ビックリハウスは、なにがビックリだったのか

text by 水本犬太郎
 

この原稿は、1997年に宝島社から出た、『別冊宝島 雑誌狂時代』のために書いたものです。


 教科書サイズ雑誌の
 オルタナティブとして

 教科書サイズの雑誌、というのがある。ちょうどこの『別冊宝島』と同じ大きさで、ちっちゃくて、中に字がぎっしり詰まっている感じの雑誌のことだ。
 この判型の雑誌は『文藝春秋』をはじめとする総合誌から、文芸誌、各種の専門誌、はては同人誌まで、今もあい変わらずいろいろなものが出ている。このサイズの雑誌は、日本の雑誌文化の大きな一つの流れととみていいだろう。
 六〇年代後半から七〇年代にかけて、この「教科書サイズ」雑誌の一群の中に、カウンター・カルチャーが流れ込んでくる。そのなかには『宝島』などのアメリカ流ライフスタイル誌から、『思想の科学』のような一風変わった思想雑誌までがあったが、これらの雑誌はどれも、手垢の付いた『文藝春秋』的総合雑誌とは違う、オルタナティブな雑誌づくりを目指していた。とはいえ、そこには何らかのオピニオン性、世に向かって何かを訴える、といった共通の姿勢があったことは確かだろう。
 平凡出版(現マガジンハウス)や集英社によって、相次いで新しいタイプのビジュアル雑誌やファッション誌が創刊され、雑誌の誌面が華やかになっていく一方の時代に、あえて、小ぶりのサイズに字をぎっしり詰めたこれらの新しいオピニオン雑誌の一群は、きっと異彩を放っていたに違いない。
 『ビックリハウス』という雑誌は、そういう雑誌の流れの中で登場した。だから、『ビックリハウス』という雑誌にまつわる幻想のすべては、じつはそれ以前の「教科書サイズ」がもっていた幻想と切り放せない。しかも、もしかしたら『ビックリハウス』は、これらの「教科書サイズ」のオピニオン雑誌に込められた幻想を解体する自爆装置を抱えた雑誌だったんじゃないかとさえ思う。

 ポップな表紙イラストは
 まるで誘蛾灯だった

 『ビックリハウス』の創刊は、一九七五年の一月。表紙は佐藤憲吉と原田治。このほかペーター佐藤、鴨沢祐仁ら、新進イラストレーターを起用したポップで都会的な表紙は、この後ずっと『ビックリハウス』のトレードマークとなる。今見ても、不思議と古びた感じがしないこの表紙は、誘蛾灯のように多くの読者を惹きつけたことだろう。
 僕が熱心な読者だったのは一九八〇年をはさんだ数年間だけだったが、『ビックリハウス』は創刊から廃刊までの十年間、表紙に関してはほとんど同じイメージを貫いた。当時、東京郊外に通う高校生だった僕が初めて『ビックリハウス』を手に取ったのも、都会的でしゃれた表紙に惹かれてのことだった。この雑誌と同じようにして出会った人は多いはずだ。
『ビックリハウス』の初代編集長は詩人・萩原朔太郎の孫で、劇団・天井桟敷のスタッフでもあった萩原朔美。それが後に名物編集長で「アッコちゃん」と親しまれる高橋章子に代わる。創刊時は渋谷のタウン誌だった。タウン誌というのも懐かしい言葉だが、今で言う「情報誌」が街ごとにあったようなものだ。これらの雑誌のうち、七〇年代初頭に創刊された『ぴあ』『シティロード』は次第に多くの読者を獲得し、メジャー化していった。『ビックリハウス』が創刊されたのは、そんなタウン誌文化花盛りの時代でもあった。
 しかし『ビックリハウス』は、これらのタウン誌のようにインディペンデントではなく、西武資本がスポンサーとしてついていた。パルコという新しいタイプの百貨店を拠点に、渋谷を文化・消費都市として再編しようとする西武の企業戦略の中で、道先案内役、あるいは「若者文化」の情報発信基地、みたいな役割を『ビックリハウス』は期待されていたんだろう。


 ビックリハウサーという
 恐るべき子供たち

 ところが、『ビックリハウス』はその期待を裏切るかのように、まったく違った雑誌として成長してしまう。
 いまの若者向け雑誌に必ずあって、『ビックリハウス』にない要素は、「これを買え」「あれを買え」といった、商品に関するカタログ情報だ。それに、本来タウン誌としてスタートしたはずなのに、お店情報もなければ、コンサートや映画などのイベント情報もない。『ビックリハウス』の読者は、この雑誌を買ったことで、一銭たりとも渋谷の街で消費支出を行わなかったはずだ。
 とにかく、金をかけずに手間をかけること、下らないことを心底楽しむこと、チープで面白いことを偏執的なまでに追求すること。それが『ビックリハウス』の美学だった。そういうことを別の言葉では「企画力」という。雑誌づくりに企画力が必要なのは当然だが、『ビックリハウス』はその企画力のパワーだけで作られていたといってもいい。
 しかし、金をかけず、手間をかけてものごとを楽しめるには、特異な才能を要する。それが可能なのは、実際「金をもっていない」人間で、暇な人間だけだろう。そして、その条件に当てはまったのが、十代の中学生、高校生だった。『ビックリハウス』は、その世代を中心とする読者たちの投稿によって成立していた。
 編集する側としては、金をかけられないから投稿に頼ったのだろうが、この時代にはラジオの深夜放送などに象徴される、素人がメディアに参加し、そのポジティブ・フィードバックによってどんどんそのメディアの力が大きくなっていくという、九〇年代のインターネットと同じような現象が社会のあちこちで起きていたのだ。

