略史
現ロンデニアの過半数以上を占めるシリーシア人は、もともと前聖歴600年頃からエストルーク西部からユノス北部に居住していた民族です。彼らはやがてエルフォード王朝によるオールビー王国を建て、前聖歴450年頃には現ロンデニア地方へと版図を広げることとなります。その後、前聖歴285年にラートリー家によるベルメック王国が誕生しますが、聖歴9年になると王家が断絶して継承問題が発生します。この時、ラートリー家出身の母を持つソファイア王が継承権を主張したため、両国の間に55年戦役と呼ばれる戦いが始まります。この戦いは最後まで決着がつかず、聖歴65年に和平会談によって終結します。そして、国内のミュンフ家から国王を出すことで決着し、国名もロンデニア王国と改められることとなります。
しかし、この戦いの間にかつて奪ったユノス南部やエストルークの領地の半分ほどを失い、大カルドレン島もクルヴィス人によるシェヴァリック王国に奪われる結果となりました。また、聖歴82年にはユノス地方の諸国が独立を果たし、ロンデニアは大規模な穀倉地帯を失います。その後、ロンデニアは海洋で勢力を増してゆきますが、聖歴300年代に入ると衰退の兆しが見え始め、聖歴353年にはソファイアとフェルディガン王国(現ユノス)の連合軍に敗れ、エストルーク領や交易ルートを失うこととなりました。
聖歴380年代になると、王の病床と兄王子アルティスの留守の隙をついたジャクリーヌ王女による王位の簒奪が行われます。ジャクリーヌはシェヴァリック王国出身の母を持つため、シェヴァリックは彼女に味方してアルティスの帰還を阻みます。しかし、アルティスはカルネアとアルメアの協力を得てジャクリーヌ軍を倒し、聖歴392年までにシェヴァリック王国を制圧して、現ロンデニア王国の全領土を統一しました。それからアルティスは王位を継承しますが、先の革命の反動から制度の締め付けや粛正などが多く行われたため、諸侯の反発を招きます。これによってアルティスは退位することになり、聖歴402年に新たにマルグリット王朝が成立します。
その後、ロンデニアは王権が強化され、官僚や常備軍の整備によって絶対王政の基盤が出来上がります。しかし、中央政府の腐敗が激しくなると議会の反発を招き、聖歴520年代に革命が起こります。そして王が処刑され、聖歴525年にローレンス将軍による共和政権が誕生しますが、やがてローレンスが独裁政治を行うようになると、富裕農民と結んだ急進派に政権を奪われることになります。新政権は地方諸侯の反発を抑えるために、かつてカルネアに逃亡したアルティス王の血を引くウィンズリー家からジョセフ王を迎えて、王制を維持しようとしました。こうして聖歴549年には、現在まで続くウィンズリー朝ロンデニアが成立することになります。なお、この時点で既に王権の殆どは政治とは切り離されており、国王は実質的な権限を殆ど与えられない象徴的存在とされました。
その後のロンデニアでは議院内閣制による政治が発達し、聖歴580年代までには現在の制度が整います。それからは国外市場の開拓を目指して対外行動へと力を注ぎ、再び無敵の海洋国家として海上での地位を取り戻すことになります。そして、聖歴669年に北方ファイン=ファウンドを手に入れ、聖歴700年代にはラガン帝国が支配するペルソニア東部にも植民地を広げてゆきました。
しかし、強国ロンデニアも未だカナン大陸への進出は成し遂げておりません。そのため、700年代後半から国内の混乱が続くユノスを狙い、古くから本国に反発していたエストルーク地方の民衆を支援して、独立を勝ち取らせることに成功します。そして、エストルークを通じた大陸での交易ルートを確保しようとして、内政に積極的に干渉しているのですが、これに対してエストルーク国内では不満の声が上がっており、両国の間には溝ができつつあります。また、聖歴786年には西海の横断に成功し、新大陸エスティリオを発見したことによって、国民はもとより政府の中でもエストルークから新大陸へと興味が移ろうとしています。さらには、今年に入ってから新大陸での領土問題が持ち上がり、同じく入植を開始したエリスファリアとの間で、小規模ですが海戦が行われるようになっています。この他にも、外海への進出を目指すライヒスデールやフレイディオン、それからカイテインの南方政策とも衝突するだろうことは明らかであり、大陸国家への干渉よりも新しい大型船の建造に国力を注がなければならない状況となっています。
