王族・貴族
▼人物
歴代国王、至高女王「エルザ」、大鷲太子「オレアーニ」
○歴代国王:ウィンズリー王朝(聖歴549年〜現在)
国王 生没年(聖歴) 血縁 ジョセフ1世 513〜584年 ラピシス女王 572〜621年 ジョセフ1世の孫 ジョセフ3世 591〜646年 ラピシス女王の長子 ルース 614〜678年 ジョセフ3世の長子 アウルーラ女王 637〜695年 ルース王の第2子 ジェドリア 665〜711年 アウルーラ女王の第3子 シルフィス女王 687〜719年 ジェドリア王の長子 フェルケイ 689〜754年 ジェドリア王の第2子 メアリー女王 714〜770年 フェルケイ王の長子 リトマイア2世 743年〜(現46歳) メアリー女王の長子
○至高女王エルザ(聖歴212〜271年)
ミュンフ王朝時代(聖歴66年〜353年)の女王で、王女の頃から女傑として讃えられていた人物です。現在の海軍大国としてのロンデニアの基礎を築き、エルザ運河の建設を行ったことでも知られています。偉大なる至高女王(ハイ・クイーン)として今も語り継がれておりますが、アイリストールでは霧姫という呼び名の方が馴染み深いでしょう。
▼王都改造
エルザは若い頃から父王の片腕として政治的手段を発揮し、やがて王都改造を一手に任されることになります。彼女は高名な学者らと協力して計画を立て、マーム川、ミンキッシュ川、レスターファ川をエルザ運河によって繋げる一大工事を敢行し、エルザ=ロンドと呼ばれる大運河によって、北の港町とアイリストールを連絡させることに成功します。当時、幅50mに充たなかったレスターファの流れは、200mもの川幅を誇るエルザ=ロンドとして生まれ変わり、アイリストールの経済を短期間のうちに飛躍的に発展させることになるのです。
この際、川幅を広げるだけでなく、護岸工事や水門建設、そして上下水道の整備も同時に行ったために、全ての工事が完了する頃には、女王の座に就いていたエルザの引退も間近となっていたそうです。なお、彼女は自分の成し遂げたこの事業を何より誇りとしていたため、かつてミンキッシュ川が流れていた土地を埋め立てて造ったエルザ離宮で、隠居後の余生を過ごしております。▼霧姫
しかし、そんな彼女にも1つだけ予期できなかったことがあります。それは、エルザ運河を通したために、かつてはあまり見ることのなかった霧に、街が頻繁に覆われるようになったことです。このことから、彼女は霧姫様と呼ばれるようになり、エルザ宮殿の前の大通りは霧姫通りと名付けられることとなったのです。▼エルザ・ロンド
通常、単にエルザ運河と言った場合は、マーム川からの分流を始点とした全流域のことを指します。このうち、運河始点からミンキッシュ川との合流河川の終点までをエルザ・ステップ、レスターファ川が合流してからの河川のことをエルザ・ロンドと言います。
なぜ、エルザ・ロンドと呼ぶようになったかは諸説あります。運河の完成を祝して輪舞を踊ったからという話もあれば、河川の合流地点で渦を巻く水を見たエルザが、「まるでロンド(輪舞曲)のようね」と呟いたから、という逸話も残っています。しかし、歴史研究家たちの間で有力とされているのが、運河の設計を行った「ロンド=クリストフ」の名に因んで名付けられた、という説です。ロンド=クリストフは女王と恋仲にあったとされる人物で、運河が完成する直前に亡くなっています。後にも先にも、エルザと恋愛関係にあったのは彼だけだといい、彼女は生涯独身を通しています。▼死後
至高女王と呼ばれたエルザの治世が終わると、強力なリーダーを失った反動から後継者争いが激しくなり、国内諸侯の意見が割れるようになります。結局、エルザの後を継いだのは、彼女の甥(弟の遺児)であるパトリックでした。しかし、彼はあまり有能な王ではなく、この時期を境に王国は衰退してゆくことになるのです。
○大鷲太子オレアーニ(聖歴635〜677年)
オレアーニ王子は6代前の国王ルースの長子に当たる人物です。彼の掲げる隊旗には翼を大きく広げた鷲が描かれており、いつしか人々は大鷲太子と呼ぶようになりました。
彼は勇猛な武人であると同時に、非常に優秀かつ冷静な交渉家としての資質も備えていた傑物で、聖歴669年にはカルネアの革命軍と同盟を結ぶ手はずを整え、北方ファイン=ファウンド領を王国の支配下に置くことに成功しています。また、そのすぐ後にペルソニア植民地へと赴き、長く植民地提督の専横が続いていたベルナデル準州を再制圧し、新たな鉱脈を幾つか発見してロンデニアの工業化を推し進めました。
