

 晴も冗談めかして言って、場に笑いが起こる。
 新体制はこんな感じで進んでいくのだろう。
 そこから去る予定の姫水も、最後のライブに全力を注ぐべく、しっかりお弁当をお腹に収めた。


『湿っぽいのは似合わないから 私たちは陽気にいこう
 今日この良き日を迎えて 祝う気持ちを目いっぱい歌おう』

 卒業曲『私たちらしい別れ方』。
 一回歌ったところで、花歩が個人パートの説明をした。

「みんなの気持ちを勝手に代弁して歌詞にしたんや。変えたい人は言うてや」
「………」
「うわ、夕理ちゃんが複雑な顔してる」
「花歩がこれを私の気持ちと思うなら……別にええけど」
「あたしもこの歌詞は恥ずかしいなあ。けどまあ、他に思いつかへんかな」

 そして勇魚と姫水にも好評で、新部長から信頼の言葉をもらった。

「花歩ちゃん、すっかり頼れる作詞家やねえ。新体制でも安心して任せられるで」
「え、えへへ。新入生にもそう言ってもらえるよう頑張ります!」

 明るく爽やかなその曲を、残る昼休みを使って練習する。
 急造の曲だけれど、別にラブライブの結果がかかっているわけでもない。
 戦い続けてきた一年間の最後に、気軽に楽しいライブができそうだった。

 が、昼の活動を終えたところで、つかさがどうでもいい不満を述べる。

「明るすぎて誰も泣かなそうやな。ちょっとつまんない」
「いやいや、何を期待してんねん。つかさちゃんが泣けばええやろ」
「あたしそういうキャラとちゃうしー」

 花歩と言い合ったつかさの目が、他の部員たちを一周し、再び花歩に戻ってくる。

「この中やと、やっぱり花歩が一番泣きそう。愛しの部長さんの卒業やで~?」
「泣かへんわ! 私も一年間でしっかりしたんやって、部長に見せるんやから!
 意外と夕理ちゃんとか泣きそう」
「何でやねん。別に三年生とそこまで仲良くは……まあ色々感謝はしてるけど、泣きはしないから。
 それを言うなら姫水さんこそ、木ノ川先輩と仲良かったやろ」
「うーん。進路が決まっていてくれないと、泣くに泣けないわね。
 勇魚ちゃんはどう? やっぱり寂しい?」
「えへへ。めっちゃ寂しいけど、そんなときこそ余計に笑顔や!」

 一年生が盛り上がりながら廊下に出る。
 小都子が部室に鍵をかけていると、花歩が今さら気づいて申し訳なさそうに言ってきた。

「す、すみません、立火先輩のこと部長って。部長は小都子先輩やのに」
「うわ、あたしもや。すいません部長さん」
「あはは、私はあんまり役職で呼んでほしくないなあ。今まで通り小都子でお願いね」
「そういうことでしたら。ていうかつかさちゃんは、何で部長さんって呼んでたん?」
「ん? 入部前にそう呼んでたから惰性で。花歩は?」
「私は……」

 歩いて教室に戻りながら、花歩は11ヶ月前のことを部員たちに話した。
 この廊下で、立火が部長らしく見えるか気にしていたこと。
 どこからどう見ても部長であると、呼び方で伝えたくて、それをずっと続けてきたこと。
 晴以外の一同は、特に勇魚は思わず目を潤ませる。

「花ちゃんはほんまに、立火先輩のことが大好きなんやね!」
「い、いやあ。やっぱり私の憧れで……これからは目標にする人やから」
(花歩ちゃん……)

 小都子も心の中で、花歩がしっかりと見送れることを祈る。
 誰よりも立火を慕っていた一年生。
 鍵を持って歩きながら、新部長は優しく提案した。

「ならせめて卒業式の日までは、立火先輩のこと、部長って呼んであげてや」
「は、はいっ!」


 *   *   *


「岸部さん、これから部活?」
「次は全国優勝やね!」
「さすがにハードル高すぎやで。ま、過度の期待はせず見守ってや」

 放課後。黒子とはいえステージに上がった晴は、地区予選のときよりも声をかけられていた。
 軽く返して部室に向かいつつ、少し危惧もある。

(みんな、次も全国へ行けて当然と思ってそうやな)