 よいこのホームルーム
 としての『ビックリハウス』

 僕がもっとも熱心に『ビックリハウス』を読んでいたのは、高校1年のときだったと思う。年齢でいえば(僕は早生まれなので)十五歳の時だ。読んでどこが面白かったのかどうか、今ではよく思い出せない。
 『ビックリハウス』の読者参加のページは、「純粋投稿型」(ビックラゲーション、全国流行語振興会、教訓カレンダー)、「課題提出型」(今月のポーズ)、「イベント型」(全国高校ジャンケン選手権、エンピツ賞)といったいくつかパターンに分かれていた。
 何度か投稿したこともあるし、二度ほど採用されたこともあるから、恥ずかしながら、ビックリハウサーの末席を汚していたりもするのだが、積極的な読者ではなかった。パソコン通信でいえば、ROM(リードオンリーメンバー)というやつだ。もっとわかりやすくいうなら、ホームルームの時間に、あまり積極的に手をあげない生徒だった、といえばいいだろうか。『ビックリハウス』にはどこか、自意識の距離感をしっかり計って発言しないと、とてつもなく恥ずかしい思いをするぞ、という敷居の高さみたいなものが感じられたのだ。
 そう、実際『ビックリハウス』は雑誌の形をとったホームルーム、あるいは生徒会だったといってもいいんじゃないだろうか。あの生徒会的(もっと正確にいうと文化祭実行委員みたいな)感じが、最後まで僕が『ビックリハウス』に入れこめなかった理由だった。『ビックリハウス』をやめて『宝島』に切り替えたのも、学校の中だけで騒ぐことから、「ストリート」(恥ずかしいけど、使ってしまおう)的な風通しよさの方へ、出ていきたかったからだと思う。
 よいこのホームルームとしての『ビックリハウス』というテーゼは、糸井重里が『ヘンタイよいこ新聞』をはじめた頃から、はっきり前面に出てきた。橋本治、栗本慎一郎、浅田彰といった八〇年代前半のイデオローグたちがこのホームルームをとりしきってたセンセーたちだった。学校でいえば、生徒と友達みたいに話してくれる非常勤講師みたいな役回りだろうか。どこか戦後民主主義の純粋培養皿みたいなところが、たしかに『ビックリハウス』にはあった。

 もう『ビックリハウス』
 なんていらない

 ようやく話が冒頭の「教科書サイズ」に戻ってきた。これらの雑誌が教科書の大きさと同じなのは、まったく偶然というわけではなくて、実際それらが「教科書」的に使われていたことのあかしだ。少なくとも、これらはどれも学校的・戦後民主主義的な発想から作られていたのだ。ただし、そのなかで『ビックリハウス』という雑誌が違っていたとしたら、その教科書にはひとこと、「自習!」と書いてあるだけだったことだ。それに、『ビックリハウス』は、ほかの教科書サイズ雑誌より、ちょっとだけ縦の寸法が長いのだった。だからその分オシャレだった。
 何をやってもいいといわれた自習時間だから、子供たちは勝手なことをした。でも、誰かが「この時間は自習時間だ」と言ってくれなかったら、なにもできない不自由さのなかに、『ビックリハウス』の読者がいたことも事実だ。
 そんなことを考えていたら、神戸の中学生のことを僕は連想してしまった。少なくとも彼は、誰からも言われないままに、自分だけの遊びを見つけ、そのことをひたすら社会にむけてアピールしていたんだろう。でも、誰も彼の芸に喝采をあびせてはくれなかった。
 もし『ビックリハウス』があった時代に、彼が中学生だったら、きっと常連投稿者になっていたんじゃないか、と思う。
  『ビックリハウス』という雑誌がいま伝説化しているということが、僕にはよくわからない。当時読者だった人間にとって、『ビックリハウス』というのは、「卒業してしまった学校」のようなものだから。
 「あの自習時間楽しかったね」「あの先生、すてきだったね」「あの子、可愛かったね」といった、他愛のない同窓会のノスタルジーみたいなものなのだろうか。それならいいんだけど、もしかして、とも思う。『ビックリハウス』という雑誌をまったく知らない世代の若い人たちの間にまで、『ビックリハウス』幻想が生まれているのだとしたら、ちょっとやっかいだ。
 サブカルチャー幻想の多くは、「学校の頃は楽しかったね」という一言に集約できてしまう。でも、そんな「楽しかった過去」をいっさい持たない世代が育ってきていて、そんな彼らにとっての幻想の理想雑誌が『ビックリハウス』なんだとしたら、僕はその人たちにためらわずいいたい。
 「ビックリハウス』は、ただの空っぽの箱だった、と。何も書いてない白紙の紙だった、と。誰も住んでいない建物だった、と。
 何もないところにこそ、あらゆる幻想が入り込む。だけど、『ビックリハウス』という雑誌は、それまでいろんな幻想をふりまいてきたすべての教科書サイズ雑誌のパロディとしてだけ意味があったんだ。それ自体はなんでもない、ただのおふざけ雑誌だった。だからこそ、そこで誰もが思い思いに好きなことをしてただけだ。
 『ビックリハウス』の再来が待望される時代なんて、不幸な時代だと思う。白紙の紙ならどこにだってころがってる。人の住んでない家だって、いまなら探せばどこかにあるだろう。もしどうしても『ビックリハウス』がほしければ、自分で作ればいいんだ。
 今度は企業の金抜きで。

copyright 1997 Mizumoto Kentaro/Sora tobu kikai

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