しかし、そんな彼も病には勝てず、ペルソニアで原因不明の高熱で倒れ、42歳で生涯を終えることになります。その死には不穏な噂がつきまとい、毒殺説や植民地の霊媒師による呪殺説など様々な話がありますが、実際のところは誰も知るところではありません。ただ、一般市民の人気は非常に高かったものの、職務には非常に厳しい人物であったことから、近しい者たちからは慕われてばかりいたわけではないようです。
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文化人
▼人物
春風の詩人「レミリー=レントン」、伝説の舞姫「ルーリア=デポア」、カラヴィレイジュ兄弟、天使の歌声「ウィリアム=メイリー」
○春風の詩人 レミリー=レントン(聖歴702〜768年)
淡く美しい光の世界を描き続けた詩人で、アイリストールで生涯を終えました。春風の詩人と呼ばれており、彼の詩を読了した後は、柔らかく薫る風が頬をくすぐり、野に咲く名もない花々が自然とまぶたに浮かんでくるといいます。
・関連:レントン氏通り
▼生涯
小カルドレン島の田舎町で生まれたレントンは、若い頃は国内を放浪しながら、道端で風景画を売って生計を立てていたようです。しかし、30歳も間近になった頃、言葉が織りなす音とリズムの世界に引き込まれ、絵に短編詩を添えて売り出すようになりました。
そのような生活を1年ほど続けた頃、彼に大きな転機が訪れます。いつものように道端で詩を添えた絵を売っていた時に、たまたま道を通りすがった詩人バイヤンの目に止まり、彼の才能が世に知られることとなるのです。突如文壇にあらわれたこの新人の作品は、著名な文筆家たちの激賞を受け、天才詩人としてまたたく間に世に知れ渡ることになります。わずかな期間でその生活は一変してしまうのですが、彼自身は決して驕り高ぶることはなく、その詩のように穏やかな人柄のままであったそうです。
その後も気ままな徒歩の旅を続けて、心に浮かんだままに詩を書き連ねる毎日でしたが、アイリストールを訪れた際に馬車に轢かれ、右手と右足に大きな怪我を負ってしまいます。そして、彼はしばらく入院することになるのですが、病院の窓から都市の風景を見ているうちに、この陰鬱な雰囲気のする街に、心の花を咲かせたいと思うようになるのです。
歩き旅を続けることが難しくなったこともあり、それまで方々の宿に逗留しながら暮らして来た彼は、40歳にしてはじめて自分の家を持って活動するようになります。噴水広場から流れる涼しげな水の音に惹かれて、彼は現在のレントン氏通りに居を定めます。そして、街の人々と触れ合いながら穏やかに暮らし、日常の中に隠れている小さな温もりを、一編の詩へと紡ぎ上げてゆきました。
聖歴755年には王国文学賞を受賞し、その5年後には王室から叙勲を受けます。その他、数多くの文学賞を得た彼ですが、老いには勝つことが出来ず、66歳で生涯を閉じることになります。彼が亡くなったのは、柔らかい光の射す穏やかな春の午後で、春風に包まれながら静かに眠りについたそうです。
皆に愛された春風の詩人の亡骸は、家のすぐ近くにある小さな教会に埋葬されました。住居は現在、国家が所有する「レミリー=レントン記念館」(春風館)として一般に公開されており、彼の直筆の原稿や若い頃に描いた絵などを見ることが出来ます。
▼限定情報
レントンが残した詩の中には、未発表のものも数多く存在しています。その殆どは短文詩として書かれているのですが、それらはとても彼の作品とは思えないほど全く意味が通らず、暗号ではないかと噂されています。
○伝説の舞姫 ルーリア=デポア(聖歴721年〜755年)
神に愛された最高の舞い手として知られる女性です。彼女はロンデニア随一の人気を誇るとともに、スキャンダルの絶えない女性でもありました。
若き日のルーリアには常に噂がつきまとい、前女王メアリーの王婿、つまり現国王の父であるエドワードの愛人だという話まで囁かれていました。実際のところ、彼女は非常に恋多き女性だったようですが、22歳の時に大富豪「ヨシュア=ベラリス」と結婚して、世間の声を袖にあっさりと舞台を降りてしまいます。しかし、退屈な結婚生活にうんざりするようになった彼女は、画家「リィン=ロイド」の情熱的なプロポーズを受けると、すぐに駆け落ちして行方をくらましてしまうのです。その後、地方で歌をうたって生活していましたが、まもなく夫ヨシュアに見つかってしまい、痴情のもつれのうちにリィンが殺されるという事件が起きます。
それから数年のあいだ失踪していた彼女ですが、27歳の時に突然、美貌もそのままに舞台にカムバックします。さまざまな噂や心ない中傷の数々を受けながらも、その円熟した技巧と扇情的な踊りは大絶賛され、再びナンバー1の舞姫の座に返り咲きます。しかし、その名声もピークに達した頃、彼女は自らの衰えを気にしはじめ、少しずつ舞台に立つ回数を減らすようになります。そして34歳の春、毒を混ぜたワインを飲んで、薔薇の花びらを浮かべたバスタブの中で永遠の眠りにつきました。