 もちろん晴も行く気ではあるが、予選突破にあれだけ苦労したのも忘れてはいない。
 もし予選落ちとなったら、なまじ期待値が上がっただけに、小都子がどんな目で見られるか……。
 ちょうど鍵を取ってきた本人が、階段から降りてくる。
 思っていることを話すと、甘く見るなという表情をされた。

「ふーん。そういえば校舎の垂れ幕、卒業式までは掛けておきたいって忍に言われたで」
「となると、保護者の目にも触れることになるな。何て答えたんや」
「もちろん歓迎するし、その後も大事に取っておいてねって。また使うことになるんやから」
「強気やな。年末は自信なさそうやったのに」
「……やっぱり、実際に行ってみると何かが変わった気がするね」

 確かに、漠然とすごい場所と思っていたアキバドームも、一度経験すれば様子は掴めた。
 頼もしい部長の姿に、晴の中でも何かが決まった。


「桜夜先輩のこれ、どう判断すればいいんでしょう……」

 部室に来た姫水は今日も心配そうだ。
 後輩の胃を痛めてばかりの罪な先輩は、今日は名古屋で中期試験。
 少し前に終了報告が届いていた。

『できたような…… できなかったような……』

 煮え切らない文面に、晴が冷たく斬って捨てる。

「全くダメだった前期よりはマシやけど、この分やと無理やろうな。
 まあ冷静に考えれば、前日に全国大会行ってもんじゃ食べておいて受かるわけもなかった」
「今さらそれを言いますか!? 先輩の進路はどうなるんですか!」
「滑り止めもあるし、後期試験もあるやろ。もう部活は終わったんやから、ここからが本番や」
「何とかして本命に受かってほしいですね……」

 眉根を寄せる姫水に、勇魚が大丈夫大丈夫! と慰める。
 その間に全員が集まりミーティング開始。
 最初に晴が手を上げた。

「卒業式のライブ、私もメンバーとして参加したいんやけど。部長の許可をいただきたい」

 ……あまりに淡々と言うものだから、皆は少しの間固まっていた。
 我に返った勇魚が、子犬のように尻尾を振って駆け寄る。

「晴先輩! ついにステージの楽しさに目覚めたんですね!」
「そんなわけないやろ。ただ、私も今は副部長や。
 新入生を指導する上でも、一度はステージを経験するのもええかと思ってな」
「そ、そうですか、一度だけですか……でもうちは嬉しいです!」
「新入生の世話を焼く気はあったんですね。少し意外です」

 夕理が失礼なことを言うが、晴は気にせず軽く流す。

「小都子が風邪で休むこともあり得るからな。で、部長の意見は?」
「あ、もちろんOKや! 何なら今後も出続けてもええのに」
「今回は内輪のライブだからこそ、私の見た目と実力でも出られるんや。
 花歩、悪いが私のパートもどこかにねじ込んでくれ」
「はいっ、歌詞は私が考えていいですか?」
「……文案だけ私が出そう」

 七人でジャージに着替え、練習の準備に入る。
 今までもヘルプで入ることはあった晴だが、それはあくまで置物。本気のライブは初めてだ。
 つかさと花歩が横から茶化した。

「実は秘めた実力とか持ってるんじゃないですか?」
「あ、確かに漫画ならありそうな展開!」
「漫画と一緒にするな。前にも言うた通り、成長したお前らの足元にも及ばへん」

 とはいえ門前の小僧は習わぬ経を読む。
 ずっと皆の練習を見続けてきたマネージャーは、全国レベルとは言わないまでも、それなりに歌って踊れた。
 勇魚が嬉しそうに助言するのを、素直に聞き入れる晴の姿に、姫水だけが複雑である。

(結局この先輩のことは、最後まで好きになれないままだったけど)
(それでもあと一年、勇魚ちゃんのことをお願いするしかないのよね……)