◆ロンデニア年表
前聖歴 出来事 600年〜 ユノス北部およびエストルーク西部で、シリーシア人によるエルフォード朝オールビー王国が建国される。 450年〜 オールビー王国が現ロンデニアの地へと版図を広げ、フィアン王国(現ソファイア)を彼の地から追い出す。 285年 オールビー王国内部で分裂が起こり、ラートリー朝ベルメック王国が成立する。 聖歴 出来事 6年〜 イーフォン皇国の滅亡により、現エストルークの全域を支配下に置くことに成功する。 8年 ソファイアの支配下にあったセルセティアの独立運動を支援して、これを成功させる。 9年 ラートリー朝の断絶に際して、ラートリー家出身の母を持つソファイア王が継承権を主張する。これにより、両国の間で55年戦役と呼ばれる継承戦争が起こる。 65年 55年戦役が終結し、ベルメック国内のミュンフ家から国王を出すことで決着。この時に国名がロンデニア王国と改められる。 82年 ユノス領が本国ロンデニアに独立戦争を仕掛け、自治権を勝ち取る。 353年〜 フェルディガン王国(現ユノス)とソファイアの連合軍と制海権をかけて争うが敗北。エストルーク西部地方がフェルディガンへと譲渡される。 380〜392年 ジャクリーヌ王女により王位の簒奪が行われる。シェヴァリック王国を味方にけた王女と、アルメアおよびカルネアと同盟を結んだ兄王子アルティスが戦う。これにはアルティスが勝利して王位に就き、シェヴァリックを征服して現ロンデニアの全領土を支配下に置く。 402年 アルティス王の専制政治に対して議会が反発して内戦が勃発。これにはカドル=マルグリット派が勝利して、マルグリット朝が成立する。 514〜519年 国王ジオールが武力によって議会を解散させ、専制政治を行う。 520年 国王軍とローレンス将軍を首領とする革命軍との間に内戦が起こる。 525年〜 革命軍が勝利を収め、ローレンスによる共和政権が誕生する。しかし、後に独裁者となったローレンスは、無血のうちに政府首班の地位を追われる。 549年 かつてカルネアに逃亡したアルティスの血を引くウィンズリー家からジョセフ王を迎えて、ウィンズリー王朝ロンデニアが成立する。この時、王は象徴的存在として規定される。 603年 ルワール大公国およびメルリィナと結んでソファイア・セルセティアの連合軍と戦い、アリアナ海の制海権を握る。 633年 ユノスに住むシリーシア人が、聖ユノス王国に対して独立運動を起こす。これにロンデニアが加担したため内戦に発展するが、ソファイアがユノスに味方したことで敗北する。 669年 カルネアの革命軍に助力し、その代償としてファイン=ファウンド領を手に入れる。 786年 西海の横断に成功し、新大陸エスティリオを発見する。 787年 ポラス海峡の通航問題により、ブルム内海でロンデニアとの海戦が勃発する。 ロンデニアの助力を得たエストルーク同盟が本国ユノスから独立を果たす。
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詳細史
○ロンデニアの成立(〜聖歴65年)