最後まで世間を騒がせた彼女ですが、その美貌と実力は疑いようのないもので、死後30年以上が経った今でも根強いファンがいます。その亡骸を埋めた聖フローレンス教会の墓には、早過ぎた死を悼むファンが献花に訪れ、彼女が愛した薔薇の花を捧げてゆくです。・関連:聖フローレンス教会
○カラヴィレイジュ兄弟
造詣の魔術士と呼ばれた兄の「エルランド=カラヴィレイジュ」(聖歴705年〜736年)と、色彩の魔術士と呼ばれた弟の「アルフレード=カラヴィレイジュ」(聖歴708年〜734年)の2人です。
兄弟ともに有名な建築家であり、その有機的な曲線を組み合わせた美しい造形は、カラヴィレイジュ様式と呼ばれています。2人は先天的に心臓を患っており、いずれも病で若くして亡くなっているため、現在では彼らが手掛けた建物はほんの数軒しか残っておりません。しかし、その人気は非常に高く、彼らが残した建物を見るために、アイリストールを訪れる者も少なくありません。・関連:ホテル「カサンドラ」
○天使の歌声 ウィリアム=メイリー(聖歴765年〜782年)
「天使の歌声」「イノセント・ウィリー」と讃えられた少年で、繊細で艶やかな美しいソプラノで大人気を博しました。また、絹のごとく輝く美しい金髪や雪のような白い肌、そして大きくつぶらな青い瞳と、その類い稀な容姿も人々の心をとらえて離しませんでした。彼を知る者は、とにかく美しい少年だったと口を揃え、続けて懐かしそうな目をしながら、とても穏やか優しい心の持ち主だったと言うのです。
・関連:レストラン&バー「黒真珠」
▼生涯
ウィリーは10歳の頃に唯一の肉親である母親を事故で亡くし、天涯孤独の身の上となりました。その後は、歌姫だった母が勤めていた「黒真珠」という店で下働きをして暮らすのですが、やがて店のマスターはこの少年の音楽の才能に気付き、店の舞台に立たせるようになります。そして彼の噂を聞き付けた、王立歌劇団に所属する若きオペラ歌手「ジョエル=ファンマイヤー」が来店したことで、その人生は大きな転機を迎えます。ジョエルの推薦を受けて王立音楽院を受験したウィリーは、見事にその難関を突破します。そして、専門の音楽教育を受けて才能を伸ばし、音楽院の養成科を主席で卒業すると、そのわずか3か月後には王立歌劇場の舞台に立ち、その名は瞬く間に国中に知られることになりました。
それから1年後、国内で活躍を続けるウィリーに、再び運命を大きく揺るがす出会いが訪れます。カルネアから彼を訪ねて来たのは、貴族の血を引く「アトレイユ=ロレンティナ」という名の少年で、ウィリーに自分が実の兄であることを告白しました。アトレイユの父「ヘイリー=ロレンティナ」男爵は、以前アイリストールに滞在していたことがあり、ウィリーの母親と恋人関係にあったというのです。しかし、ウィリーはその話を聞かされる前から、この少年との血の繋がりを実感していました。というのは、アトレイユの右の瞼から頬にかけて大きな傷があることを除けば、彼らは殆ど見分けがつかないくらいよく似た顔だちをしていたからです。既に父親のヘイリーは亡くなっており、カルネアの国内情勢が悪化していたこともあって、それからまもなくしてアトレイユはアイリストールへと移り住みます。そして、その頃ウィリーが住んでいた、彼の後見人であるジョエルの屋敷に、しばらくのあいだ身を寄せることになりました。
しかし、その年のウィリーの誕生日、3人の同居生活は唐突に終わりを迎えます。ウィリーの胸をナイフで貫き、少年の時間を永遠に止めたのは兄のアトレイユでした。そして彼もまた、ウィリーに被いかぶさったまま、全身を血に濡らして亡くなっておりました。2人のすぐ近くにはジョエルが倒れており、咽に大きな傷を負った姿で使用人に発見されるのですが、すぐに医師が駆け付けて手当を行なったため、どうにか一命を取りとめます。ジョエルは全て自分の責任であるとだけ言い、事件についての詳しい証言は避け、1人で罪を被ろうとしたといいます。しかし、現場の状況や使用人の話から、少なくともアトレイユがジョエルを傷つけた後に自殺したことは間違いなく、ウィリー殺害も彼の犯行とされ、事件はそれで幕を降ろしました。
その後、ジョエルは音楽の一線から身を引き、屋敷を引き払って姿をくらましてしまいます。そのため、事件の真相について巷では様々な噂や憶測が飛び交い、中には非常に下世話な話もあったそうです。しかし、真実がいずれにせよ、それらの噂によってウィリーの美しい歌声が汚されることはなく、永遠の天使は歌劇界の伝説として、これからも人々の心に生き続けることでしょう。
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