 練習中の考えごとのせいで、右手に衝撃が走った。
 ぶつけた晴が冷静に左手を引っ込める。

「おっと、すまん」
「い、いえ、こちらこそ」

 何にせよ一緒にライブをする以上は、ある程度は心を合わせないといけない。
 もやもやは棚に上げて、七人の作品を作り上げていく。


 晴が入ったことで、振付の考案もスムーズ化。六時にはいったんの完成を見た。
 新生Westaのまずは順調な立ち上がりに、二年生たちも安堵の表情を見せる。

「いつぞやみたいな居残り練習はしなくて大丈夫そうやな」
「あはは、今回は二日あるからね。ほなみんな、また明日に」
『お疲れ様でーす』

 帰途につきつつ、そのいつぞやに一夜ライブを強いた夕理は少し気まずい。
 とはいえあの出来事があって今があるのだ。
 花歩に近寄って小声で話しかけた。

「あのときに見せてもらったライブのお返し、しっかりできそうやな」
「うんうん。あの頃は今の状況なんて、想像もできひんかったけどね。
 ところで夕理ちゃん、つかさちゃんへのアタックは? 全国大会は終わったんやで?」
「い、今は卒業式に集中せな……。その後はテストがあるし……」
「またそうやって先延ばしする」
「はああ!? 何や、私が逃げてるみたいに!」

 そう怒るということは、自分でも気にしていたのだろう。
 必死で考えながら靴に履き替えた夕理は、昇降口を出たところで小さなアタックを仕掛けた。

「あ、あのね、つかさ。今日、お米も買うて帰りたいんや。
 ほんま悪いんやけど、荷物運ぶの手伝ってもらえると……」
「ん? 別にええよ。夕理は自炊してて偉いなあ」
「そ、そんなことは……ありがと……」

 買い物デートにこぎつけた弁天組を、長居組は温かい目で見守りつつ帰っていく。


 *   *   *


 次の日の放課後、立火は桜夜と校門で待ち合わせた。
 今日の午前に報告されたことを口にする。

「よっ、合格おめでとうさん」
「滑り止めで喜んでええんやろか……正直、誰でも受かるようなとこやし」
「ひとまず安心はできたやろ。他が全滅したとき、行くかはお前が決めることやけど」
「ああーもう! 悩みたくないから、本命に受かりますように!」

 そのために今日も勉強である。
 卒業前の最後の部活。せめて同じ部屋で過ごして、後輩たちのパワーを分けてもらうのだ。

 部室の前で二人で待っていると、小都子とつかさがやって来た。

「とりあえず浪人は無くなったと思っていいんでしょうか?」
「どうしようかなあ。滑り止めで妥協したくないけど、かといってもう一年受験なんて絶対イヤやし……」
「姫水がめっちゃ心配してましたよ」
「ううっ、私は最後までダメな先輩や」
「まあまあ、今日の練習を見て元気を出してください。立火先輩も驚くと思いますよ」

 得意そうな小都子の言葉に、へえ? と興味を引かれる三年生たちである。
 間もなく他の部員たちも集合し、さっそく練習を始めると……

「めっちゃ驚いた!」

 離れて見ていた立火も桜夜も、期待通りの反応とともに駆け寄ってきた。
 突如加わった七人目のメンバー。
 満面の笑顔とはいかないまでも、本人らしい微笑でライブを披露した二年生のもとへ。

「晴~! なんや、こんな隠し玉用意してたんか!」
「決めたのは昨日ですけどね。小サプライズになって良かったですよ」
「あはは。私たちのためにポリシー曲げてくれるなんて、晴も可愛いとこあるやん」
「そうです! 晴先輩もお二人の卒業を、自分のライブでお祝いしたかったんです!」

 桜夜の感想に勇魚が勝手に答え、晴の三白眼でじろりとにらまれた。

「勝手な捏造をするな。あくまで今後の部活動を考えてのことや」
「えへへー」
「それでは、これから最後の仕上げをしますので。先輩たちはあまり見ないようにして、また卒業式の日に感動してくださいね」

 小都子に言われて、三年生たちは『はーい』と返事して後ろへ行く。
 問題集を机に広げる二人を、横目で見た花歩はつい思ってしまう。

(部長、せっかく来てるんやから、最後に指導してくれへんかなあ……)
(……いやっ、部長の活動は先週で終わったんや! もう頼ったらあかん!)