現在のロンデニアで大多数の人口を占めているシリーシア人は、元来は前聖歴600年頃から現ユノス北部および現エストルーク西部に居住していた民族です。やがて、エルフォード王朝の治世によるオールビー王国がこれらの地域を支配し、前聖歴450年頃になると現ロンデニアのランドレイク島(東島)へと版図を広げることとなります。その後、シリーシア人はもともとこの地域に住んでいた部族を併合し、大カルドレン島(北島)やアナリシア島(南島)へと居住域を広げてゆきます。その後、アナリシア島を支配していたフィアン王国(現ソファイア)を追い出すと、クルヴィス人が支配していた大カルドレン島の北西部を除く全地域を支配下に置き、現ロンデニアの殆どとユノス北部を支配することになります。
それから間もなく内部で分裂が起こり、ユノス北部にいたエルフォード家をランドレイク島のラートリー家が倒して、前聖歴285年にラートリー朝ベルメック王国が成立します。ラートリー王朝の治世は約300年ほど続きますが、その間に周辺諸侯の幾つかを従えて領土を拡大し、ユノス南部まで支配域を広げています。聖歴に入ってまもなく起こったイーフォン皇国の滅亡に際しては、現エストルークのほぼ全域を手に入れています。
その後、セルセティアをペルソニア大陸進出への中継基地にしようと考えたベルメックは、ソファイアに支配されていたこの国の独立に力を貸し、見事これを成功させます。このためソファイアとベルメックの仲は悪化したのですが、ここでこの捻れた関係を最悪にする1つの出来事が起こります。
セルセティア独立の翌年となる聖歴9年、王が跡継ぎをもうけないまま亡くなったことから、ラートリー王朝はついに断絶することとなりました。この際、ソファイア王のタイレル3世は、その母がラートリー家の出身であることから継承権を主張し、両国の間に55年戦役と呼ばれる戦いが始まります。
両国は互いに退くことなく勇猛に戦い続けたのですが、やがて双方とも国政に破綻をきたし、幾つかの諸侯の独立をも許す結果となりました。ベルメックはかつて奪ったユノス南部やエストルークの領地の半分ほどを失い、大カルドレン島もクルヴィス人によるシェヴァリック王国の支配下に置かれることになります。このような事情から聖歴65年に戦いは終結し、国内のミュンフ家から国王を出すことで決着し、国名がロンデニア王国と改められました。
○ミュンフ王朝の治世(聖歴66年〜353年)
長い戦いに疲弊したロンデニア国民は、待ち望んでいた平和の訪れを喜びました。しかしそれもわずかのことで、それから18年後の聖歴82年には、弱体化したロンデニアから現ユノス北部地方の諸国が独立を果たします。これによってロンデニアは大規模な穀倉地帯を失うこととなり、やがて海の道へ発展の希望を託すようになったのです。
その後、海軍力を増強したロンデニアは、当時海洋では絶大な力を誇っていたラガン帝国やソファイアと争うことになります。特にアリアナ海の覇権を奪うことは、海洋貿易で利益を上げるためには最重要課題とされました。そのためには敵対諸国を陸地へ封じ込めると同時に、中継貿易基地となる港を定める必要があります。まず貿易港として目につけたのがカーカバートです。この地域にはラガン帝国の支配から逃れて来た黄人が住んでおり、反ラガンという点で両者の掲げるものは一致しておりました。こうしてロンデニアはカーカバートを味方につけると、ソファイアと戦いながら徐々にアリアナ海貿易へと参入を果たします。また、ソファイアと血縁のあるメルリィナに敵対していた東メルレイン連邦(現ルワール大公国)や、アルア=ルピッツ連盟(現ルクレイド)とも手を結んで、北方諸国へ硝子工芸品などを輸出して力をつけてゆきます。また、聖歴250年代に入るとペルソニアとの貿易も活発になり、ソファイアやラガン帝国などと争って南方貿易に力を入れることとなりました。
しかし、至高女王と呼ばれたエルザの治世が終わると、強力なリーダーを失った反動から後継者争いが激しくなり、国内諸侯の意見が割れるようになります。この頃からロンデニアの力は一時衰えを見せ、対外行動においても失策を重ねてゆきます。たとえば、大陸中央部への交易ルートの確保を模索して、フレイディオンの沿岸域にあったネリル連合(自治都市などの集合体)に侵攻しようとしますが、ネリル連合がジュレーヌ王国と手を結んだことから、この侵攻を成功させることは出来ませんでした。また、ルワールとは後に交易上の問題が起こり、当時その地にあった東メルレイン連邦国家はラガン帝国側へと傾くことになります。
