大三GENの部屋(2000年10月)



 知名度の割には交通が不便で「都心の陸の孤島」とさえいわれた「麻布十番」(東京・港区)に“黒船”がやってきた。営団地下鉄南北線「麻布十番駅」誕生(9月26日)を、地元は「麻布十番の開港」と呼んでいるのだ。12月には“新たな黒船”つまり都営大江戸線も迎かえ入れる。独特の雰囲気を保ってきた「山の手の下町」は、一挙に進みそうな「開港」をどう受け止めていくのか。

 麻布十番の裏通り。夜は人影も少ない一角に、パブ「GEN」がある。
 店主夫妻が相次ぎ他界。常連は店が絶えることを惜しみ、その一人、川畑浩さん(37)が板前から転職、1998年から店主を務める。
 アクセスの悪さゆえ「大人の隠れ家」でもあった。客の中には、深夜にタクシーで来る芸能関係など、いわゆる“ギョーカイ”関係者も。ミュージシャンの客同士が即興演奏を始めたこともあった。
 そんな店から徒歩二、三分の所に、麻布十番駅の出入り口ができた。川畑さんは「この店の雰囲気は変えたくない」と複雑な思いだ。
 すでに周辺には、若者向けのおしゃれな飲食店の出店が相次いでいる。新駅誕生を見込み住宅販売も急増。不動産経済研究所の福田秋生課長によると、一時はゼロだった新築マンション販売も98年は84戸、99年には63戸達した。ワンルームマンション建設も進んでいる。

 麻布十番は、懐の深い街だ。「山の手」と「下町」、江戸情緒と異国情緒、庶民性と高級感 ---- 両極端な色の数々を受け入れた上で、落ち着いた色模様を織り成しているように見える。
 この一帯は江戸時代、大名屋敷周辺の商人、職人の街として発展。「十番」の地名も当時、近くの古川の改修工事をした際、一帯の工区が「十番目」だったことから、と伝えられる。
 明治から大正時代には、神楽坂と並ぶ二大繁華街とうたわれるまでに発展。今も商店街には創業百年以上のしにせが約三十軒も名を連ねる。周辺に外国大使館が集中し、外国人の多い街としても知られる。

 「欧州の小さな街に似ている」。赤坂在住ながら、よく麻布十番で買い物をするという米国人女性、イボンヌ・エベレットさん(48)はそんな印象を持つ。
 こんな街にとって「地下鉄」は悩ましい存在だった。実は、かつて、この街が地下鉄計画に反対していた時期があった。ところが、お隣の六本木が、1964年の地下鉄駅開業も手伝って、一大繁華街に躍進したことから、「六本木なんて、大した街じゃなかったのに」とため息。そこで、地下鉄計画促進に転じ、長年の運動のすえに迎えたのが、このたびの新駅だ。

 南北線麻布十番駅は、一日平均一万五千人が利用。12月開通の大江戸線は同二万人の乗降客を見込む。
 駅前の麻布十番商店街。練馬区から来たという六十代の夫妻は「南北線ができて便利になったので、来てみた」と、しにせのそば屋「永坂更科」の行列に並んだ。著名な豆菓子店「豆源」の買い物袋を提げた人が目立つ。
 大ヒット曲「およげ!たいやきくん」のモデルになった元祖たい焼き屋「浪花家」の神戸守一会長(77)は「ありがたいこと」と満面笑顔だ。
 麻布十番商店街振興組合の須永達雄理事長も「開港」を喜びつつ「六本木の悪いところはまねしたくない」とマイナス面もみすえる。「落ち着いて清潔な街の雰囲気は守らねば、と皆で努力している。チラシも一枚張られたら、どんどん増えるので一枚も許さない」。
 しにせ飲食店の中にも「うちには、くつろぎに来られる著名人のお客さまも多い。騒々しくなるくらいなら、客入りは増えなくてもいい」の声がある。「大江戸線開通で、逆に住民が新宿などに出かけてしまうのでは」との不安もある。


麻布十番の夜を見守ってきたパブ「GEN」とマスター川畑浩さん


童謡「赤い靴」のモデルの少女はこの辺りに住んでいた。「赤い靴の少女像」が立つ「パティオ十番広場」

麻布十番駅出入り口前に5月に出店したレストランは連日満員



政財界の大物もフラリと買いに来る
元祖たい焼き店「浪花家総本店」


昨秋開店の居酒屋「ラッキー」は、昭和30年代の雰囲気にこだわったユニークさ
 東京の新しい街に詳しいコラムニスト泉麻人さんは、「開港」をプラスにとらえる。「大衆的な魅力のある街なので、人出が増えたって魅力が損なわれることはない。むしろ、ほかの街にはない情緒があるので、地下鉄駅ができたことで、観光地として人気を集めることができる街」。
 二十世紀末、「陸の孤島」の看板を謹んで下ろした麻布十番。次にはどんな看板を掲げるのだろうか。
 文・増田恵美子/写真・石原佳子、川北真三、栗間勇/紙面構成・佐藤重範

 このページは、許可を得て、2000年10月9日(月)東京新聞11版[24]の記事を再構成させていただいたものです。


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