 一生懸命練習する声は立火にも届き、微笑みつつ顔を上げる。
 と、姫水がちらちらとこちらを気にしていて、立火の表情は苦笑に変わった。

「桜夜の勉強なら大丈夫やって。実質大学生の私が見てやってんねんから」
「そ、そうでしたね。すみません、練習に集中します」
「くそ~、何やねん、合格アピールしちゃって。
 あーあ、もうこんな勉強必要なくない? 昨日の試験が受かってればOKなんやから」
「そういう考えが一番危険なんです。最悪を想定して動いてください!」
「へいへーい」

 夕理に怒られ、渋々勉強に戻る桜夜である。


『寂しがるのは似合わないから 別れだって笑っていよう』

 BGMとして聞こえるのは後輩たちの歌声。
 自分たちを見送るためにしてくれているのだからと、桜夜も一層勉強に励む。
 三年間を過ごしたこの部室は、頑張る力を与えてくれるはずだった。
 だが……
 それは同時に、酷な状況でもあった。



「桜夜?」

 小一時間ほどが過ぎたころ、何かに気づいた立火が、後輩たちに悟られぬよう席を移動する。
 桜夜の隣から正面へ。相方の姿を隠すように。
 鉛筆を止めうつむいている彼女に、小声で話しかけた。

「どうしたんや」
「――なんで私は、あそこに混ざれへんの?」

 目と鼻の先で、Westaは新曲の練習をしている。
 それだけの距離がどれほど遠くて、現役部員たちがどれほど輝いて見えることか。
 動けなくなってしまった桜夜に、立火は諭すように事実を言った。

「私たちは、もう引退したからや」
「先週まで一緒やったやないか……。ほんの先週まで、私はあの中で練習してたやないか」
「その時間は、もう終わったんや」

 小さく震える桜夜の手に、立火の手が重ねられる。
 桜夜が今までに聞いた中で、その声は一番優しかった。

「掛け替えのない大事な場所やからこそ、発つときは跡を濁したらあかん。
 桜夜も私も、十分にやり切ったんや」

 おずおずと、ようやく桜夜は顔を上げる。
 視界の隅に、活動中の後輩たちを何とか映して。
 手の甲で目をぬぐい、恥ずかしそうについ憎まれ口を叩いた。

「……立火はいつも、そうやってカッコつけるんやな」
「ほんまにな」

 自虐交じりで、痛む胸に耐えながら、それでも立火は微笑んだ。

「まあ、やせ我慢なんやけどな」


 *   *   *


「これで完成や! 練習はここまで!
 いったん頭を切り替えて、テスト勉強に集中しようね」
『はい!』

 明日からテスト前の部活禁止期間。ライブは三日後までお預けだ。
 問題集を閉じた桜夜は、みんなも頑張れーなどと、何事もなかった顔で言っている。
 と、マネージャーに戻った晴が三年生たちに確認した。

「制服の第二ボタンを誰かに渡す予定があるのか、問い合わせが来ています。
 当日の混乱を避けるためにも、決めておいた方がよいと思いますが」
「え、こんなん欲しい人いるの……」
「もー、当たり前やろ、私たち全国レベルなんやから!
 可愛い私のために争いになるのもあかんな。今決めちゃおう」

 引き気味の立火と乗り気の桜夜の前で、花歩の目が獲物を狙うそれになった。
 仕方なく、まずは立火の手がそろそろと上がる。

「あー、それやったら欲しい人……」
「はいはいはいはいはいはい!!」
「花歩、必死すぎ!」

 つかさに突っ込まれようと、欲しいものは欲しい花歩である。
 立火も苦笑しつつ内心では嬉しかった。

「それやったら、このボタンは花歩の予約済みや」
「ありがとうございますぅぅぅぅ!」
「次は私やな。可愛い桜夜ちゃんのボタンになら、百万円出してもいいって人!」

 しーーん

「何でやねん!」
「もう、仕方のない先輩ですね。私がもらってあげます、タダで」
「ちょっと姫水~! 可哀想な目で見るのやめて!」
「冗談は置いておいて……私にいただけないでしょうか?
 私の女優業も割と茨の道ですけれど、先輩のボタンを励みに頑張りますから」
「姫水……」