これに伴い、一時的にアリアナ海での勢力が落ち込むのですが、聖歴329年にラガン帝国がセルセティアへの侵攻を失敗すると、再び勢いを盛り返すようになります。そして、ペルソニアに幾つかの植民地を得て、鉱産資源の採掘によって大きな発展を遂げるのですが、この間にブルム内海の監視が甘くなり、フェルディガン王国(現ユノス)の台頭を許すことになります。これに対して聖歴353年、ロンデニアは制海権をかけて争うのですが、ソファイアがフェルディガンに加担したためにこれに敗北して、ブルム内海の覇権をフェルディガン・ソファイアの連合に奪われることになりました。
この時の条約によって、ロンデニアはフェルディガン王国にエストルーク領を譲渡します。代わりにフェルディガン・ソファイアは、それ以後20年の間は同盟を結ばないことを約束しますが、内陸部への交易ルートを失ったことは、ロンデニアにとって大きな痛手となりました。そのため、これまで以上にアリアナ海やペルソニア貿易に力を入れると同時に、北部やその他の内陸国家にも警戒の目を向け、特に大陸との間にあるポラス海峡の守備を重視するようになります。
○ミュンフ王朝の終焉(聖歴353年〜402年)
その後、聖歴380年代になると、国王アルファリドが病床にあったため、長子であるアルティス王子が政治の実権を握るようになります。しかし、王子が海洋上での同盟を結ぶべくカルネアを訪れていた隙に、異母妹ジャクリーヌ王女による王位の簒奪が行われました。これは王子の幼なじみであり腹心であったラドック=ディルフリー伯爵の裏切りによるもので、彼に全権を委任していた王子は国外で孤立する羽目になったのです。
ブルム内海を通るのは危険が多いため、ロンデニアとカルネアを行き来するには西海を通る必要がありました。しかし、ジャクリーヌ王女は北島(大カルドレン島)にあるシェヴァリック王国出身の母を持つため、シェヴァリックはジャクリーヌに味方し、アルティスの王都帰還を阻みます。そのため、アルティスはシェヴァリックと不仲であるアルメアと盟約をかわし、その協力によってアルティス派の諸侯のもとへたどり着きます。そして、カルネアの力を借りて国外駐留隊の兵力を集め、ジャクリーヌ討伐軍を組織しました。
シェヴァリックおよびジャクリーヌ王女の軍は次第に劣勢となって、アナリシア島まで追いつめられます。まもなく首都アイリストールが包囲されますが、王族および領民全体が人質になった形となっていたため、アルティスはなかなか城壁を打ち破ることが出来ませんでした。しかし、裏組合によって逃がされていたアルティスの従兄弟カドル=ラハルト伯爵は、王族のみが知る通路から王城へと侵入し、ジャクリーヌを暗殺することに成功します。これによってジャクリーヌ派は内部から崩壊し、まもなくアイリストールは陥落しました。
ほどなくアルティスは諸侯の賛同を得て略式で王位を継承すると、軍を再編してシェヴァリック王国への侵攻を開始します。これにはアルメアおよびカルネアも軍を派遣しております。そして3年の戦いの後にこれを滅ぼし、現ロンデニア王国の全領土が統一されることになりました。これが聖歴392年のことです。この時、カドルはその功績を高く評価され、アルティス王からリーデンウェル地方にシャミール大公国と、新たにマルグリットの姓を与えられています。
混乱をおさめたアルティス王子は、そのまま譲位によって王位につくことになります。しかし、先の謀反に対する反動から制度の締め付けや粛正などが多く行われたため、諸侯の反発が強くなります。この時、カドルは諸侯との間に立って調整を行っておりましたが、そのために非公式の会談を繰り返したことで、反発した諸侯と親密な関係にあるのではないかと疑われ、後に疎まれるようになります。