 また泣きそうになりながら、桜夜の手がボタンを握りしめた。

「しゃあないなー、特別にタダにしといたる!」
「ふふ。太っ腹な先輩を持って嬉しいです」
「あ、もし美少女のエキストラが必要になったら、いつでも声かけてくれてええで」
「そうですね……そんな機会も、あればいいなと思います」


 そんな感じで、卒業式前の最後の部活も終了。
 鍵を返しに行く小都子を、頼もしそうに見送った立火が……
 歩きながら晴に尋ねたのは、もう部活とは関係のないことだった。

「大阪を離れる前に、まだ行ってない名所に行っておきたいんやけど。晴のお勧めはある?」
「暇そうですね」
「誰かさんの進路が決まらへんと、名古屋で住むとこも探されへんからなあ」

 悪うござんした! という桜夜の声を聞き流し、晴は少し考える。

「あびこ観音は結局行ったんですか?」
「昨日行ったで」
「ええ!? うちの近くに来たなら、家に寄ってってくださいよー!」
「汐里もお手玉上手な先輩に会いたがってますよ!」
「まあまあ、花歩も勇魚も学校行ってたやろ。またそのうちに」

 なだめている傍らで、晴はひとつの場所を提示した。

「適塾は行きましたか? 北浜の」
「テキジュク? って塾なん?」
「福沢諭吉の師匠である、緒方洪庵こうあんが開いた蘭学塾です。諭吉や大村益次郎、大鳥圭介を輩出しました」
「ああ、聞いたことあるかも! 行ったことはないけど」
「有名やないですか。大阪大阪言うてる割に、何で行ってないんですか」と夕理。
「め、面目ない。夕理は行ったん?」
「小学生のときに行きました。大阪市の偉人は、洪庵と大塩平八郎くらいですからね」

 確かに近代以降はともかく、昔の有名人は意外と少ない大阪市である。
 ならば行かねばなるまいと、決定した立火は晴にお礼を言う。
 そんな様子を見ながら、姫水はいたずらっぽい笑いをつかさに向けた。

「私も東京へ戻る前に、つかさのお勧めの場所へ行っておかないとね」
「ええ~? 今さらお勧めと言われても……まあ考えとくわ」


 *   *   *


 翌日は雨だったので、立火が出かけたのは木曜日だった。
 ビジネス街の淀屋橋から歩いて数分。現代の街並みの中に、いきなり江戸時代の建物が登場する。

(へえ~。空襲でも残ったんやなあ)

 入場料を払って中に入ると、そこそこ広い町家が広がる。
 平日の午前とあって、他に客はいない。



 一階は緒方洪庵の住居で、中庭などを見ながら一巡り。
 急な階段を上り、二階が塾生たちの暮らした場所だ。
 蘭書の展示などを見てから、大広間でひとり正座する。

(若き日の福沢諭吉たちが、ここで大いに学んだわけや……)

 解説によると朝から晩までひたすら勉強しつつ、夜は一人一畳のスペースで雑魚寝。
 一方で外では結構やんちゃをしていて、難波橋や道頓堀で暴れていたらしい。
 そんな自由な塾生たちを、洪庵とその妻は実の親のように見守り育んだという。

(私も三年間、好きなようにやらせてもらったなあ)
(さすがにここまでバンカラではなかったけど、自由でノリの良い住女で……)
(思う存分、ひとつのことに熱中できた)

 しかしその青春は終わり。ここを巣立った塾生たちが、明治の新時代を支える人材となったように。
 自分も大阪を支える人材となれるよう、新たな道を歩んでいくのだ。
 偉人たちの暮らした町家で、立火はしばらく座したまま時を過ごした。

 ――今日で二月は終了。
 そして三月の始まる明日が、卒業式の日だ。



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