カドルはこの仕打ちに怒り、諸侯を味方につけて貴族議会を主導すると、アルティス王を排斥して新たなる議会の設立を宣言します。そして聖歴402年には、これを拒んだアルティスを戦いの末に捕らえて塔に幽閉し、議会によってカドルが新たなる王として指名されました。なお、アルティスは後に近臣たちの手によって脱獄を成功させ、カルネアに亡命しております。しかし、彼は祖国の地を踏むことなく生涯を終えております。
○マルグリット王朝期(聖歴402年〜549年)
新設議会には海洋貿易で力をつけていた自治都市の商人や聖職者たちも参加し、貴族や国民の権利、それから言論の自由を認める王国憲章が採択されました。この際、下院の設置も認められ、有産市民による政治参加が行われるようになりました。これによって、ロンデニアでは議会の力が強くなり、政党に似た貴族連盟が政治の中心を担うことになります。
新たなる議会が創設されたものの、当初から貴族階級と有産市民階級との間には対立が見られました。また、税制などその他の制度改革を認めるかどうかについて、特権階級の中でも意見が一致することはなく、貴族連盟による議会の分裂状態が長く続いたために、やがて国政は麻痺状態へと陥ることになります。
そのため、カドルの孫エレアノールが女王として即位すると、王国は再び王権を強化する方向へとむかうことになります。王家は貴族の権力を弱めるために、自治都市や富裕農民に権益を与えて勢力の均衡を図ります。貴族たちがこの動きに反発し、国内の政争が続いたため、その後しばらく国外での勢力は衰えますが、王家主導の政治が上手く行くに連れてこれに迎合する貴族も増え、徐々に力を盛り返してゆくようになりました。
その後のロンデニアは、硝石(火薬の原料)を手に入れるためにルワール大公国の成立に手を貸したり、官僚や常備軍の整備に力を入れて絶対王政の基盤を作り上げます。また、再びペルソニアへの進出に力を入れ、聖歴490年代には幾つかの植民地を手に入れます。
しかし、貴族への官職の売買など不公正な優遇措置が執られるようになると、有産市民階級が多数を占めていた下院が激しく反発するようになります。後にこの不満の声は宮廷の浪費や専制政治に対しても向けられるようになりますが、次の王ジオールも同じような施政を繰り返し、有力貴族を中心とした寡頭政治への転向を押し進めたため、中産階級のみならず下級貴族(主に無領地貴族)をも敵に回すこととなりました。そのため聖歴514年、議会は国王に対する違憲立法審査権を備えた特別裁判所の設置を定める法律を通過させます。しかし、ジオール王はその決定を無視すると、武力によって議会を強制解散させて、その後5年の間、完全な専制政治を行うことになるのです。
議会はこれに対抗して、将軍であったゼローニア=ローレンスを首長として首都アイリストールを包囲します。ジオール王は王領であるブリッグスに移り内戦に踏み切りますが、小カルドレン島での決戦に破れ、最終的には議会派は勝利をおさめます。そしてジオール王は処刑され、聖歴525年に、ローレンスによる共和政権が誕生することとなりました。
しかし、ローレンスは革命後の混乱を収める手段を武力に頼り、徐々に独裁者へと変貌してゆきます。彼は自身が中産階級出身であることから、極端な重商主義政策を展開して富裕農民たちの反感を買うことになるのですが、彼らの意見を武力でことごとく押し込めてしまいます。また、政治参加を訴える無産市民による急進派の台頭を快く思わず、あくまでも都市の有産市民中心の政策を強引に推し進めてゆきました。こうして力をつけた有力商人たちは、王制や封建地主の権利を否定し、貴族領地への課税など封建的特権の廃止策を積極的に押し進めたため、革命に参加した下級貴族たちをも敵に回すことになります。
このような動きを見て、急進派は富裕農民と手を結んでローレンス派に対抗し、議会を通じて無血のうちに政権を手にすることに成功します。しかし政権を握った富裕農民たちは、海外との繋がりや資金を持つ商工業者たちが国外へ流出することを恐れ、ローレンスの支持者を過剰に排斥することなく、急進派や貴族たちとの間の調整をうまく行いながら、自らの地位を向上させてゆきました。
富裕農民は地方諸侯の反発を抑えるために、カルネアに逃亡したアルティスの血を引くウィンズリー家からジョセフ王を迎えて王制を維持しようとしました。自らの権益を守ろうとする貴族は王権の保護を支持し、国民もまたローレンスのような独裁政治への反動から、これを賛同するようになります。こうして再び王が即位しますが、その条件として貴族は幾つもの特権を失うことになります。ただし、上院議員の貴族枠を残したり、領地解体は有償で行われることになったため、不満はあっても反乱にまで至ることはありませんでした。
こうして聖歴549年には、現在まで続くウィンズリー王朝ロンデニアが成立することになります。なお、この時点で既に王権の殆どは政治とは切り離されており、実質的な権限を殆ど与えられない象徴的存在として君臨するのみとなりました。
○ウィンズリー王朝の治世(聖歴549年〜現在)
それからのロンデニアでは議院内閣制による政治が発達し、聖歴580年代までには現在の制度の基礎が整い、いちはやく近代国家へと生まれ変わることとなります。
その後、商工業の発展とともに国外市場の開拓をより推進する必要に迫られ、聖歴600年代には再び対外行動へと力を注ぎ始めます。そして、幾つかの国家と手を結んでアリアナ海やブルム内海で戦勝を重ね、再び無敵の海洋国家として海上での地位を取り戻します。聖歴669年には北方ファイン=ファウンドを手に入れ、この地に住む赤人を奴隷として本国に運び入れています。これはもともとカルネアと支配権を争っていた土地ですが、カルネアの革命軍と同盟を結ぶことで支配権を手に入れています。また、ペルソニアでは一時的に本国との繋がりを失った植民地総督が、長く独立領主として振る舞っていたのですが、これを武力で制圧して支配権を取り戻します。そして、ペルソニアでの軍備を固めると、聖歴700年代にはラガン帝国が多くを支配するペルソニア東部にも、少しずつ植民地を広げてゆくことになります。
このようにエルモア地方で屈指の強国として成長したロンデニアですが、カナン大陸への進出は未だ成し得ておりません。たとえば、聖歴633年にはユノスに住むシリーシア人が、独立を果たそうと北部で運動を起こし、民族を同じくするロンデニアもこれを支援しますが、ソファイアがユノスに味方したことで情勢は逆転し、多くのシリーシア人貴族がロンデニアに亡命することとなりました。
聖歴786年にはユノスで軍事クーデータが起こりますが、ユノスに支配されていたエストルークの自治州は同盟を結んで、翌年の787年にユノス内乱の隙をついて独立を勝ち取ることに成功しました。この革命が成功したのは、密かにロンデニアとの間に同盟が結ばれていて、ポラス海峡の通航問題に関するロンデニアとユノスの海戦が画策されていたためです。このエストルークとの同盟は、ロンデニアが大陸進出への足がかりを欲して行ったもので、独立後も積極的に内政に干渉しています。しかし、これに対してエストルーク国内では不満の声が上がっており、両国の間には溝ができつつあります。
また、聖歴786年には西海の横断に成功し、新大陸エスティリオを発見したことによって、国民はもとより政府の中でもエストルークから新大陸へと興味が移ろうとしています。さらには、今年に入ってから新大陸での領土問題が持ち上がり、同じく入植を開始したエリスファリアとの間で、小規模ですが海戦が行われるようになっています。この他にも、外海への進出を目指すライヒスデールやフレイディオン、それからカイテインの南方政策とも衝突するだろうことは明らかであり、大陸国家への干渉よりも新しい大型船の建造に国力を注がなければならない状況となっています。
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